Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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九州本部部会 広布の主体者たれ

1968.3.18 「池田大作講演集」第1巻

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1  私も皆さん方も、お互いに栄えある、日蓮大聖人のご遺命である広宣流布、王仏冥合に向かって、前進しております。それはだれのためでもない。大聖人の子供として、弟子としての真剣な、真心からの戦い以外のなにものでもない。その、皆さんのたくましい活躍に対して、御本仏日蓮大聖人も心から喜んでおられるでありましょうし、その称賛と功徳も絶対であると、強く確信していっていただきたいのであります。(拍手)
2  勝敗を決する最大の要因は人の和
 九州の皆さんは、日本の国内で、距離的には東京から最も遠く離れたところで、広宣流布のために戦ってくださっているわけであります。
 だが、私にとっては、東京の本部でいつもそばにいる人々よりも、こうして、遠く離れた土地で、折伏に指導に戦っている皆さんのほうを、何倍も何十倍も、大事に思っているかしれません。私は、皆さん方をはじめとして、違く目の届かないところで戦っている人達のことを思って、日夜、真剣に題目を唱えております。(拍手)
 どうか、仏法の世界には、不公平ということは微塵もないことを、知っていただきたい。
 このたびの戦いは、非常に苦しい戦いであります。だが、こちらが苦戦であるということは、他党も同じく苦しんでいるということであります。
 アメリカの開拓者として有名なウィリアム・ペンは「苦痛なくして勝利なし。茨なくして王座なし。苦患なくして栄光なし。受難なくして栄冠なし」と述べております。
 この若き開拓者の叫びを、私どもの戦いにあてて読んでおきたい。真実の、新しい時代の民衆の勝利も、仏法民主主義の高い次元の王座も、絶対的幸福の栄光も、広宣流布の栄冠も、茨らの道を切り開いて勝ち取る以外には絶対にないということを知っていただきたい。(抽手)
 九州の皆さん方も、体を大切にし、また仕事をしっかりやりながら、私とともに大いに頭張っていこうではありませんか。(拍手)
3  なんといっても、勝敗を決する最大の要因は、人の和にあることは古来の鉄則であります。
 私どもは、最も強い人の和をもった、地涌の菩薩の勢力であります。それに対して他党は、いずれも本質的に自己の利害が中心であり、真実の団結の絆は、どこにもないといっても、過言ではないと思います。
 したがって、私どもは、どこまでも、お互いに理解しあい、守り合って″団結″を合い言葉として、異体同心の戦いを、このまま、きちっと続けていくならば、絶対に勝利を勝ち取ることができると確信して、進んでいっていただきたい。(拍手)
4  全員が座談会や家庭指導、折伏の第一線に
 今、ベトナムにおいて日夜、激烈な戦争が展開されております。アメリカは、はるばる太平洋を越えて何十万人もの青年を送り込んでいる。これと、南ベトナムの政府軍とを合わせるならば、相当な兵力となります。
 しかも、装備は、アメリカの巨大な富と産業に裏づけされた、最も科学的なものであり、時代の先端をゆく軍隊であります。ところが、これよりはるかに兵員も少なく裝備も貧弱な、解放民族戦線や北ベトナム軍に、圧迫され続けているのが実情であります。
 特に、本年の旧正月以来、各地の米軍、南ベトナム政府軍は、猛攻撃のうけどおしであります。もとより戦争である以上、勝敗は、戦術の上手下手、敢闘精神の強弱等々、種々の問題がからんでいるのは当然であります。
 だが、この苦戦を分析してみると、ここに大きな原因の一つとして考えられることは、数十万人の米軍のうち、実質的に第一線で戦っているのは、その五分の一にすぎないといわれていることであります。あとの五分の四は、交代で休暇をとったり、補給や、連絡、指揮にたずさわっている人達で占められているのが実情なのです。南ベトナム政府單も、だいたいこれと同じ形態になっているそうです。
 それに対して、解放戦線、北ベトナム軍は、指揮官も、前線で銃弾を浴びながら指揮をとっているし、補給、連絡にたずさわる兵隊も、全て戦いながらやっている。いいかえれば、ほとんど全員が第一線の闘士であり、銃後で安閑としている人員はない。私は、ここに彼らの最大の強味があると思うのであります。
 第一線で戦っている者が、戦いの経験のないまだ子供のような兵隊で、あとの熟練した兵隊は後方の危険の少ない陣地で悠々と指揮をとっている――これでは第一線の兵隊は、命がけの戦いなど、ばかばかしくてできるものではありません。また指揮官についていえば、後方に陣取っていて、第一線の正確な状況がつかめるわけがないし、的確な作戦、指揮をとれる道理もありません。
 同じことは、私どもの活動についてもいえるのであります。理事、大幹部をはじめとして、全員が座談会や家庭指導、折伏等々、第一線に出て足を棒のようにして歩き、活動に励んでいかなければ、勝利は望めない。
 戦いに臨んでは、幹部の肩書きや、形式を一掃し、全員が裸一貫の人間性に立ち戻って、実力で勝負をしていくことが大事なのです。学会員一人一人が民衆一人一人と話し合い、信心をわからせ、誤りを正し、立派な学会員に育て、また学会のよき理解者としていくのです。
 この地道な、力強い生き方を立派に成しきっていける人が、真実の地涌の菩薩であり、真実の学会幹部であるといいたい。(拍手)
5  一瞬の油断、小さな失敗が、大きな影響をもつ
 もう一つ申し上げておきたいことは、戦いに臨んでは一瞬の油断、小さな失敗が、非常に大きな影響をもつということであります。これだけの大軍が動いているのだから、こんな小さなことは問題ではないだろうと思うところに、思いがけない敗北の原因がひそんでいるということであります。
 一人の人の無神経な指導、一人の人の学会精神からはずれた言動、また油断からくる失敗が全九州、全学会に傷をつけ、全軍の停滞を招き、同志に不信感を与えてしまうことになりかねない。最も恐るべきものは、こうした内部に生ずる油断であり、失敗であるといっても過言ではありません。
 なかんずく、学会幹部の生き方は、決して立身出世主義であってはならない。創価学会は信心の団体です。立身出世型の人物は、自分一人が偉くなろうとして同志をかえりみない。その人のもとにいる学会員は、最も可哀想です。
 私は、学会員を最も大事にします。全学会員を、そして全民衆を幸福にするための創価学会の幹部であります。その大事な学会員を下に見て、えらぶり、虚栄をはり、名利をむさぼろうとする者は、断じて獅子身中の虫であり、その行動は学会利用であると、強く申し上げておきたいのであります。(拍手)
6  清らかな信心に智恵が湧現
 結局、戦いの根本、要諦は信心に尽きる。信心に始まり信心に終わるのです。その信心とは、創価学会を支え、守りきるという責任感であり、後輩を思う真心であり、そしてまた、大目的のために断じて勝つとの一念であると思うのですが、いかがでしょうか。(拍手)
 そこに初めて、仏智の湧現が必ずあるのです。秋元御書には「信心のこころ全ければ平等大慧の智水乾く事なし」との有名な一節があります。
 「信心のこころ全ければ」とは信心が強盛であれば、信心が清ければということであります。
 「平等大慧の智水乾く事なし」とは一切を平等に、偏頗なく、正しく、的確に見通して、適切な処置をとっていける智恵、その智恵の水が常に生命を、潤し、乾くことがないとの御金言なのであります。
 信心に曇りがあるならば、智恵の水が乾いてしまう。それでは、人間性に潤いがなくなり、形式主義に流れ、増上慢になり、権威主義に陥り、全てが空回りとなって、人々を苦しめる結果になってしまいます。信心が清ければ、我が生命には常に智恵の水が流れ通い、妙法の名将として、民衆の真実の指導者として、立派な、悠々たる指揮をとっていくことができるとのご聖訓であります。
 どうか、このような信心を根本として、ガッチリとスクラムとスクラムを組み、秩序ある、しかも怒濤の勢いをもって、九州の先駆を切っていただきたい。(拍手)
7  「幸福」の問題について
 話は変わりますが、先日、ある新聞で東京大学の哲学の教授が「幸福」の問題について論じておりました。その要旨は、昨今、マイホームやマイカーなど、いわゆる快適な生活を求める風潮が強いが、幸福とは、そんな外面的な楽しさをいうのではないという論じ方でありました。
 その一部を引くと「外面的な楽しさはただ移ろいゆくものであり、決して我々の生活の内面をささえてくれるものではないであろう。実際、我々が数日の間でも、ただ外面的な楽しさを追って、したい放題にレジャーを楽しむという生活を送るとき、そこに何か知らぬ空虚さがポッカリと口をあけるのに気がつくのではないであろうか」と書いております。
 更に「幸福とは、もっと内面的なものである。生活の充実感である。そして、この充実感は我々が何かに全身をこめて打ち込むというところにはじめて生じてくるのではないであろうか。我々の生活を顧みて、なすべきことをなしているという自信を持ちうることこそ、我々の生活の幸福を内面からささえてくれる唯一のものであろう」と論じています。
 私どもの立ち場でいえば、外面的幸福は、戸田前会長のいわれた相対的幸福の範疇であり、内面的幸福こそ、絶対的幸福の範疇になるわけであり、この点からいって、この教授の論旨には私も全く同感であります。
 だが、それでは、生活の充実感を内奥より生み出す根本はどこにあるか――この点が非常に大事になってくるのです。「何かに全身をこめて打ち込む」というけれども、その「何か」をどこに見いだすのかと訴えたい。また、自分が生涯をかけて打ち込もうとする対象自体が、あまりにもうつろいやすく、不安定ではないかといいたい。
 現代人の大部分が、そこに大きな疑問をもち、悩んでいるのが実情ではないかと考えるのであります。したがって、結論していうならば、今、真に全身を打ち込む確固たる目的をもっているのは、私ども創価学会の同志のみであるといっても過言ではない。(拍手)
 すなわち、末法の御本仏日蓮大聖人のご遺命を奉じて、王仏冥合の達成、全民衆の救済のため、そしてまた、崩れれざる世界恒久平和実現のため、日夜、全魂を打ち込んで戦っている私どもこそ、生命の奥底からき出る充実感をもった真実の幸福者であると確信してまいろうではありませんか。(拍手)
8  また、その教授は、ドイツの哲学者カントの例を引き「かれは他人に対しては幸福を望んだが、自己に対して完全性ということをその努力の目標とすべきであると考えた」ともいっております。
 私どもの立ち場でいうならば「自己の完全性」とは人間革命であり、一生成仏といえましょう。更に「他人に対して幸福を望む」ということは、人々を幸福にしようとする慈悲の折伏行であり、民衆救済、大衆福祉の実現といえます。また、それ以外にカントのいわんとした理想の実体は考えられないのであります。
 したがって私どもは一生成仏、王仏冥合実現のため、不惜身命の決意と、実践をなしていくところにこそ、過去の哲学者が指摘し、理想とした、真実最高の幸福の実体があることを自覚して、誇り高く人生をし、若武者のごとく次の目標にしていこうではありませんか。(拍手)
9  広宣流布は″人″によって決まり、人によって実現
 最後に百六箇抄の一節を引用したい。それは「法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し」の文であります。「法自ら弘まらず」とは、いかに正しい宗教であっても、大白法であっても、なにもしないで弘まるわけがないという仰せなのであります。広宣流布は、根本においては、ご仏智であることは当然である。しかし、これをし成就していく直接の原動力は、弘めるべき人であり、これなくしては、絶対に広宣流布はできないとの仰せなのであります。
 したがって「人法を弘むる故に人法ともに尊し」と結論されているのです。人が法を弘めるが故に、その弘める人も、人間革命され、尊い存在となる。またそれによって、正法が燦然と輝きを増していくとのご遺言なのであります。
 折伏なくして、また広宣流布の諸活動なくして、人間革命はなく、正法の偉大な力を実証することはできない。
 広宣流布は必ず人によって決まり、人によって進められ、人によって実現していくのであります。その御文によっても、日夜、折伏に、指導にと活躍している私どもこそ、広宣流布の主体者であり、仏法の主体者となるということを知っていただきたい。(拍手)
 したがって、広宣流布の舞台を、更に開いていくか否かは、私どもの一念が決していくことはあります。幹部の私どもの″人″によって決まっていくことも明確であります。まことにありがたい御文であり、また身の引き締まる厳しい御文でもあります。
 いよいよ広宣流布の大事な峠がやってまいりました。私どもは、今こそ永遠の大福運を積む時であり、法のため、人のため、平和のために立つべき時と決然と自覚して戦い、ともに我が生命のなかに、広宣流布の戦いの日記帳に、金文字の勝利の記録をつづっていけるように頑張っていこうではありませんか。(拍手)
 皆さん方のご健闘と、ご繁栄をお祈り申し上げまして、私の話とさせていただきます。(拍手)

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