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日蓮大聖人・池田大作

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御書の一節を生渡の指針に 東北第二本部地区部長会

1965.5.11 「会長講演集」第13巻

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1  信心だけは、好きであろうが、嫌いであろうが、どうしても必要なものです。われわれは、ごはんを食べなければ生きていけない。水を飲まなければ生きていけない。それと同じように、正しい信心をしていかなければ、すなわち妙法蓮華経を食べなければ、飲んでいかなかったならば、絶対に福運ある生涯は送れない。活力ある、楽しい人生も生きていくことはできない。もし生きていけると思っていれば、錯覚です。冷静にみるならば、このことばは明瞭なことであります。
 また、正しい信仰なくして、正しい人生を生涯生き切ることはできない。そこで私は、とくに幹部になられた皆さん方は、何百人、何千人、何万人の人が、皆さん方の信心を見ております。その人たちに、りっぱに信心の功徳の証明、強信なる大聖人の弟子としての姿の証明、実証を示せば、そけだけみんなは安心し、自信をもってついてきます。その功徳も偉大です。
 反対に、幹部がちょっとした難で、退転してしまう。または、悪いことをして、おおぜいのおおぜいの人々の信用を失う。そうした場合の罰も大きいといわねばなりません。それはそれとして幹部みずからが、大聖人の御書のどんな一節でもいいです。“この一節は、自分自身の生涯の指針にしてみせる、生涯の指針にするのだ、自分の絶対の確信にするのだ、身口意の三業で実践しきるのだ”と、こうなっていただきたい。
 よく戸田先生もおおせになっていました。
 「法華経は一か所、完全にわかれば、ぜんぶほどけるものだ。御書も同じだ。妙法の原理はそこだ。ほんとうに一か所、自分のものにしきっていきなさい」と。そうすれば、かならずあとはわかってくるし、そのひとつの御金言が自分の骨髄になりますから、どんな嵐があっても、どんな苦難があっても、どんなつらいことや、いやなことがあっても、それを柱とし、杖とし、たよりとして、また大きく次の前進にしていくことができるのです。
 その意味で、ひとつだけ御金言を、とくに自分のものにしていく、これをきょう皆さん方に、強く訴えたいのであります。
 ぜんぶの御書を実践するのが創価学会です。けれども、それは、ぜんぶ覚えるのはたいへんです。一か所、二か所でけっこうです。それを土台にして、また、たくさん知っていきなさい。私も本部総会のたびに申し上げる大聖人様の開目抄のことば「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん」のおことばを心肝に染めています。
 私どもは信者でありますから、大聖人様のご境涯、大聖人様のおふるまいとは、天地雲泥の差であります。大聖人様は御本仏でいらっしゃる。われわれは信者です。
 弟子です。だが、師匠のそのご確信に、少しでもこたえられるような自分に歩み寄っていきたい。これが私ども幹部の信念であり、信心であり、自覚でなくてはならない。
 したがって、信心だけは、究極においては、神経質であってはいけません。罰があろうが、功徳があろうが、“御本尊様は絶対だ。どんな事態があっても、いっさいが変毒為薬されるのだ。なにかの意味があって、こういう現証があるのだ”こう確信しきって、題目をあげてあげて、あげぬいていく。そしてまた、王仏冥合に一直線に進んでいく。真一文字にたゆまず前進をしていく。この人がほんとうの大信者なのです。
 極端にいえば、会合がって、雨が降った、降らない、それが信心の問題であると、そんなことになったら問題です。そんなことにいちいち神経質になる時代は過ぎ去っている。ただ、学会のこと、戦いのことについては、どんな細かいことにも神経をつかっていかなければなりません。ほんとうに王仏冥合を成し遂げよう、自分の責任でやりきろう、ひとたび立った戦いには勝ち抜こう、自分のトリデだけは絶対に勝とう、自分の組織だけは敢然として勝ち抜こう、こういう大信念をもっていくのが「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期」とした真実の創価学会の大幹部であると信じます。(拍手)
 その決心があれば、いっさいが生きてきます。その信心があれば、その人は絶対に成仏します。どんな悪口をいわれようが、どんな現証が出ようが、どんな事態になろうが、いかなる罰、利益のようすが、当分・跨節の当分のうちにあろうが、そんなことに一喜一憂せず、左顧右眄すべきではありません。御本尊を抱きしめて、おのれの使命を、責任をまっとうすべく莞爾として、一歩一歩ゆうゆうと、力強く前進し、指揮をとりきっていけるひとりひとりになっていこうではありませんか。(拍手)
 それ以外にはありません。その人が大聖人様のまことの弟子です。創価学会のまことの人材です。大信者です。地涌の菩薩であります。位だけが、役職だけが、けっして信心の位ではありません。役職は方便です。だれがほんとうに信心があるか、責任をもっているか、これで御本尊様は決めてくださるのです。
 その一点がほんとうにわかれば、皆さん方は、もっともっと功徳が出ます。もっともっと目も輝き、福運がつきます。顔色も変わってくるのです。そのためにも、さきほど申し上げたように、御書の一節、一つの金言を自分のものとして実践していく。その確信を忘れてはいけません。観念論であってはなりません。
 因果の理法です。因果倶時です。たとえば自分がいくらりっぱな姿を見せようが、御書を知ったかぶろうが、口がうまかろうが、役職が上であろうが、御本尊と境智冥合しているか、していないかが重大問題です。その結果は、事実の相、事相として自分の生命のうえに、生活のうえに顕現されるものです。
 仏法は、しょせん実証主義です。現証主義です。どういう立ち場にいても、冥の照覧を信じきっていけば、喜び勇んだ仏道修行ができます。感激に満ちみちた実践ができるわけです。

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