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日蓮大聖人・池田大作

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真剣に学会活動を 長野本部指導会

1965.3.30 「会長講演集」第13巻

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1  たいへんにご苦労さまでございました。大聖人様は末法の御本仏であり、われわれは大聖人の子供です。大聖人の弟子です。そしてまた、眷属であります。仏の軍勢です。大聖人が、私たちを不幸にするわけがない。絶対に救ってくださるのが仏さまです。すなわち、大聖人を信じ、御本尊様を受持し、大聖人のおおせどおり、活躍している私どもを、救ってくださらないわけがありません。あとは私どもの信心です。ですから、われわれは自信をもたなくてはいけない。けっして卑屈になってはいけません。
 どんなに悪い子供でも、親はいつまでも心配するものです。幸福にしたい、守ってあげたい、なんとか安穏に暮らさせたい。一人前にさせたい、これが親です。
 一般世間においても、親はそれだけの慈愛があるものです。いわおや、全衆生をお救いくださる御本仏日蓮大聖人様がどれほどのご慈愛があるか、ご慈悲があるか、これは当然なことでと確信していいわけです。
 信心の強い人も、また弱い人もいるかもしれない。境遇はさまざまであります。
 しかし、どんな人であっても、どんな場面にあっても、どんな宿命におののく人であっても、ぜんぶしあわせにしてくださるのが御本尊様です。自信に満ちみちて、題目をあげ、学会活動に励んでいただきたいのです。
 意地をもって、信心していきなさい。自信に燃えて、一生涯していきなさい。学会活動をしていきなさい。そこに、もういっさいが含まれております。末法は邪智謗法の時代です。唯一の正法である三大秘法の御本尊様があるにもかかわらず、それを捨ておいて、邪宗教に迷っている。そして大聖人様を迫害する。いまでいえば、日蓮正宗創価学会を誹謗し、迫害している。これが邪智です。
 ことわざにも「いかなる賢明な善人よりも、悪人のほうが頭がいい」といいます。これは邪智を意味します。たしかに、いまの人々は悪賢い。さきほども副理事長といろいろと、政治の腐敗の問題、都政の問題等を語りました。聞けば聞くほどひどいものです。ずる賢いものです。
 このあいだも、ある雑誌に「創価学会はずいぶん伸びた。けれども底辺の宗教だ」と書かれてあった。底辺の宗教だったら、それこそ理想的な宗教です。民主主義の宗教ではないですか。庶民の宗教です。庶民の宗教こそ偉大ではないか。庶民以外に人間がいるかといいたい。
 こういう論評は、批評のしょうがないので、悪口をいったつもりでも、それは宗教の正しいありかたをいったことになってしまっている。
 それに反して「創価学会もいいだろう。“ワラ”をたかむよりもいいだろう」などと学者ぶっていっているえせ学者が、それでは自分は何を信念としているのか、女房、子供だって救えていない。
 いったん、なにか大きい事件だとか業病に遭遇した場合は、気違いのごとく、うろたえるのが関の山です。口でいうことなんか、なんとでもいえる。悪賢い小細工ばかりで、信念もなければ、理念もない。それであって、自分がいちばん利口だと思っている。この実相を邪智といいます。
 私どもは、それに対して、仏智なのです。邪智がひどいがゆえに、それを根本的に改革をしていく力は仏智しなかないのです。最高の知恵です。仏智はなにによってでるか。これは大御本尊を信じて、そこにわいた生命力即仏の知恵をいただいて、戦っていく以外にありません。
 その最高の知恵が信心によって出でくる。なすわち以信代慧であります。以信得入であります。ですから、そんな爾前経のような、邪智謗法の評論家な政治家なんかは、こちらの仏の軍が進めば進むほど、冥伏してしまうのです。それをするのが私たちの使命です。自分もしあわせになり、ともに社会も繁盛させていく。ひとりの犠牲者も出さない。瞬間、瞬間が楽しい。瞬間、瞬間に価値がある。少しも矛盾がないわけです。
 いつも私が申し上げているように、そうなっていく源泉は題目であり、勤行です。これが、とうぜん根本であり、いちばん大事なことであります。
 木が成長するためには、大地の水分と太陽の熱が必要です。内にあっては水分をどんどん吸収していく。これは勤行です。外にあっては、太陽の熱を吸収していく。これは折伏です。この両方がなければならない。男は外へ出て働いて一家を養うのは当然のことです。勤行とともに、外へ出て折伏に、王仏冥合に進んでいくことが大切なのです。
 個人の幸福と社会の繁栄。それは学会活動をして、はじめて大聖人様の「立正安国論」の根本方程式にあてはまっていくのです。だから御書に書いてなければ、朝晩題目だけあげていけば「折伏もいいよ」「選挙もいいよ」「座談会もいいよ」といいたいところなのです。だが、折伏も王仏冥合の戦いも、大聖人の御遺命であります。ですから、それをいったら我見になる。大謗法になってしまいます。
 また、道理のうえからも、それは間違ったことです。利口主義です。あらゆる面から考えても、ぜんぶ、いまの学会活動の方程式が正しいのです。大聖人様が間違った方程式を、末法の衆生に教えるわけがない。
 ですから、ひとつは自分自信の幸福のために、ひとつは王仏冥合という、全世界、全社会のために働いていくこと自体が、とりもなおさず、完全なる自分の、また絶対の幸福への直道の源泉になっていくのです。この方程式をよくわきまえていただきたい。それを繰り返していくことが正しい信行学になっていくのです。
 どうか、からだを大事にして、若々しく、希望に燃えて、いっしょにがんばっていきましょう。

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