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日蓮大聖人・池田大作

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妙法こそ幸福の源泉 夏季講習会第三期婦人部

1965.8.7 「会長講演集」第13巻

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1  総本山は霊鷲山であります。雪山に近づく鳥は金色となる、と御書に説かれている。いわんや、一閻浮提総与の大御本尊まします総本山即霊鷲山にもうで、祈念していくわれわれに、どれほどの福運がつくか、どれほどの人間革命ができるか、永遠の幸福が与えられるか、とうぜんのことであります。
 この霊鷲山で、大聖人様のふところにいだかれて、二泊三日間を楽しく送っていただきたい。そしていままで個人の悩み、家庭の悩み、かつは支部員のための悩み等、たくさんあると思う。その悩みをぜんぶ御本尊に願い切っていこう。新しい力を、大聖人様よりいただいて、いままでの悩みをぜんぶ解決してみせる。そして、また、大御本尊にお目通りのときに、ご報告申し上げるよう、または、来年の夏季講習会のときには、いままでの解決した、いっさいのご報告を申し上げよう、このような二泊三日間の楽しい、有意義な講習会であっていただきたいことを、心から念願いたします。(拍手)
 幸福になる絶対法とは、何か。これは、南無妙法蓮華經しかない。絶対という意味、本質、これは、しょせんは妙法につきます。
 終戦前までは、天皇絶対であった。しかし、ひとたび敗戦となって、時代が変われば、天皇の存在は大きく変わってしまう。
 世界の国々も、永久に栄え、永久に安穏である国は、はたしてどれだけあるであろうか。現在のベトナムのあの紛争を見てもほんとうに不幸であります。
 アメリカが、一万年、十万年、偉大なる社会の模範の国として、栄えていくか、これもわからない。
 中共が、ソ連が、五千年、一万年、二万年さきまで、同じような力ある国として存在するかこれもわかりません。
 小さくいうならば、自分の夫が、百年も、二百年も健在でいるか、そんなことはありません。一寸先はやみであります。
 自分自身も、いつ倒れるかわからない。子供もどうなるかもわからない。家もいまは安穏であるけれども、平和であるけれども、どのような事態に、直面するかもしれない。地震があるかもしれない。台風があるかもしれない。
 時代の変化で、自分の商売も、どう変わってしまうかもしれない。
 考えてみれば、いっさいが、諸行無常です。絶対というものはありません。
 ただ、三大秘法の御本尊、南無妙法蓮華經という法だけは、絶対なのであります。
 きょう、皆さん方は「生死一大事血脈抄」の御書を勉強したと思う。「起は是れ法性の起・滅は是れ法性の滅」と説かれ、なお「生死の二法は一心の妙用なり」と。いっさいの現象、生ずるのも、滅するのも、ぜんぶ南無妙法蓮華經が本源力であるという意味です。その具現が、御本尊でありその本尊によって、題目を唱え、境智冥合することによって、汝自身の肉団の妙法が活動する。この妙法のみが、本有常住なのであります。
 国がどうなろうと、時代がどう変わろうと、地球がどうなろうと、永久に、幸福の根本力として、永遠の生命に備わっている絶対の財産、これが信心であります。
 妙法であります。
 どんなアラシがあっても、根ががっちりついておれば、少しぐらい枝が折れ、葉が落ちてもちゃんと時がくると茂るものであります。
 いま、信心しない人々の世界は、ぜんぶ迹門であり、爾前経である。根なし草であり、砂上の楼閣なのであります。
 いくら名誉があり、財産があり、地位があったとしても、大きい時代の変革があった場合、それはくずれてしまう。
 私どもは、根をがっちり大地に張っている、これが信心です。もっとも強いのです。根を張っているということは、妙法の信心です。
 そこに咲く花は、ある人は桜の花、ある人は菊の花、ある人は梅等と、人それぞれの、個性を生かし、使命をもち、喜びをもち、その環境のなかですすんでいけば、それでよいのであります。
 仏法は、封建制の家族主義でもない、全体主義でもない、ファッショでもない、
 あくまでも自主性、自我の確立を、基調としたものです。なぜかならば、自受用報身如来、自受用身とおおせであります。汝自身を最高度に顕現して、人生を楽しく生きていくためのものであります。
 いろいろと、たいへんな経済情勢でもあるし、世の中でもありますが、根をがっちり張り切っている強い信心で、どんなことがあっても、いざという場合には、また大きく花を咲かせていけるのだという、強い強い信心に立って、私とともに、がんばってください。(拍手)

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