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日蓮大聖人・池田大作

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第31回本部幹部会 若き世代で新しい舞台開こう

1968.5.3 「池田大作講演集」第1巻

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1  五月の花曇りの本日、ここに、総本山より日達上人貎下のご来臨を賜わり、また多数の御僧侶ならびに親しい来賓をお招きいたしまして、全国の代表幹部の皆さま方とともに、第三十一回の本部総会を、楽しくたくましく挙行できましたことを、私は心から感謝申し上げるものであります。(拍手)
 本年は、昭和四十年より四十七年までの七年間にわたる″第六の鐘の、ちようど四年目に入ったわけであります。したがって本年を境として、いよいよ後半戦に入ったことになります。私も更に決意を新たにし、いつそう勉強に励み、元気で広宣流布の新しい舞台を切り開いてまいりますので、よろしくご支援をお願いいたします。(拍手)
 このときにあたり、私は恩師戸田前会長が、立宗七百年に詠まれた「恐るるな仏の力は偉大なり 若き血潮にたぎらせて立て」また「信ぜかし偉大の力は御仏ぞ 祈りのかなわぬ事はなきなり」との歌を思い起こすのであります。
 今まさに、仏法の本源の地である我が日本の広宣流布の爛熟期を迎えんとしております。この時にあたって、私どもは、この恩師の歌の通りに、更に青年のごとき若々しい信心、情熱、英知をもって、新しい時代の新しい建設者として、思い上がった邪悪な既成勢力の厚い壁に断固挑戦してまいろうではありませんか。(拍手)
2  正本堂の着工式
 まず初めに総本山の現況について申し上げます。正本堂建立は、すでに昨年十月十二日に厳粛にして盛大なる発願式をとりおこない、更に本年二月十六日には墓地の御遷座法要を行なって、現在、着々と新墓地の造成工事を進めており、やがて八月いっぱいで完了し、九月中には納骨堂をはじめとする全墓地の移転を終える見通しとなっております。
 この墓地移転工事と並行して、墓地のすぐ横(東)を流れている御塔川の河川付け替え工事も進めております。そして昨年の建立発願式から一年を経た本年の十月十二日、整備を完全に終えた正本堂の敷地において事実上の着工式を行なうはこびになったことを、ここにつつしんで、皆さん方にご報告申し上げる次第であります。(拍手)
 この正本堂の建設には、ご承知のごとく、その画期的な意義にふさわしいジョイント・ベンチヤー方式がとられますが、この工事を行なう六つの建設会社には、本年六月末に最終的な正本堂の青写真を渡す予定になっております。
 そして四年後の、昭和四十七年十月の落慶大法要を目指して、洋々たる世界平和の黎明を告げる法華本門の大戒壇が、槌音も高らかに建設されていくわけであります。各人が、このあいがたい時に巡り会った無量の福運と、使命の達成を我が身の最大の誇りとして、更に朗らかに、そして威風堂々と、人生を謳歌しながら、新社会の建設に前進してまいろうではありませんか。(拍手)
3  なお私は、さる昭和四十年五月三日の本部総会において、総本山大石寺の土地が、過去五年間に、十二万から、六十四万坪に増えたむねをご報告申し上げました。その後三年を経て、昭和四十三年度現在では、実に百六万六千六百八十二坪になりましたことを、あわせてご報告申し上げるものであります。(拍手)
 また寺院の数は、本日まで三百六か寺に発展いたしましたことを、ともにご報告申し上げるものでございます。(拍手)
 私達は、満六十六歳の誕生日を迎えられてますますご健勝であられる六十六世日達上人貎下のもと、更に総本山に報恩の誠を尽くし、また寺院建立五百か寺の目標実現に、全力をあげて歓喜のご奉公をいたすことお誓い申し上げようではありませんか。(拍手)
 また正宗の御僧侶方は、これだけのご奉公に邁進する信者の一人一人を、心から全力をあげて大事にしていただきたいということを付言しておく次第であります。
4  創価大学、四十六年開校めざす
 次に、世間の注目の的である創価大学の設立を、当初の計画より一年早めて、昭和四十四年四月二日の起工事、そして昭和四十五年中に第一期の工事を完了し、昭和四十六年四月開校の目標で進めてまいりたいと思いますが、本日、皆さん方の賛成があれば正式にこれを決定させていただきたいと思います。賛成の方は手を上げてください。(全員手を上げる)それでは、満場一致で可決といたします。
 創価高校は、さる四月八日に第一期生の入学式を行なって、輝かしい栄光へのスタートを切りました。この新入生が三年間の高校生活を終えるのが、ちようど四十六年三月になります。
 もちろん、創価大学ができたからといって、創価高校の卒業生が全員、創価大学に進学するとは限りません。将来の構想は、総合大学として、規模も大きくしてまいりますが、まず最初は文科系の学部を設置し、学生数も、少数精鋭でスタートし、そして遠い将来へかけて、徐々に理工学部、医学部等を増設し、拡大していきたいと思っております。したがって、最初は理工学部、あるいは医学部関係を志望する人は、創価大学へ入ることはできないわけであります。
 いうまでもなく、教育は、次代の日本を、世界の動向を決定していく、最も重要な事業であります。しかし、これまでの我が国では、政治家や指導者達が、あまりにもこの問題に対して無関心であった。のみならず、かえって政治の支配下におこうとし、あるいは教育を政争の具にしようとして、種々のか強化されていくうすら見受けられる。もしもこのままでいけば、大学教育はますます権威を失墜し、混乱し、無力化していく以外にはないと私は心配しております。
 ここに、理想的な教育のあり方を具現し、ひいては、教育界の姿勢を抜本的に正していく資格と使命をもったものこそ、初代牧口会長、戸田前会長よりの深い思索と実践の伝続に生きる我が創価学会であり、創価大学であると確信するものであります。(拍手)
5  特に大学は、一国の文化の母体であり民族の精神文化の結晶でなければなりません。現在、名実ともに世界的な大学といわれているイギリスのオツクスフォード大学、ケンブリッジ大学、フランスのパリ大学、アメリカのハーバード大学などは、もとをただせばいずれもキリスト教の神学研究を中心にして、ひたすらに真理を追究する最高学府として創立されたものであります。
 もとより、歴史の経過とともに学問の自由が確立され、自然科学、人文科学、社会科学等の多方面にわたる学問の進歩の結果、現在は神学研究は影がうすらいでおります。だが、こうした宗教的精神の伝統は、今なお、これらの大学構内に教会堂が設けられている事実、学生達が食事の時間には全員で祈りをげるという姿のなかに厳然と残されている。キリスト教に対する宗教批判の問題は別として、ヨーロッパの大学がいずれもそうした精神的支柱をもち、崇高な理想を追究する使命感に貫かれてきたことは事実であり、そうしたなんらかの精神的支柱があってこそ、真の大学といえると思うのであります。
 ひるがえって、我が国の大学の歴史をみるに、ご承知のごとく、代表的な大学は東京大学でありますが、その前身は旧幕府時代の洋学の中心である開成所と医学所であった。それが維新後、政府直轄の教育機関として復興され、明治十年には合併して法学、文学、医学、理学の四学部で東京大学となったわけであります。その目的は、徳川三百年の鎖国による遅れを取り戻すために、西欧文明を急激に吸収し、国家のために働く人間をつくりだすことにあった。したがって、その建学の精神は、本来あるべき大学の崇高な理想精神とは、はるかに遠くかけ離れたものであったといわざるをえない。
 この東大創立にみられる後進性は、現在の東大にも依然として根強く残っているという学者もおります。私は東大を出ていないのでいうのでは決してありません。(笑い) この性格は、その後できた他の大学にも、広く深く浸透しているといわれております。私は現在の大学教育の限界をここにみるのであります。
6  二十一世紀への人材を育成
 もとより、大学が社会に貢献し、国家、世界の進歩・発展に役立つ人材を育成することを目指すのは当然であります。大学といえども社会、国家の現実から遊離したものであってはならないことはいうまでもありません。だが、真に役立つ人材とは、単に知識や技術に優れた人間ではない。それだけであっては、国家社会の巨大なメカニズムの一部を構成する部品にすぎない。真に望まれる人材とは、高い理念をもった優れた人格者であり、豊かな個性をもち、そのうえで学問、技術を使いこなしていける革新的にして創造的な人間であると考えますが、いかがでありましょうか。(拍手)
 この意味において、日蓮大聖人の立正安国の精神、色心不二の大哲学を根底とした創価大学を、私どもの手で設立することの意義が、いかに大きいかということを知っていただきたい。
 ただ、いかなる大河といえども、源をさかのぼれば小さな流れであります。松下村塾も小さな私塾であった。しかし、吉田松陰の教育は、近代日本の幕あけとなった明治維新の動向を決定したのであります。時を論ずれば現在もまた脱工業化社会への開幕の初めにあたっております。だが創価大学も最初は少数精鋭で、間口もあまり広げず、着実に堅実に基礎を固め、十年、二十年、五十年先を目指して建設を進め、そして二十一世紀への知性、理性の開発に貢献できる人材育成の学府をつくりあげることが、私は最も正しい行き方であると思っております。
7  明治百年とは世代の交代
 本年の初めにも中し上げましたが、今年は、近代日本が黎明を迎えた明治元年、すなわち一八六八年より、ちようど百年目にあたっております。
 この百年間の歩みをどう評価するかという歴史観の問題については、さまざまな立ち場から種々の論議があると思います。だがそれはさておいて、私がここで述べたいと思う大事なことは、この百年という一つの大きい節を迎えて、日本民族はこれから先いかなる道を歩むべきか、いわゆる曲がり角に立っているといわれる現時点を、どうとらえるかということであります。
 今、明治百年の論議を表に押し出して、復古調的な反動的な機運を盛り上げ、右傾化の道をたどろうとしているのが保守政党である。それに対し、この呼びかけを打ち破るべき決定的な論拠が今の革新政党にはない。
 その一つの理由は、これら革新諸政党の最高幹部が、いずれも明治人によって占められていることにあるとみることができる。
 歴史の曲がり角にさしかかっているといわれる現代の状況について、ここに私なりの考えの一端を述べるならば、その変貌遂げつつある実体とは、単に政治面だけでもなければ教育面だけでもない。もっと根本的に日本の文化それ自体であり、その文化の根底をなす思想・哲学でになある。すなわち、あらゆる文化の担い手が、明治の思想によって生きてきた古い人々より、戦後の新しい民主主義によって成長した、新しい人々に移りつつあることを意味しているのであります。
 私は、この実体を″世代の交代″であるとみるのです。
 この観点から振り返ってみるならば、学会の主流は、昭和生まれの青年であります。公明党議員も大部分が昭和生まれ、または大正生まれの人々であります。更に学会には、学生部、高等部、中等部と、もう一つ若い世代が力強く続いております。
 この学会の若き、大哲学によって立つ生き生きとした生命力こそ真の革新であり、未来の日本の希望あふれるリーダーシップの象徴であるとともに、新しき文化の興隆の源泉であると、私は確信していきたいのであります。(拍手)
8  全民衆の基盤に立った大文化を
 およそ文化とは、人間生命の具体的開花であり、全社会的な祭典であり、人間の心のなかに高まる英知、情熱、感動を具現した、価値創造の活動それ自体であります。かつまた、それによるあらゆる資産を意味するものであります。
 したがって、文化の本質は、人間生命、精神の開発にあることは、当然であります。「文化」を英語で「カルチャー」というのも「耕す」という意味であり、人間の心を耕すことによって、その耕され、成長した人間精神が、今度は外に向かって働きかけ、未開発の分野を耕して前代にまさる高度な価値を生み出していく。そこに、文化の伝統と意義があることを象徴しているのでありましょう。
 そして、この文化の主体者たる人間の心を耕し開発する思想・哲学を、宗教というのであります。
 トインビーが「マルキシズムは宗教である」と断定しているのも、その哲学的高低は別として、マルキシズムも宗教と同じく、マルキシズムなりに人間精神を変革し、つくりあげていく作用をもっていることを指して、このようにいったと思われます。
 今、明治以降、大正、昭和の戦前までの日本を考えてみますと、指導者は、民衆の心を国家主義のスキで耕し、科学的な妥当性を欠く国家神道の種を植えつけていったということができる。だがそれらの理念は独善であり利己主義であり、時代の進運に背を向けた復古であり、世界に通ずる理念ではなかった故に、遂に敗戦という破局を招いてしまった。
 それに引き続いて戦後、日本は民主主義国家として、いくら、新しく生まれ変わった、と叫んでも、その指導的任務につき、リーダーとなったのは、みな前と同じ明治人であった。これでは、中身はそのままで、外側のレッテルだけ変えたといわれてもやむをえない。
 新しき建て物は、新しき材料でつくらなければならない。これは動かしえない道理であります。新しい日本の文化は、新しい理念をもった新しい世代が、一切の中枢となって創造し、改革し、担っていく以外に断じてない。(拍手)
 しからばこの新しき理念、哲学、思想とは何か。私は、これを結論していうならば、日蓮大聖人の色心不二の大生命哲学であり独一本門・事の一念三千の大仏法哲理なりと主張したいのであります。(拍手)
9  御書にいわく、「法華経は種の如く仏はうへての如く衆生は田の如くなり」と。
 人間生命の限りなく豊かな活力を発現し、未曾有の大文化の花を咲かせていく根源は、妙法の種を、民衆の生命に植え、仏界、仏の生命という、本然の力を伸ばしていく以外にない。これは抽象論でも観念論でもなく、現実に一千万の人々が如実に証明しておるではありませんか。(拍手)
 偉大なる文化は、偉大なる宗教の土壌があって初めて芽ばえ、成育し、豊かに実を結ぶものなのであります。過去にも、釈迦の仏法を根底としてインド、中国、日本、または東南アジア諸国に幾多の文化が栄えてまいりました。
 特に、日本文化の最初の黄金時代を現出した天平・白鳳・飛鳥文化は、大陸より移入された仏教がその源泉であったことは、有名な事実である。下って、貴族文化の極を示した平安朝文化もまた、像法の法華経広宣流布を土壌として開花したものであります。
 今日、世界の大半をしている西洋文化も、そのもとをただせばキリスト教を根底にして進んできた文化であり、その他、アジア、アフリカにまたがって、イスラム文化圏があり、東南アジアには小乗仏教による独自の文化が根強く残っております。しかし、現在において、キリスト教、イスラム教、小乗仏教等は、その哲理においても実践形態においても、いずれも、もはや青年の心を開発するなにものをももたぬことは、明白になってきてしまいました。そしてただ、大乗仏法にのみ心をひかれて、これを求める機運が、欧米の知識人・青少年のあいだに高まっている現実をみるにつけて、いよいよ三大秘法広宣流布の時きたる感を深くするものであります。
10  現代は大衆の時代であります。過去の小乗・迹門の文化は王侯貴族や僧侶の文化であった。キリスト教を根底とする西洋文化もはブルジョア文化にほかならなかった。マルキシズムは、これをプロレタリアートの手に移そうと意図したが、結果は、党および官僚の、新たなる特権階級を助長したにすぎなかった。
 所詮、理知にめざめ、人間としての自覚をもった、全民衆の基盤に立った永遠に崩れざる大文化は、生命を奥底より開発する日蓮大聖人の三大秘法の仏法を根底として、初めてされると私は思う。すなわち、我らが提唱する第三文明こそ、二十一世紀への人類文化の新しき潮流なりと、私は確信したいのであります。(拍手)
11  核保有国よ 一堂に会して平和会議を開け
 現在、ベトナム戦争は、わずかながら和平の気配をみせ始めておりますが、本当の意味での終結にはまだはるかに遠い感があります。
 いわんや、戦場はベトナムだけではない。中近東にも、ベルリンにも、朝鮮にも、いつ火を吹くかわからない戦争の危機がひそんでおります。ある軍事評論家は、仮にベトナム戦争が今すぐ終わったとしても、おそらく今度は朝鮮で再び戦争が始まるだろうともいっております。
 それほど今の世界はあまりにも不安定であり、破滅的危険が充満しております。こうして、通常兵器による戦争、抗争が行なわれている最中にも、頭上には恐るべき核兵器が、ダモクレスの剣のようにじっと待機し、全人類の生命を一瞬に奪い去ろうとしているのであります。この点については、小説「人間革命」のなかで縷々書いておきましたが、人類はもはや、戦争と平和の問題について考える場合、なによりもこの核兵器の存在を無視することは、絶対にできないのであります。
 したがって私は、平和への提言の第一として、米・英・ソ・仏・中の核保有五か国は、早急に一堂に会して、核兵器の製造、実験、使用を禁ずること、ならびに現在保持している核兵器き廃棄することについて、真剣に話し合いをすべきである。そして、この会談実現のために、世界最初にして唯一の被爆国、我が日本が、平和を願う全世界の民衆の総意を結集し、リーダーシップをとっていくべきであると訴えたいのであります。(拍手)
12  これまでも、米・英・ソの、いわゆる核兵器先進国のあいだでは、一九六三年に部分的核実験停止条約という、核に関する条約が取り決められております。だが、その条約のねらいは、核を、これら先進国の独占物としようとしたものであった。また、現在、国連を舞台にして、米ソのリードで、核拡散防止条約という、一部の核兵器保有国に一方的に有利な不平等条約の提案があり、それをめぐって、討議が行なわれております。
 しかし、こんな中途半端なものではなく、今度は、全保有国が集まり、更に、そこに世界の原子物理学の権威者等も交えて、平和のために真剣に話し合ってもらいたい。私は、これこそ、どんなに優れた兵器を開発し装備し、あるいは集団安全保障体制をつくるよりも、はるかに抜本的で間違いのない、おのおの自国の安全保障に通ずる有意義な大事業であるといいたいのでありますけれども、皆さん、いかがでしょうか。(拍手)
 現在でも、戦争については幾つかの取り決めがなされております。たとえば毒ガスや細菌等のCB兵器を使用してはならないとか、捕虜を虐待してはならない等は、国際ルールとなっています。それならば、これと同じように、なぜそれ以上に恐るべき核兵器禁止の申し合わせをしないのか、こういいたいのであります。
 戦争ほど愚かなものはないし、しかも現代戦争はその性質上、たとえ勝ったとしても、決して得をすることはない。このことは、現在のヨーロッパの国々をみれば明瞭であります。
 欧州において、今、最も繁栄しているのは、第二次大戦で敗れたドイツであるといわれております。没落つづきで最も惨めなのは、戦勝国のイギリスであります。
 また、戦争に直接関係しなかったスイス、デンマーク、スウェーデン、なお一時、ナチに占領されたとはいえ、ノルウェーなどは、ひたすら国内の充実に力を注いで、最高に恵まれた福祉国家をつくっております。イギリスにせよ、フランスにせよ、第二次大戦では勝つたものの、その後もエジプトや、アルジェリア、インドシナなどで、植民地維持のため民族主義弾圧の戦争を行ない、莫大な国費を注ぎ込まなければならなかった。それが大きい疲弊の原因であるともいわれております。
 今、アメリカもまた、ベトナム戦争に膨大な金を注ぎ込み、国際収支の悪化からドルの権威の著しい失墜を招いていることは、周知の通りであります。こうした戦争の経済性の問題はともかくとしても、我々は慈悲の実現を目指す仏法の立ち場から、全人類の生命の尊厳を守るために、断固、戦争を排除し、真実の恒久平和を樹立することを強く訴えきっていこうではありませんか。(拍手)
13  今こそ生命の世紀の夜明け
 ここで私は「生命の尊厳」の問題についてその最も進歩した理念を明らかにしておきたい。およそこの世において、生命ほど尊いものはないし、いかなる財宝といえどもその効果を発揮させる能動者は生命であります。したがってその生命なくしては財宝自体にはなんの価値もない。しかるに、人類数千年の歴史をかえりみるならば、それはまさに弱肉強食の闘諍の反復であり、平和を願う民衆の声、生命の尊厳を叫ぶ先覚者の声は、いずれもことごとく、無残にも踏みにじられてきたのであります。これでは人類の姿は、今日なお畜生界の境涯から一歩も出ないといわざるをえない。
 確かに人間は、緻密で創造性に富んだ、すばらしい頭脳をもっている。また、幾多の発明、発見をもって、文明と生活の向上をもたらしてきたことも事実でありましょう。だがその半面において、優れた頭脳が殺りく手段を生み出し、遂には人類三十数億を一瞬にして抹殺する核兵器をつくりだすにいたったのであります。これこそ、一切の土台となるべき人間の精神面が、全く貧弱かつ未開発のまま、その上に巨大な建造物を次々とつぎたして建てていった悲劇であるといわざるをえない。
 二度にわたる世界大戦で、ほとんど全世界に及んだ殺りくと破壊の悪夢は、このゆがんだ文明の一つの現われでもあったと思うのであります。かくして現代は、魔の手の巨大化に対応して、かってないほど、広く真摯に人間生命の尊厳が叫ばれるべき時代となったといえましょう。
 もとより、人間性の尊重は、古今、幾多の賢人、聖人によってうたわれてきました。しかし、それらはごく少数の人々にしか浸透せず、世界化して時代を動かす力ある思潮とはなりえなかった。すなわち、いつの場合においても信仰上の対立、民族間の反目、国家間の利害、あるいは階級対階級の憎悪と葛藤の嵐のまえには、たちまち吹き飛ばされてしまったのです。
14  しかるに現在は、生存権への叫びは、もはや一部の人々の主張だけにとどまらなくなった。多くの民衆にをもたらした第二次大戦という現実を裏づけとした心の底からの人間生命尊厳の叫びが、全世界のあらゆる階層よりわきおこり、時代を動かす力をもちはじめている。
 私は人類史の流れからみて「現代」の時代的本質は、無知と貪欲に支配された悲惨と残虐な暗黒の世紀から、人間の英知と善意による平和と尊厳の栄光の世紀への偉大なる分岐点であるとみるのであります。否、核兵器の出現した今日、なんとしても我々の力で、仏法の力によって人類の理性を呼び起こし、将来の人類の崩れない幸福と平和と安泰を築き上げ、後世の人類から心より感謝されていく先駆の大法戦を遂行しておきたいのであります。
 そして、生命の尊厳を本源より自覚し英知を開いていく道は、もはや過去の観念論やまた、観念的宗教や、唯物哲学には絶対ありえないのであります。否、むしろ、これらこそ現代世界の対立と憎悪とを招き、ますます人類の危機を深めている根本原因になっておるではありませんか。
 しからば、この分岐点に立った現代をリードし、生命の尊厳の新しい世紀を築く思想・哲学・宗教は現代の世界のいずこにもないのでしょうか。それは断じて否であります。私はその貴重なる実体がまさしく東洋、なかんずく日本にあることを全世界の民衆に一生涯叫び続けていきたいのであります。(拍手)
 そして、それこそ大乗仏法のたる日蓮大聖人の色心不二の大哲学、大宗教であることは論をまたないところであります。
 今日にいたるまで日本人は、ひたすらに西洋文明を摂取することにのみ心を奪われ、自分自身の内に秘められた偉大な珠玉に対しては振り向こうともしなかった。そして逆に、むしろ欧米の心ある人々のほうが、漠然とではありますが、この珠玉の存在にひそかに心を寄せていたのであります。かのドイツの医学者ハンス・ムフは、東洋仏法のなかに歴史を超越した不滅の哲学を見いだし、それを東洋人が見過ごしてきたことを指摘して、「大きなものは、それが圧倒的であるために素通りしたというにすぎない」といっております。まさにその通りであります。
 名利をむさぼり葛藤に明け暮れた時代の盲目の心にとっては、仏法の真髓はあまりにも偉大であるが故に、この英知の光明を見ることもとらえることもできなかったでありましょう。だが二十世紀の今日、人々の心のトビラは次第に開かれ始めております。また、絶対に開かざるをえなくなってきております。そして、これまでじっと静かに時を待っていた生命の尊厳を説く大乗仏法の真髓は、今、時を得て春爛漫の開花をみようとしているのであります。私は、今こそまさに生命の世紀の夜明けであると確信するものであります。(拍手)
15  御書にいわく「いのちと申す物は一切の財の中に第一の財なり、遍満三千界無有直身命とかれて三千大千世界にてて候財も・いのちには・かへぬ事に候なり」と。また、可延定業書には「一日の命は三千界の財にもすぎて候なり」と申されております。
 三千界、三千大千世界とは、古代インドの宇宙観の一つであり、現代の天文学の知識をもって考えれば、銀河系宇宙に相当すると考えられる。地球一個に含まれているあらゆる宝、富でさえ、測り知れないほどある。いわんや三千大千世界全体の宝、富といえば、その何百億、何千億倍でありましょう。だが、それすら、一個の人間生命にはかえられないとの御文なのであります。これほどの人間生命の尊厳を説ききった哲学。宗教・思想が、他のどこにありましょうか。(拍手)
 この大生命哲学に気づかなかったが故に、人間は、過去幾世紀にもわたって、生命軽視の風潮のなかに生き、悲惨な犠牲を続けてきたのであります。今こそ人類は、従来の枝葉末節にとらわれた、本末転倒の考え方をかなぐり捨て、仏法を根幹として、真実の生命の尊厳観に立脚すべき跳躍の時を迎えたと私は叫びたい。それこそ、過去のいかなる革命よりも、幾千倍にも優る大革命であると思いますけれどもいかがでありましょうか。(拍手)
 仏法においては、妙法蓮華経のまえには、身分的、階級的な貴賎上下の差別も、人種的な差別観も全くなく、一人一人が、かけがえのない尊い生命の当体であると申されているのであります。この偉大な仏法哲理とその具現の方途が、実に七百年前の日本に、日蓮大聖人の手によって厳然と樹立されていたのであります。時の妙用のしからしむるが故か、不思議にも大聖人ご出現の十三世紀といえば、西洋においても「神」の時代より「人間」の時代への変革が徐々に始まった時代である。十字軍の違征、モンゴルの侵入等によって、封建的であったヨーロッパも外部の世界に眼を開き、それは、やがてルネサンスのヒューマニズムの胎動となっていったのであります。
 今また、化儀の広宣流布の機熟し、日蓮大聖人の大仏法が日本にひろまり、そして更には全世界に潮のごとく流れ出しているとき、全地球上に、生命の尊厳の、新しきヒューマニズムを願う声がわき起こってきていることも、不思議な時の一致といえましょう。
16  先ほども平和の問題で述べましたように、生命の尊厳を脅かす魔物の働きが、人類絶滅の原水爆戦争として、私どもの頭上に重々しくのしかかっております。だが、その本質は人々の心の内部にひそんでいるものであることを知らなくてはならない。故に、この元品の無明という魔の生命を断ち切るものは妙法の利剣以外には絶対にありえない。人間の善意と英知の勝利をもたらすものは、ただ一つ仏法を信ずる私どもの努力以外には断じてないと私はいっておきたい。(拍手)
 今の世界は、右に左に激しく動揺を繰り返しながら、古き権威は減び、新しき時代を求めて急速に変化を示しております。今日、自由主義社会においても共産主義社会においても、技術革新の大波にゆさぶられ、その内部に大きな変化が起こりつつあることは、だれの目にも明らかであります。自由主義世界におけるアメリカの威信は、ベトナム戦争、ドルの不信等によって急速に低下し、黒人暴動によって内部にはらんだ深刻な矛盾をさらけだしております。共産主義社会においても、かつてのソ連を中心とし一枚岩を誇っていた国際共産主義は完全に挫折し、中ソ対立は更に激化し、あるいは東欧にも人間性を主張する自由化の波が高まってきております。
 まさに、時代は混とんとしてきました。それは、なんらの理念・思想の基準のない眼からすれば、ただ混とんとしているようにしか見えないかもしれない。だが、この激動の世界も、人間性の哲理に根底をおいてその底流を見抜くとき、新しい時代への確固たる動きをはっきりと知ることができると思う。私は、これこそ新しきヒューマニズムに根ざした中道主義への脈々たる流れであり、あたかも潮が満ちてくるがごとく第三勢力を待望する時代の推移であり、趨勢であると信じたいのであります。(拍手)
17  私は以前から、日本は世界の第三勢力として立ち上がるべきであることを主張してまいりました。一昨年の青年部総会においては、全世界の期待する恒久平和実現の第三勢力となることこそ、我が日本の使命であると訴えておきました。また昨年の本部総会の席上においても、これからの七年間はあらゆる角度において激動の時代であり、各国の指導者の交代も必定であり、国際間の勢力分布も大きく変動するであろう。だが、これらの激動、変動も、その底流はことごとく日本の王仏冥合、世界の広宣流布へ向かっての激動であり、変動であることを確信したいと申し上げました。
 しかして、徐々にその通りの時代の展開が、現実に進行しているように私は思いますけれども、いかがでしょうか。(拍手)
 これひとえに、日蓮大聖人のご予言の通りであり、時のしからしむる妙用であるといいたいのであります。(拍手)
 かかる観点から、このたびの参議院選挙を意義づけるならば、この戦いこそ、日本に、第三勢力の台頭を決定づける決戦であり、中道主義を盤石ならしめる試練の戦でもあります。
 昨年の本部総会の席上で話したように、党執行部のなかには、全国区の候補者の推薦は十一人、あるいは十三人ぐらいは出せるかもしれないという考えもあった。しかし、私は、これを九人にしぼることを主張した。情勢がいかに厳しいかは、今日になっていよいよ明瞭であります。それ故にこそ私は、この全国区九人、そして地方区五人は、なんとしても勝ってもらいたいし、また、勝たせたい気持ちでいつばいなのであります。(拍手)
 そしてまた、そのとき同時に、全国区の得票数を昭和四十年の五百九万票から、三割増の最低六百五十万票前後の獲得を目指して進んでいきたいむねをお話ししておきました。その目標の実現のために、更に力強い前進をしてまいりたいと思います。いろいろとご苦労があると思いますが、体を大切に、事故なく、また我が同志のため、法のため、社会のために勇んで戦ってくださるようお願い申し上げるものであります。(拍手)
18  中道主義とは人間尊重主義
 話は変わりますが、エンタープライズの佐世保寄港問題、倉石発言事件を頂点とする防衛論議等を通じて、公明党は左傾化しているというような観が一般になされておりますが、それについて、もう一度党の真実の姿を確認しておきたい。
 最近、七十年安保を目前にして政府・自民党が急速に右傾化を強め、再軍備そして戦争への道を進んでいることは周知の通りであります。この露骨な右傾化をくいとめ、国家百年の安全を確保するためには、野党が力を合わせて戦っていく以外にない。公明党はこの決意に立って、野党の結束のかなめとして戦ってきたのであって、公明党の基本路線としての中道主義の本質は、いささかも変わったわけではない。
 この中道主義を端的にいうならば、それは人間主義ということであります。もともと人間は一個の調和のとれた円満なる生命の当体であります。すなわち、人間生命それ自体が中道であるといえる。
 たとえば、私どもは暑いときには上着を脱ぐ。寒くなれば着る。だが、人間の体自体は変わらない。人間生命それ自体が中道だからであります。ある学者は、資本主義だの、共産主義だのというのは、上着を着るか着ないかというようなものだといっておりました。寒い冬空のもとでは上着が必要な場合もある。これを共産主義にたとえている。だが、暑い夏や暖かい部屋の中ではかえって暑苦しくて、脱ぐほうが快適である。これを資本主義にたとえている。
 しかるに、なにがなんでも資本主義でなければならないとか、逆に共産主義でなければならない等といっているのは、そうした気候、環境の条件を無視して、根本的には人間性を無視して、暑い夏に上着を着せたり、寒い冬に機過ごさせたりするのと同じことになってしまう。
 資本主義といい共産主義といっても、究極は民衆の幸福をいかにして実現するか、どうすれば社会の繁栄をもたらすことができるかということが目的である。社会制度は、所詮、その目的を達成するための手段にほかならない。
 我々が中道主義を提唱し、既成勢力に挑戦して、暫次、革命を進めておりますが、これは決して資本主義や共産主義と同次元のものではない。それらの対立をより進んだ高い立ち場から止揚するものであり、政治、経済、社会、文化の根底に、人間性の尊重、生命尊厳の確固たる基盤を築いていくことに本義がある。
 既成の勢力は、肝心のこの根底を忘れ、資本主義や共産主義、あるいは科学文明という、本来は相対的な手段にすぎないものを、唯一最高の手段と盲執するばかりか、それが究極の目的であるかのごとく錯覚してしまっている。この恐るべき錯覚によって、人類は知らぬ間に人間生命の軽視、民衆不在の政治、人類滅亡の科学という、悲しむべき事態に陥ってしまったのであります。
19  日蓮大聖人の御書には、中道の意義を「有無に非ずして而も有無にへんして」と説かれております。この「有無」――あるかないか――という言葉を「左右」という言葉に置き換えて読めば「左右に非ずして而も左右に偏して」ということになります。
 この、一方に非ずしてしかもどちらかに徧していく、という中道の意味は、本質においては、一段高い次元にあり、どちらにも片寄っていない。しかも具体的には、時に応じ、機に応じて、自在に使いこなしていくことになります。
 結局、資本主義のために人間があるのでもなければ、共産主義のために人間が使われるものでもない。逆に、資本主義も共産主義も、人間のため、民衆の幸福のために使われていくべきものであるということが中道主義であり、それが最も正しい行き方であると思うのであります。(拍手)
 このほか科学、芸術、経済、法律等も、全て人間生命から出発して、同じく人間生命に帰者していかねばなりません。これは、今まで世に現われた各種の中道思想とは根本的に異なるものであり、この仏法の大哲理に基づいた中道主義の確立こそ最も根源に立ち戻った、人類不変の願望ではないでしょうか。(拍手)
 したがって、中道主義の政治を、リンカーンの言葉をいいかえて一言にしていうならば「人間の、人間による、人間のための政治」であり、更に、今日の日本の政治に約していうならば「国民不在の政治を国民の手に取り戻す政治」であり、「真実の民主主義と平和を守り抜く政治」なのであります。なかんずく、国民生活に即していうならば「個人と全体との調和を成立させ、理想的な福祉国家の建設を目指す政治」であるといえましょう。
 現在、世界において、デンマークやスウェーデンが最も社会福祉制度が完備した国とされておりますが、その根底に流れる政治思想はキリスト教的博愛主義であります。私どもは、更に根底的な仏法の生命の尊厳の哲学をバックボーンとして、物質的にも精神的にも最高に充実した、全世界の模範となる大衆福祉の新社会を、まず日本の国に建設しようではありまか。(拍手)
20   片寄った思想は亡国の因つくる
 最もかなめであるこの理念・思想の裏づけを究明しようとせずして、公明党の行動を、ただ一時的にしかも平面的に眺め、ちょっとした現象のみをとらえて、右に寄ったとか左に傾いたとか批判しているのは、あまりにも浅薄であり、無認識な評価といわざるをえないのであります。
 戦前、昭和の初頭に、左翼勢力が非常に勃興したことがあります。しかし、それがかえって国家権力と結んだ極右勢力に口実を与え、大規模な左翼弾圧が行なわれて、いわゆる極右軍国主義の暴走を招き、日本は亡国の悲運を味わっております。
 こうした姿は、日本ばかりではなく第一次世界大戦終了時に、ドイツはあの有名なキール軍港の水兵の反乱に始まり、ベルリンにも革命が勃発し、あわや社会主義革命が成就するかにみえた。これは極右から極左への動きであった。それがナチスの出現によって再び極右へと向かい、結局、亡国への道を歩んでしまった。
 同じような動きはイタリアにもみられた。一九二〇年に労働者の大規模なストライキが行なわれた。もしも当時のイタリアに、ロシアにおけるボルシェビキのような革命的な政党があったならば、そしてまた、レーニンのような指導者がいたならば、社会主義革命は成就したであろうといわれている。だが、わずかの間に、ムツソリーニの率いるファシズムが天下をとり、同じく亡国へと向かったのであります。
 このように、極右から極左へと大きな振幅をもって揺れ動いていく不安定な政情が、国家と世界とに対してどれほど危険な要素を含んでいるかは、歴史がまざまざと私どもに明示してくれているのであります。
 これに対し、イギリスやアメリカでは、デモクラシーの長い伝統とチャーチルあるいはルーズベルトの指揮のもと、比較的穏健な中道的な基盤ができあがっており、そのために安定した力を発揮し、遂にファシズムの毒牙を打ち砕くことができたと考えられるのであります。
21  これを歴史的教訓として戦後の日本をみるとき、同じく急激な左翼の勃興があり、それに対する右翼勢力の台頭が起きております。時計の振り子のように揺れ動いて、遂に破局に陥った戦前のあの苦い経験を再び操り返してはならない。そのためには、我々は民衆の総意、すなわちナショナル・コンセンサスに立脚した、しかも左右の対立を止揚する中道主義の政治を、日本の将来のために、厳然と確立していかなければならないと思うのであります。(拍手)
 時代は、まさに三国志の様相を呈してまいりました。保守政党曹操を率いる魏とするならば、革新政党は孫権の呉であり、公明党は王道を樹立せんとして立った劉備玄徳の蜀といえましょう。
 今、右傾化を強めている政府・自民党に対し、日本民族を誤った方向へ暴走させないためにも、社共と連係していくことは大局からみてやむをえない。あたかも、蜀が魏の横暴に対抗するために呉と組んだようなものである。
 だが、劉備玄徳、諸葛公明らの心は、どこまでも王道の樹立にあったごとく、我が公明党は、一時的には左寄りになったように見えても、根底的にはあくまでも中道の大道を歩んでいるのであります。そうして、歴史の進展のなかにおいて、中道主義の公明党こそ、真に全国民を安泰に導き、また、全国民を正しくリードする恒久的健全政党であることが、全民衆に一日も早く理解されていかれんことを、私は心より祈るものであります。(拍手)
22  大悪は大善の瑞相
 減劫御書にいわく「大悪は大善の来るべき瑞相なり、一閻浮提うちみだすならば閻浮提内広令流布はよも疑い候はじ」と。
 今日、大悪とはまさしく全人類を滅亡に追いやる核兵器の出現であります。これこそ、大悪のなかの大悪といわねばならない。「閻浮提内広令流布はよも疑い候はじ」とは、日蓮大聖人の世界広布への偉大な予言であり、絶対の確信であります。大聖人ご在世当時は、交通も不便であり、また物情騒然たる時代であり、人々の心も、固陋であり、殺伐たる状態であった。日本一国のことを考える人はおろか、少しでも人のために尽くすような人、そしてまた指導者も皆無であった。
 この時代に、日本の安泰のみならず、かくも雄大なスケールで、全世界の安泰と平和を訴え、予言された御本仏日蓮大聖人の大境涯は、ただただ驚嘆する以外にない。しかも、その世界広宣流布の偉大な予言は、いまや時代の鏡となり、潮となって、時とともに燦然たる光彩を放っているではありませんか。(拍手)
 総本山第二十六世、中興の祖・日寛上人は「立正安国論」をはじめとする三度の国諫について、大聖人のご予言がことごとく的中したことに対し、「暫時筆を閣いて紅涙自紙を点ず」と感涙されております。
 今、妙法流布に生きる私どもの胸にも、日蓮大聖人の大慈大悲、大確信の念々が、ひしひしと伝わってくる。しかもこの偉大な予言を実証する私どもの使命と福運を思うときに、まさに紅涙したたる思いを禁じえないのであります。
 今、新世紀への水門は開かれつつあります。その主体、そしてその本流こそ、私どもである。これが創価学会員の宿命であり、今世の唯一の使命なりと決意していただきたい。すなわち私どもの強き一念が、個人を変え、社会を変え、更に世界までも見事に変えていくことを強く自覚して、再び苦難の道を、先駆の道を、雄々しく、私とともに、前進していただきたいことをお願いしてやまないものであります。最後に皆さま方のご健康とご一家のご繁栄を心よりお祈り申し上げます。(拍手)

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