Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

生活に確証示せ 青森第一・第二総支部地区部長会

1965.5.17 「会長講演集」第13巻

前後
1  信心は強盛であり、かつ純粋でなくてはならない。それが大聖人のおおせである。ちょうど大きい鐘があって、大きく打てば大きく反響し、小さく打てば小さく反響するように、信心の強弱によって功徳の大小は決まる。
 また、濁った水に月は映らず、澄んだ水に月が映るように、信心が純粋であれば功徳も大きい。反対に信心が不純で、利用根性があったり、根性曲がりの信心であったならば、功徳が出ないこと、功徳をふさいでしまうことは、経文、御書のうえに説かれているとおりである。
 信心を強盛にすることは、ぜんぶ自分自身のためである。対境である御本尊も、唱える題目も皆同じだから、会長であっても、副理事長であっても、支部長であっても、地区部長であっても、班長であっても、ぜんぶ方程式は同じである。あとは信心の強盛な人が功徳をうける。
 信心が強盛であれば、ゆうゆうたるものです。少しぐらい事件があった、目先の事故があった、批判があったといっても、それらに粉動されることはない。逆に信心が弱いとすぐ粉動されて「学会についていってもだいじょうぶかな」「御本尊を拝んでいて、これを解決できるかな」「宿命転換できるかな」と疑うから、その悩みにとらわれて苦しむことになる。
 洋々たる気持ちで、ひろびろとした気持ちで信心をしていってほしい。あくせく信心する必要はない。笑みをたたえ、朗らかに、題目をあげ、一家和楽の生活をし、生命力豊に、楽しく生活をしていく。そして余った時間を有意義に、晴ればれとした気持ちで学会活動にいそしめば、その人の信心は、もう完ぺきである。信心即生活のリズムにそっているのである。
 あの人はああだ、この人はこうだと、そんな小さなことにとらわれず、神経質にならず、きょうからは、笑みをたたえ、明朗快活に、次の十年間をめざして、これほどまでに楽しい、強い信心を自分は貫きとおしたといわれる出発としていこう。
 私たちの目標は十年先である。七年先も、とうぜん一つの節ではあるが、昭和五十年を一つの目標としている。そのときに、皆さん方の生命のうえに、生活のうえに、一家のうえに、そして地区、支部のうえに、どれだけの成長をきたしたか、確証を示すことが大事である。この十年間は、どんなことがあっても、忍耐強く、目的に向かって真一文字に信心を貫きとおしてみせる、この決心で私とともに戦っていただきたい。
 大聖人の仏法は冥益である。きょう題目をあげたからといって、あした、いっさいがよくなるとはいえない。仏法は因果倶時であり、信心をした以上、幸福になるべきいっさいの解決の根本は決まっている。
 たとえ、その人その人の宿命、信心、罪業、または依正不二の原理から、いろいろな結果があらわれ、実相が変わっていても、最後はかならず諸願満足することができる。これが大聖人の仏法である。
 何度も申し上げるが、信心があれば実証、現証が出ないわけはない。もし現証が出なかったら、それは大聖人の仏法ではない。妙法蓮華経ではない。
 妙法蓮華経――すなわち因果の理法ということは、絶対に生活のうえに、生命活動のうえに現証があらわれるという法則であり、定義である。その証拠として、十年、十五年、二十年、いな二十数年の信心をしてきた皆さん方の先輩を見ていただきたい。理事長をはじめ、きょうここに見えている先輩の人たちだけをみても、明瞭なる事実である。今日の幹部は、社会のうえに、生活のうえに、厳然たる事実の証拠を示している。
 大聖人の仏法は蓮華の法であるがゆえに、蓮華の花が咲く。すなわち因果倶時である。種をまけば、かならず時がくれば花が咲く。十年、二十年と信心に励んだ人が「これほどまでしあわせになったか」「ありがたい、想像もしなかった幸福生活である」「思いもよらないほど偉くなった」と、――これが諸願満足である。
 皆さん方も地道な信心までけっこうだから、十年、十五年、二十年、二十五年、三十年と信心に励み、御本尊様だけは放さないで、無上宝聚不求自得、諸願満足の境涯をつかみきっていただきたい。これが私の心からの願いである。

1
1