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日蓮大聖人・池田大作

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第17回男子部総会 諸君の手で一切の総仕上げを

1968.11.17 「池田大作講演集」第1巻

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1  「栄光の年」と、ともどもに命名したこの一年間、広宣流布の一つの上り坂を見事に上りきることができました。私は、この険しき苦闘の坂道を勇敢に切り開いてくださった諸君に対し、心より感謝するものであります。(大拍手)
 私は一年ごとに、師子王のごとく立派に、雄々しく成長していく諸君の姿を見ることが、なによりも楽しみであり、喜びであり、生きがいなのであります。私は諸君の健康と成長を、ただひたすらに大御本尊に願いきっていく決心であります。どうか、来年の男子部総会を目指して、更に友情のきずなを強め、再び広宣流布の偉大なる一歩前進のため、敢闘してくださることを切にお願い申し上げるものであります。(拍手)
2  人材の建設、組織の建設、自己の建設
 きようは諸君と懇談的に静かに語り合いたい。まずはじめに、来年度をなんの年と命名するかを相談したい。私どもの最大の念願であった本門の戒壇たる正本堂の大殿堂は、昭和四十七年完成を目指していよいよ着工され、工事が始まりました。まさに来年は、建設の槌音が高らかに鳴り響くなかに迎える最初の年であります。また、創価大学をはじめ、創価青年会館、聖教本館、そして各地の文化会館も建設されていく年でもあります。なお、私はかねてより「青年とは建設なり」ということを主張してまいりました。そこで、昭和四十四年度は「青年の年」とするとともに、人材の建設、組織の建設、自分自身の建設の意義を含めて「建設の年」と名づけたいと思いますがいかがでしょうか。(大拍手)
 賛成の人は手を上げてください。(全員手を上げる)
 二十紀に入って、今日にいたる現代史の流れをみても、人類は過去二度にわたる凄惨な破壊に遭遇してきております。第二次大戦終了後、世界の人々は、もう二度とこのような破壊を経験したくない、未来にあるのは建設の喜びだけでありたいと考えた時期がありました。しかし、今なお破壊の悲劇は幕をおろしてはいない。いや、ますます破壊力は高まり、もはや全人類の生存をさえ脅かすまでになっております。
 ひるがえってみるに、人類悠久数千年の歴史は、破壊のあとに必ず建設があり、破壊と建設の流転の歴史であったとも考えられる。ところが、核兵器の出現した現代においては、破壊はもはや次の建設をともなわない。この地球上に、二度と再び建設の槌音が聞かれなくなることも十分予想されるのであります。
 したがって、人類の営みは破壊と建設の流転の歴史といっても、最終的に破壊に向かう限り、結局″破壊への歴史″であるといっても過言ではない。この破壊への歴史を変えて、平和と栄光の二十一世紀の世界建設へと向かわしめることこそ、まさに現代に生きる我々に課せられた最大の命題なのであります。
3  本門戒壇は人類の生命の座
 今ここに、正本堂建設の槌音が全世界に鳴り響き始めたことは、時代そのものが破壊より建設へと向かう象徴であり、原動力であると、私は深く確信するものであります。一閻浮提総与の大御本尊まします本門戒壇は、人類三十五億の″生命の座″であります。人類の、そして人類文化の新しい生命が、ここより、脈々と流れ始めようとしているのです。これは必然の流れであります。それなればむしろ、この時の利をとらえて我々の力で断じて流れ始めさせていこうではありませんか。(大拍手)
 今、私どもの周辺には、破壊を最上とし、目的もなく暴れている青年もおります。しかし我らの革命は破壊にあらずして建設の革命であります。どうか諸君は、建設という時代のリズムにし、自分自身の建設、社会の建設、新世紀の建設に全力をあげて、再び邁進していっていただきたい。(拍手)
4  信の対象は人格を左右する
 先日、ある大学の哲学教授の著書にこんなことが書いてあった。「キリスト教は十字架が信仰の対象である。それは、十字架にかけられ、血を流して死んでいった教祖の姿である。キリスト教徒は、そうした無残な教祖の姿を信仰の対象(すなわち本尊)とすることによって、しぜんのうちに教祖であるキリストをそのようなめにあわせた異教徒に対する怒りと憎しみの念を助長させずにはおかない。現代文明の危機は、このようなキリスト教のつくった憎悪の人格が、非常に発達した科学技術と結びついている点にある。これからの時代の宗教は、慈悲の教えである仏教でなくてはならない」――大要こう述べております。
 私はここでキリスト教を批判するものではありませんが、本尊の問題を考えるうえでの一つの例として、引用したわけであります。もとより、この教授の想定している仏教は、釈迦仏法の範疇を出ないようではある。しかし、一応、内外相対のうえからいっても、この意見は正しいと思う。特に興味深く感ずるのは、本尊によって、それを信ずる者の人格、性質が影響されるという考え方であります。このことについては、諸君達は、仏教の感応妙の原理としてすでによくご存知だと思います。
 ヨーロッパの歴史をひもといてみれば、事実、キリスト教は、流血と、残虐の生命を呼び起こしてしまった宗教であるといっても過言ではない。
 たとえば、初期のローマ時代には、幾多の民衆がキリスト教信仰の故に過酷な弾圧をうけ処刑されております。これは異教徒によって加えられた弾圧の悲劇でありますが、その後、教権が確立してからは、キリスト教自身の手で流血、残虐を巻き起こしているのであります。たとえば、中世においては、十字軍遠征によって、幾多の青年が戦場に倒れていった。また異端裁判と称して、たくさんの無辜(罪のない意)の民衆が、残虐このうえないやり方で殺されております。中世から近世への転換に際しても、宗教戦争という大量虐殺の悲劇が繰り返されてきた。
 更に、中世以降の植民地主義も、その根底には、アジア・アフリカの非キリスト教民衆は、キリスト教徒であるヨーロッパ人のために、どんなめにあわされても、当然のことなのだという考え方があったといわれる。また、キリストを殺したユダヤ人を憎むことは、ヨーロッパの歴史に一貫して流れている現象であります。
 これらは、いずれもキリスト教の思想、なんずく″十字架″という本尊が、民衆に感応し、それによってもたらされた悲劇であるといえるかもしれない。
5  御本尊は字宙の極理
 こうした実例が示すごとく、いずれにせよ、本尊とは、必ずそれを信仰する人の生命に、強い、深い影響を及ぼし、その人格を決定づけていくものであります。
 本尊とは根本尊敬、すなわち、根本として尊敬するものとの意味であります。およそ宗教とは、信ずるという問題を体系化したものであり、各宗教には、その信仰体系の極理、縮図、またシンボルとして各種の本尊があるわけであります。
 日蓮大聖人は、仏法の生命哲理、法華経哲学の究極の原理を、一幅の曼荼羅としてあらわされ、これを本門の本尊とされた。
 かつて戸田前会長は「もったいない言い方であるが、御本尊は幸福製造機といえる」とたとえられたことがありました。ちようど、一台のテレビが、電気工学、電磁理論のいろいろな原理を応用して作られるように、御本尊は、生命のあらゆる原理を体系化し、縮図化して、一幅の曼茶羅にあらわされているのであります。
 テレビに使われている電気工学、電磁理論も、その全てを説こうとすると、かなりの分量の本になる。同じく、御本尊の原理、哲学的裏づけの一切を説くとするならば、それは膨大な量になることは必定であります。御本尊の一大秘法を開けば三大秘法となり、その三大秘法が更に六大秘法にひろがる。そして、最後は八万法蔵となるというのは、この道理をいうのであります。
 すなわち、八万法蔵、更には一切法といっても、それらは全て大御本尊の説明であり、せんじつめれば、一切法は御本尊に帰着することを知っていただきたい。そして、あたかも理論や原理はわからなくても簡単にテレビを操作できるのと同じように、たとえ仏法哲理は知らなくても、ただ純真に御本尊をだきしめ、題目を唱えるという実践によって、御本尊の力は現実の生活のうえに、歴然と現われてくるのであります。
 このように、御本尊こそ、日蓮大聖人の大生命哲学の極理であり、まさしく三千年にわたる東洋仏法の真髓なのであります。
 私どもの信心、仏道修行といっても、所詮、この御本尊を心より信じ、心豊かに題目を唱えて、生涯、妙法を受持しきって、社会、人生の価値創造、すなわち、一切の平和と幸福への建設に生ききっていくことにほかなりません。
 日寛上人は「観心本尊抄文段」の最後の結論のところで「我れ等此の本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即一念三千の本尊、蓮祖聖人なり」と仰せられている。御本尊を信じ、題目を唱えていくならば、我が身が即、事の一念三千の御本尊の当体となり、もったいなくも、日蓮大聖人の生命が湧現するとの仰せであります。
 すなわち、完全に大御本尊と境智冥合していくならば、大御本尊と同じ力、日蓮大聖人と同じ力が湧いてくるのである。故に、一切の人生活動にあって、またしき社会にあって、解決できない悩みは絶対にないというのが、大聖人の仏法なのであります。(大拍手)
 結局、自分自身が無上の宝珠たる御本尊そのものである、というのであります。凡夫以外のなにものでもないこの自分自身の当体が、久遠元初の自受用身たる日蓮大聖人のご生命であるとは、なんと喜び身にあまる仰せではありませんか。(拍手)
 これ以上の生命の尊厳、これ以上の人間主体の確立、これ以上の福運と栄光に満ちた人生は絶対ないと私はいいたい。(大拍手)
6  大願とは御本尊の流布
 私は、きたるべき二十一世紀は「生命の世紀」であると主張してまいりましたが、この「生命の世紀」とは、とりもなおさず、生命の本源をあらわされた三大秘法の御本尊が、全世界に流布する世紀、それによって人類が前代未聞の活力を発揮し、人生を謳歌できる世紀であるとの意であります。今、世界を覆っている憎悪と抗争の暗雲を打ち破り、人類進歩の低迷を吹き払う根源は、御本尊流布以外には断じてない。この妙法の太陽にさんさんと照らされた世界の樹立こそ、苦悩に沈む全世界の民衆に、真実の幸福をもたらす究極の大道なりと私は確信したい。(大拍手)
 私どもは、法華流布、すなわち本尊流布を大願としてこの世に出現した地涌の菩薩であります。故にこの大願を忘れて我が人生の意義はありえない。したがって、諸君は、この大願を自覚して、生涯、法華流布という今世の使命達成のために、一直線に私とともに勇ましく前進しきっていただきたい。(大拍手)
 生死一大事血脈抄に「起は是れ法性の起・滅は是れ法性の滅」との御文があります。
 秋の訪れとともに木々が色づき、枯れ葉が散っていくのも、冬が過ぎ去って再び春がきたり、草木が新しい芽をふき、やがて緑の葉を茂らせていくのも、全て南無妙法蓮華経の働きであります。私ども人間生命の有為転変、生死起滅も全て南無妙法蓮華経の作用にほかならない。この万物を変化し、流転させる本源の法――それを過去、多くの哲学者、思想家達はなんとかしてとらえようとし、さまざまに思索してまいりました。だが、その結論は全て抽象的な″神″だとか″理性″だとか″真理″だとかいうのみであって、真にその実体をとらえた人はいない。ただ、日蓮大聖人お一人が、この字宙の本源の法を悟り究められ、それを具体化して大御本尊として、あらわされたのであります。
 私どもは御本尊を受持し、信じて南無妙法蓮華経と唱えることにより、この大宇宙、生命の本源の法と境智冥合することができ、我が身がそのまま南無妙法蓮華経の当体とあらわれる。これによって生命の法則、大宇宙のリズムにかなった生活になっていく。故に「起は是れ法性の起・滅は是れ法性の滅」――すなわち一切の願業、欲望、理想を実現し、達成していくことができる原理であり、願いは全部かなっていく方程式である。
 また「滅は是れ法性の滅」――いかなる悩み、苦しみ、過去無始以来の罪業といえども滅しないわけは断じてなく、「罪として減せざるはなし」の法力が厳然と現われてくる。
 今度はこれを、社会、世界に約するならば、戦争や飢餓や、貧乏等の諸悪はみな妙法流布によって滅することができ、真実の平和と、豊かな恵まれた幸福世界を樹立していくことができるとの原理であります。
 この″起滅″の現象を起こしていく究極の当体は、ただ三大秘法の大御本尊以外には絶対にない。これを堅く信じていただきたいのであります。そして、本尊流布にあって、誰人が批判し押えようとも、後世の人類が必ずや心から感謝することを確信して、更に幅広く、団結を深くして、秩序ある大行進をしていこうではありませんか。(大拍手)
 次に、いつも申し上げていることではありますが、将来の指針として五項日に要約して申し上げたい。
7  第一に『広宣流布は、今や名実ともに総仕上げの段階に入っている。かかる重大な驚異すべき時は、過去の歴史にかつてなかった。今こそ、この″時″を肝に銘じなければならぬ』
 今から十七年前の秋、昭和二十六年九月、恩師戸田前会長は、当時の我々青年部員に対して、「青年訓」を与えられ、何をいかになすべきかという指針を示してくださった。その冒頭で「新しき世紀を創るものは、青年の熱と力である」と叫ばれました。
 「新しき世紀」とは、広宣流布達成の時にほかならない。今、正本堂建立の槌音が高くこだまする時代に入り、まさに新しき世紀の幕が眼前に開かれようとしている。これを自覚するとき、諸君は、歓喜と緊張をもって″勝って兜の緒をし締めて″凛然として、最後の、そして新たなるスタートについていただきたいのであります。(拍手)
 ともかく、青年部諸君の真の熱と力とを、各部署において思う存分に発揮すべき時であるといっておきたい。そしてホームストレッチにあっては、いかなるささいな蹉跌もあってはならない。かかる″時"の重大さをよく知っていただきたい。
 詮ずるところ、日蓮大聖人の妙法が、断じて虚妄でないことを、古今東西にわたって実証すべき時である。牧口初代会長、戸田前会長をはじめとする、幾多の先輩の苦難を、ことごとく実らせていく時であるという決心で進んでまいろうではありませんか。(大拍手)
8  第二に『妙法の革命児はいかなる魔にも勝たなければならぬ』
 古来、数千年の人類の歴史における全ての革命は、苦難に耐えつつ、勇断をもって勝ち取ったが、魔との戦いを敢行したものは一つもない。したがって、流血の悲惨を生み、同胞の殺りくをともない、また革命が成就した後の社会も″夢に見た社会″とはならなかった。
 妙法による私達の偉大な宗教革命の実践は、これまでの全ての革命が意図して達成できなかったものまでも、達成することができるのであります。それは、所詮、この地上を支配している魔、宇宙の魔、法界の魔との戦いを根本としているからであります。この意味において、私達の革命は、本質的には、いかなる過去の革命にも似ていない。すなわち、前代未聞の偉大な誇り高い革命といわなくてはならない。
 故に、己心の魔に打ち勝つことなくして、どうして妙法の革命児として誇ることができようか、と申し上げたいのであります。(拍手)
 社会の魔を、厳しく魔として見破る眼力なくして、どうして妙法の革命児と自負することができましょうか。
 妙法の利剣をみがきにみがき、現代社会の一切の苦悩に精通し、恐るべき魔との戦いに凱歌をあげるには、着実にして果敢な折伏の怒濤のごとき実践しかないことを知るべきである、と申し上げたいのであります。(大拍手)
9  第三に『広宣流布、宗教革命といい、第三文明建設、また、王仏真合の実現といい、全ては妙法を種としての壮大な実現である。折伏を等閑に付しては一切は無に帰す』
 我が日蓮正宗創価学会の偉大な存在理由は仏意によるものであり、純粋に化儀の広布を目指しているからであります。故に折伏なくしてはたちまち、その存在理由を失うことは自明であります。
 師子王の子たるものが世間の軟風におかされ、一身の虚栄や栄達に身をまかせ、折伏精神を忘却するならば、一瞬にして仏の行を凡夫の行にすりかえたことになってしまう。それは獅子身中の虫となり、永遠の破減を招くことになるでありましょう。
 靑年部諸君の未来に輝く栄光の人生は、とりもなおさず、折伏精神の実践、すなわち、慈悲に満ちた仏の子としての信行学の実践によってのみもたらされることを、強く確信していただきたいのであります。その実践は、学会の血脈に生き抜く信心のもと、厳しくも、また暖かく、地についた実践でなければならない、と申し上げておきたい。
10  第四に『きたるべき世紀の主体者は、若くして妙法を受持する、今の青年諸君である』
 私も会長に就任して、来年は十年目を迎えようとしている。諸君への一切の訓練は終わったつもりです。諸君も″卒業した″という自覚に立って、今後の戦いに臨んでいただきたい。
 十年といえば、中学三年間、高校三年間、そして大学四年間の合計十年と同じである。したがって、広宣流布の一切の総仕上げは、全ての訓練をうけた諸君の手でやっていただきたい。これが私のいつわらざる心境であることを知ってほしいのであります。(大拍手)
 諸君の主体となるべきものは妙法である。妙法の組織を離れて、主体者として育つことは絶対にできない。組織に生き、組織を身をもって守り、和合僧の実践者とならなければならない。私達のこの尊貴な組織は、広宣流布を容易にするための唯一の効果的な組織であり、全学会員の成仏のための組織であります。
 断じて、幹部が威張るための組織でもなければ、なにかを強制するための組織でもない。また要領をつかう組織でも、卑屈にへつらうための組織でも決してない。皆が安心して、撥剌と信心に励むための組織であります。
 これに対し、他のあらゆる団体の組織は官僚主義の悪弊を免れなかった。また現に免れていないことは明らかです。いかなる善意の組織といえども、その主体が妙法なき凡夫であったが故に、そうした悪弊を回避することができなかった。
 学会が妙法を主体とする組織である以上、いかなる人といえども御本尊の前においては、ことごとく平等であるはずであります。慈悲広大の仏は決して差別を好まない。私達の組織に役職があるのは、成仏への脱落者をつくらず、全員が幸福への直道を進み、強固な団結をもって、魔との戦いにことごとく勝利するためであるということを、私は未来のために遺言として申し上げておきたいのであります。(拍手)
11  第五に『未来に希望を実現する諸君の確信に満ちた人生は、確信に満ちた信心よりおこるものである』
 信心にはウソがあってはならない。惰弱であったり、虚飾があってはならない。いかなる難に立ち向かおうとも、真面目に妙法を実践する信心の深さ、強さだけが、確信に満ちた人生を築くであろう、と私は申し上げたい。
 日蓮大聖人は、ご在世当時の模範とすべき青年弟子の一人、南条時光に次のようなお手紙をくださっております。「そもそも今の時・法華経を信ずる人あり・或は火のごとく信ずる人もあり・或は水のごとく信ずる人もあり、聴聞する時は・つばかりをもへども・とをざかりぬれば・すつる心あり、水のごとくと申すは・いつも・たい退せず信ずるなり、此れはいかなる時も・つねは・たいせずとわせ給えば水のごとく信ぜさせ給へるかたうとし・たうとし」と。
 広宣流布の潮は、今、とうとうと水音高く流れ始めております。とうとうとして流れ始めた時代を迎えたともいえる。青年部の諸君の一人一人の信心の水は、やがて大河となり、全ての三障四魔を破るべき勢いをもって流れていくでありましょうし、流れきっていっていただきたいのであります。(拍手)
 それには一人一人の信心の水の流れが大事である。一人一人の信心の水の流れを断じて止めてはなりません。(拍手)
 現下の世界にあって、多くの前途ある青年が、残念にも妙法を知らず、現代社会に対する不満から、自らを破壊のための起爆剤として身をさらしている。これこそ末法の様相極まれりというべきであり、広宣流布の近きを示す瑞相でもある、と私はいいたいのであります。(拍手)
 妙法を主体とする青年部の諸君! きたるべき新世紀の建設の大舞台に、私と苦楽をともにし、再び精魂をかたむけて戦い進んでください。(大拍手)
 最後に日達上人貎下のいよいよご健勝であられますことを、全信徒に代わって心よりお祈り申し上げ、我が愛する弟子、実質の学会の後継者である諸君の人生の前途に、栄光よ輝きわたれと念じつつ、私の話を終わる次第であります。(大拍手)

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