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日本の王仏冥合 第8回学生部総会

1965.7.11 「会長講演集」第13巻

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1  有意義な、そして元気いっぱいな第八回の学生部の総会、まことにおめでとうございました。(拍手)
 本日は七月の十一日です。昭和二十六年七月十一日に、創価学会青年部が結成されました。そのときの話を少ししたいと思います。(拍手)
 このことについては、会長講演集第三巻に出ておりますから、もうおわかりであると思いますが、西神田の小さい旧本部の二階で、戸田先生をお迎えしての約百八
 十名の結成式でありました。そのときに、私は班長です。弱冠二十三歳。皆さん方ぐらいです。そのときは、第一部隊長が石田次男君、参議院議員になった人です。
 第二部隊長が北条浩君。この人も参議院議員です。第三部隊長が森田一哉君、事務総長です。第四部隊が竜君。この四人が部隊長でありました。
 そのときは、みんな二十代です。若かった。いま、もう子供が三人も、四人も、五人もいるのです(笑い)。革命のいぶきはあるけれども、やっぱり諸君には、もうかなわない。皆、当時は革命のいぶきに燃え切って今日まで戦ってきた。それは勇敢であった。求道心に燃え切っておりました。
 その当時、求道心に燃え切って今日まできた人は、もうぜんぶ創価学会の最高幹部です。また参議院議員となり、都会議員となり、いっさい王仏冥合の急所で戦っています。滅びていった人は、増上慢になっているか、求道心がない人か、結局は根性がない人、目的観がない人、信心がなかった人などで、そのような人も若干名おります。いまになってから、また、あとについていこうと思って信心を始めている人もおります。
 戸田先生は、そのときに「諸君の目的は、日本の広宣流布のみならず、東洋の民衆も救わなければならない。それが大聖人様のご遺命である。そしてまた、このなかに、第三代の会長がかならずいる。その会長に、私は、本日、心からあいさつをするものである」と申された。ひじょうに意味のある、深いお話であった。そのとき私は班長でありましたが、第三代の会長は、また戸田先生のそのあいさつは、私に対してである。私は、そのことをよく知っておりました。
 いま私は、この有意義な総会において、同じような儀式で申し上げたい。このなかに第四代、第五代の会長がいるといいたいけれど、私はまだ若いのです。なんだか、すぐ死ぬみたいなことをいいたくない(笑い、拍手)。そういうわけで、諸君はひとりももれなく、全員が、会長と思ってもらいたい。会長の信心、会長の決意、会長の責任、会長の実践を、ともどもに、異体同心にして、われわれの時代に、かならずや不開門を開くという決心で前進してまいろうではありませんか。(拍手)
 したがって、諸君の先輩は、ぜんぶ皆さん方の石段です。もう若き革命児とはいえない。
 やはり、若さにはかなわない。その意味において、最後の総仕上げは、絶対に学生部以外にない。まさしく新時代は、新世紀は、そしてまた諸君のひのき舞台は到来したという決心で進んでいただきたいと思います。(大拍手)
 私は、諸君をひとりも犠牲にはさせません。のびのびと、諸君が社会の指導者となって、また人生を有意義に生き切っていけるための土台を作っておきます。一から十まで、諸君のための土台を作っておきます。また作ってまいりました。それだけは、私の誠意であるし、責任であると思っております。あとは、安心して勉強し、自信をもって、今世の人生を大きく羽ばたいていただきたい。
2  先日の参議院選においては、八十年前後の歴史をもった自民党は、与党でありながら千七百万票台である。数十年の歴史をもった第二党である社会党は八百万票台である。たった十四年間の歴史しかないわが創価学会の、公明党の得票数は五百万票台である。第二党の社会党と、たったの三百万票あまりの差に迫ってまいりました。心ある人が見れば、驚異的な大飛躍であると思うでありましょう。
 信心と教学と座談会と、そしてまた、鉄の団結でいくならば、第二党も打ち破り、第一党と対決していける日も、私は、そんな遠く、また、そんな苦しいことでは絶対にないと思いますけれどもどうでしょうか(拍手)。そのときの総仕上げの活躍をするのが学生部の諸君です。いまは、しっかり勉強しなさい。信心して人間革命し、福運をつけていきなさい。
 さきほど申し上げたとおり、ほとんどの先輩は、ぜんぶ学会の最高幹部であり、参議院議員となり、または、やがて衆議院議員にと、社会の大指導者になっているではありませんか。それが証拠です。いわんや、十年先、二十年先に、諸君がどれ 日本の国を、わが祖国を救うのはだれか。それは佐藤首相でもない、社会党でもない。かれらには利害しかない、名聞名利しかありません。功名心しかない、理念、確信、信念がない。それでは青年がついていけません。いっさいが、その証拠であります。
 ベトナムの紛争は、昨日の新聞を見ても、ジョンソン大統領が、必要なだけの軍事力をつぎこむといっている。いつ果てるともしれないアジアの発火点です。これを解決すべきはずの世界各国の指導者は、むしろ反対に戦火を拡大してしまった。
 こわいことです。大戦争にならないとは、だれも保証することができない。こういう段階をも推測できます。
 そうなった場合に、太平をむさぼっている日本国民が、日本の指導者が、いったいどうするか。右往左往して、大混乱を引き起こすに決まっております。そうさせたくないがゆえに、私は、一生懸命、御本尊様に念じています。そうなったら日本の国も世界もたいへんです。その一点だけを考えても、日蓮大聖人様の弟子である地涌の菩薩のわれわれしか、この祖国を救っていく解決の道を知らないのだと私は絶叫したいのであります。(拍手)
 ともあれ、大きいことはさておいて、千里の道も一歩よりです。先日の朝日新聞によれば“死せる孔明、生ける仲達を走らす”という三国志のことばをもじって“生ける公明、生ける各党を走らす”といっておりました。このように、あらゆる政党を、一陣、二陣と打ち破って前進しているのです。
 しょせん、王仏冥合の戦い、そして人間革命も、根本は信心であります。この根本的指針、原理、これだけは、いかなる事態がこようとも、いかなる時代にたちいろうとも、絶対に忘れてはならない。信心根本に、ただひとすじに、まず日本の国の王仏冥合をめざして、前進に前進を重ねてまいろうではありませんか。(大拍手)
3  創価学会に対しては、さまざまな批判がある。しかし、みんな的はずれの批判である。私も愚か者でありますが、まったく、いまの政治家をはじめ指導階層はみんな頭がおかしい。真実を真実として探究しない。かならず偏見をもって見ていく。ということは、学者とし、指導者として失格です。
 その一つとして、いちばん繰り返されていることは「学会はファッショではないか」との杞憂であります。あまりにも完ぺきなる、整然とした団結、それに対する批判であります。
 では、その本人に「ファッショとは何か」と聞き返せば、答えられない。評論家でも学者でも、一遍こちらから聞き返すと、なんともいわない。あるいはまことにあいまいである。ずいぶん卑怯です。
 皆さんはよくご存知であると思いますが、ファッショとは、西暦一九一九年、イタリアのムッソリーニが組織したファシスト党から始まっております。そして、その後においては、それに類似した動向、傾向、体制をさしていっております。
 その特色は、第一に暴力主義による独裁である。第二には独占資本主義を擁護する体制である。第三には全体主義により、議会民主主義を否定し、個人の基本的人権も否定する。第四に人間の価値の平等を認めない。少数の指導者によって、権力を行使する専制であり、侵略主義である。
 では、このファッショの原理を、いままでの創価学会の行動、前進、また、その根本である仏法の原理にあてはめてみると、ひとつもあてはまっていない。
 第一に、暴力主義による独裁という点ですが、暴力で五百万世帯以上の人が救われるわけがない。これほど和気あいあいと、楽しい生活をし、そしてまた、社会人として価値創造している団体はない。暴力といえば、国会における社会党の議員と、自民党の議員との乱闘のほうが、よほど暴力ざたであって、ファッショではないかといいたい。(拍手)
4  創価学会は慈悲の団体です。ゆえに、一千万人以上の人が、現実に救われている。むしろ暴力をふるわれたのは創価学会のほうです。今日までわれわれが受けてきたものは、迫害の連続であったではありませんか。無認識の評価、無認識な批判を含めて、いっさいがっさい、われわれの戦いは暴力との対抗であった。
 また個人の独裁ということについては、私どもには南無妙法蓮華經という厳然たる法則があります。個人の独裁には法がありません。哲学がありません。理念がないのです。私どもには大理念がある。もしか、その大理念を失い、大理念をもたずして、個人の独裁になってしまったならば、獅子身中の虫です。我見です。大罰をうけることはとうぜんであります。
 われわれは、日蓮大聖人様のおおせどおり、また南無妙法蓮華經の大法則どおりにしなかったならば、無間地獄に落ちる。とんでもないことです。異体同心で、ぜんぶが題目をあげ、妙法を唱え、色心不二の哲学を実践していく、これがはたして独裁でしょうか。そんなバカなことはありません。
 過日、ある外国の新聞記者がまいりました。そのときに、私が、インタビューに応じました。“池田会長と会った。池田会長は、傑出したところがひとつもない。
 ぜんぜん、えらそうじゃない。一口でいえば、たいしたやつではない”と。(笑い)
 ということは、妖怪みたいなかっこうをした教祖とか、ドゴールや毛沢東みたいな独裁者のタイプではないという意味にとってよいと思うのですが、どうでしょうか(拍手)。私は平凡のなかの平凡な青年です。
 第二に、独占資本主義の擁護という点であります。いったい創価学会がいつ資本家の味方をしたか。資本家自身が、創価学会は貧乏人の集まりではないかと、いままでバカにしきってきた。いまになって、あらゆる会社で学会員が元気で働いている姿を見てびっくりしてきている。七百年のあいだ、謗法の人から、ビタ一文布施を受けていない日蓮正宗が、創価学会が、資本家のような、悪どく金を集めている連中と結託するわけがないではありませんか。(拍手)
 また第三の全体主義による議会民主主義の否定や、個人の基本的人権の否定についても、これはまったく正反対です。ということは、仏法における一生成仏は、今日でいえば、真実の個人の主体性の確立ということです。真実の自我の確立ということです。そしてまた、自由自在の境涯を会得することが、信心の究極の目的であります。
 個人の基本的な人権を、最高に確立し、最高に認めているのは、大聖人様の大生命哲学であり、皆さん方が、それを現実に会得していると思います。(拍手)
 それから、全体主義による議会主義の否定。議会主義を否定しているのであったならば、二十人も汗水たらして参議院になど送りません(拍手)。一生懸命に議会政治で、民主主義のルールを重んじて戦ってきている模範が、わが創価学会であると、私は断じたいのであります。(拍手)
5  第四番目の問題も、また同じです。人間の価値の平等を、もっとも正しく認めているのが仏法です。会社の社長であろうが、元貴族であろうが、女中であろうが、学生であろうが、学者であろうが、政治家であろうが、大聖人様のもとにみんな平等ではないですか。
 社会的には、私より偉い人がいっぱいいます。そしてまた全人類ひとりももれなく、事の一念三千の当体である生命の尊厳を確立していこうとするのが、大聖人の仏法です。そうであるのに、ファッショなどというのは、とんでもない間違いです。
 団結が強い、団結が強いからファッショだというならば、日紡の大松監督のチームワーク、バレーボールのチームワークもファッショです。巨人軍の野球の選手の団結もファッショかといいたくなるでしょう(笑い)。そんなバカな話はありません。労働組合こそ典型的なファッショになってしまう。赤いハチ巻きをして「団結」と。これはみんなファッショです。(笑い)
 そんなバカなことのないことは、明瞭です。そんな批判をしている人たちの批判に紛動されては絶対にいけない。創価学会は侵略主義でもない。仏法は絶対平和主義であります。地球民族主義であります。このような魔の批判に紛動されたのでは、彼らの弟子となってしまうのであります。大聖人様のおおせどおりに、御金言どおりに進めば、仏の弟子であります。
 大聖人様も「唱法華題目抄」に「悪知識は甘談詐媚かんだんさび巧言令色こうげんれいしょくもて人をいて悪を作さしむ」――甘談ということは、うまいことば。詐媚というのは、やはり媚を使い、いろいろと詐欺師のように、人々の心をまどわすこと。
 巧言――たくみなることば。令色――同じような意味であります。
 「甘談詐媚巧言令色もて人を牽いて悪を作さしむ悪を作すを以ての故に人の善心を破る」――信心している人が、善心であります。その信心を破る。「之を名づけて殺と為す」――もっとも罪が重い。人を殺す以上に罪が重いのです。したがって「即ち地獄に堕す」云云と、こう申されております。
 頭破作七分の人間の批判に紛動されるか、日蓮大聖人様の御金言どおり実践しきっていくか、この一点で今世の一生が決まってしまう。どうか、学生部の諸君は、信心強盛にして、第一にも第二にも日蓮大聖人様の御金言どおりに進んでいただきたいと思いますけれど、どうでしょうか。(拍手)
6  いいかげんな気持ちで、愚かな頭で、探究もしないで、小手先で批判するなどということは、青年のとるべき道ではない。そしてまた、大聖人様のおおせどおりに勇ましく実践してもらいたい。御本尊様と取っ組んで、どういう結果が出たか、どういう現証が出たか、それを実験し、証明してから批判をしてもらいたい。こう私はいいたいのであります。
 ともあれ、宗教革命は見事にわが創価学会の大勝利で終わった。次は政治革命を、また文化革命を、私とともに、学生部の諸君がいっしょに大勝利へ導いていこうではありませんか。(拍手)
 最後に、諸君が力ある政治家になってもらいたい。力ある庶民の指導者になってもらいたい。そしてまた、力ある学者になってもらいたい。しょせん、その力は信心である。力ある人生として衆生所遊楽し、社会に価値をおよぼし、ほんとうに楽しい、ほんとうに有意義な一生であったという、幕を閉じていただきたいことを切望して、私の話とさせていただきます。

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