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勇敢な信心貫こう 第59回本部幹部会

1965.3.28 「会長講演集」第13巻

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1  皆さんこんばんは。最初に申し上げたいことは、さきほど登山部長から話がありましたとおり、この一か年間で、大過なく見事に三百万人総登山を完遂することができました。皆さん方に深く感謝申し上げます。ともにこの総登山を遂行するにあたり、その推進力となって、陰に陽に活躍してくだった役員の方々に、心からお礼申し上げます。ありがとうございました。(拍手)
 なお、さまほど辻副理事長からも話がありましたが、仏法のきびしさは厳然たるものであります。王仏冥合への前進にあたっては、さらに強い強い、確信ある信心に燃え、堂々たる前進をしてまいりたいと思うのです。(拍手)
 絶対に大御本尊様を信じきった者が、勝っていくことはとうぜんであります。いかなる応用作戦があったとしても、信心を根本としていかねばなりません。これだれけは、永久の私どもの指針としていただきたい。また、していかねばなりません。それがなくなってしまえば、天魔、悪鬼魔神を、打ち破ることはすでにできません。力がなくなり、からまわりしてしまう。このことを幹部の皆さん方はよく銘記していただきたい。
 細かい注意事項になりますが、とくに私は、こんごの活動についてお願いしたい。というのは、決まった会合には、時間を厳守していただきたい。これからひじょうに多忙になる。また会合の箇所も多くなる。そうしますと、六時半から始まる会合に、幹部だからといって、多忙を理由に、七時半に行ったり、八時に行くようになる。こんなことは絶対にいけない。法華経の信者を、法華経の行者をそしてまた民衆を愚弄することになります。
 これは謗法です。幹部として思いあがりであります。増上慢です。多忙な生活でもあり、一銭も給料をもらうほけでもなく、それぞれ仕事をもって働いているのでもありますから、行けなく成る場合もあるでしょう。そのときには、まえもってかならず連絡をとる「何時ころになりますから」と。また、ある場合には、かならず代理人の人に行ってもらう。こうしたささいな心づかいが、ひじょうに大事な勝利への源泉であると思うのです。
 先日もある理事が、一生賢明、支部員の人には「時間を励行しなくてはいけない。
 はじめから行けないような会合は、むりして決めてはいけない。決まった会合には、きちんと自分から励行してもらいたい」といっておりながら、あくる日、もう本人が会合の時間に遅れて、大勢の人に迷惑をかけている。
 集まってきた人たちは純真な人たちであるし、求道心の持主でもありますから、あまり不平不満はいわない。しかし、信心の新しい人などは、ひじょうに不審に思う。また早く終わって早く家に帰る予定の人もいるかもしれない。家に用事がある人もいるかもしれない。そういう人情の機微に対して、私どもはとくに留意していかなくてはなりません。よろしくお願いします。(拍手)
2  あまりむりした会合を、初めから決めておかなければいい場合もある。決まったならば、かならず出席する。または、できない場合には、連絡をとるなり、代わりの人にかならず行ってもらう。こうすれば、いちおうは、よろしいのではないかと思います。
 重ねていうようですが、中国方面の、ある島の学会員のところへ、幹部が指導に行くと連絡をとりながら、いままでに何回か行っていなかった。最近、本部の指導で、ある婦人部の大幹部が行って、そのことが明らかになった。というのは、その本部の婦人部大幹部が行っても、集まったのが三、四人しかいない。おかしいなと思ったら、いつも連絡はくるけれども、幹部はきてくれない。きょうも同じだと思ってあつまらなかったというのです。これは恐ろしいことです。私は、いろんなところで、大なり小なり、そのようなことがりあるのですないかと思う。それは堤防を崩すアリの一穴であります。じゅうぶんに注意していただきたい。
 次に申し上げたいことは、とくに初信者の人、また純真な人、まじめな人に対しては、おだやかに話をしてあげていただきたい。包容力をもって指導の任にあたっていただきたい。
 少しでも強圧的に感じさせたり、こわい感じを与えるような指導の仕方、話し方は厳禁です。おだやかに、微笑をたたえながら話してあげるようにしなくてはいけません。きびしさは、魔に対してはやむをえない。ほんとうに厳愛をもって、そ 人を叱咤する場合もあるでしょうが、そんなことは滅多にあるものではない。一般的にはそうであってはいけません。
 おだやかに、にこにこと、真心こめて、包容力ある指導をすべきです。みんなが安心しきってその指導者に相談できる、質問できる、ついていける、そのような幹部になっていただきたいと願うものであります。
 いつもこわい顔をしていますと、純真な人は、ちょっと指導をうけにこられなくなってしまう。
 私は前へ切り開いていくために、真剣に、アラシに向かわなくてはならない。しぜんきびしい顔にもなります。フルスピードで車を運転しているようなものです。
 ニヤニヤしてなんかいられない。けれども、心のなかはいつもおたやかであるし、やさしいのです(笑い)。皆さんも、ほんとうになんでも相談できる、ものわかりのいい指導者として指揮をとっていただきたい。そうでなければ支部員の人たちがかわいそうです。自分の権威のため、感情のため、いばるため等々、そんなことで大御本尊様の子供を苦しめてはならない。恐ろしいことです。
 どうか、幹部になればなるほど、その点をよくわきまえて、一生涯“いい人だな”といわれる幹部におたがいになっていきましょう。(拍手)
 次に申し上げたいことは、参議院の選挙があろうが、衆議院の選挙があろうが、創価学会の会合は九時半でいっさい終了します。また各本部、会館も十一時になったならば、家路に向かっていただきたい。この点も念のために申し上げておきます。
 事故のないようにしていただきたい。ひとりも事故なく、楽しく、ゆうゆうと進んでいっていただきたい。これは私が毎月お願いすることであります。
 次の申し上げたいことは、五月の三日を期しまして、地区担当員以上の方々に辞令を正式に授与することにいたします。(拍手)
 いままで、創価学会は、形式的な辞令の発行はしないようにしてまいりました。
 しかし一昨年でありましたか、教学部員だけに辞令を出すようにいたしました。
 ここまで創価学会も完ぺきにやり、安定し、十年、二十年、三十年先のことを考えた場合には、どうしても裏づけになるひとつのものが必要になってきた。この理意味から新聞発表の辞令の裏づけとしまして辞令を差し上げたいとやもうのです。
 これは創価学会人事委員会として出すことにいたします。
 最後に、信心は強盛であり、勇敢に進んでいただきたい。非常識なことに勇敢では困ります。信心は勇敢でなくてはいけない。すなわち強盛なる信心、それは学会活動であり、題目であり、勤行であります。それによって仏界の湧現があるのです。願いがかなうのです。
 また戦いがいろいろと激しくなってまいりますが、幹部の皆さん方は、沈着に行動していただきたい。外でなにか事件があり、その報告があった。縁に粉動されて冷静なる判断もできないようではいけない。粉動されず、冷静なる判断まをし、そして沈着なる指導を、賢明なる行動をとっていただきたい。
 とうぜん、これがいちばん価値的である、これがいちばん常識的である、これがいちばん納得できるであろうと冷静に判断していただきたい。そのうえにたって、ぎこちない指揮ではなくして、賢明なる指揮をとっていただきたい。これは要領がいいということとは違います。では、四月の幹部会のときに、また、いちだんと明るく元気でお目にかかりましょう。(拍手)
3  19650329 社会の本門の医師 学生部部旗返還授与式
4  先日、東大の卒業式で学窓を巣立っていく人々に対して総長が「学問をもって社会の医師たれ」とはなむけの言葉を述べておりました。まことに立派な言葉でありますが、私はこれはまだ迹門の分域であると思います。なぜかならば、学問だけでは自分自身を救いきれないのが現実であります。ましてや社会の医師には到底なりきれません。大聖人の仏法を実践している創価学会に対して、世間には往々にして、感情的に、怨嫉半分に批判をする評論家や学者がおります。しかし、その人々がはたして自分自身を救いきり、歓喜に燃える人間革命をしきったか、二人でも三人でも、五人でも、現実のうえで、本源的に人を救いきったかといえば、はなはまだ疑問であり、ないといっても過言ではありません。人のことを批判するのは簡単であり、小学生でもできるが、実践は至難であります。
 当然、学問は大事です。たとえばここに立派な機械があったとすると、機械自体は学問です。しかし、機械があっても、動力となる電流がなければそれは動かないし価値を生じません。その動力となる電流に相当するのが知恵であります。立派な最新型の車を造ったとしても、ガソリンがなければ動きません。そのガソリンにあたるのが本門の知恵であり信心なのであります。信心をもった人の学問、これが最も大事であるし、その人こそ真実の社会の医師となれるのであります。したがって、諸君こそが末法濁世の本門の医師になって、社会は当然のこと、政治においても、文化においても、宗教においても、根本的に切開手術し、明確なるメスを入れ、薬を与えきっていける名医になっていただきたい。これは三大秘法の御本尊を受持した人以外には、なしえないことであります。
 大聖人は「法華経のために命を捨てよ」と仰せです。また一面では「法華経のために名をあげよ」とも仰せであります。この色心不二の大生命哲学は、永久不変の大生命であり、世界のいかなる哲学よりも、高く、深く、絶対であることは間違いありません。諸君は身口意の三業でそれを読みきっていただきたい。全生命、生涯をかけて間違いない大哲学のうえに生きていくということが「法華経のために命を捨てよ」になります。また御本尊を受持し、生涯、自分自身の力を最高に発揮して、悔いのない人生を生き、社会に貢献し、価値創意しうる有名人、偉人になっていくことが「法華経のために名を上げよ」になるのであります。
5  一般にいわれている有名人は、定めなき浮き草のようなものにすぎません。先日もA新聞のコラムに「マスコミが勝手につくっている有名人の大衆の幻影にすぎない有名がある。偉人と有名人とは根本的に番う。いまは、その偉人と有名人とを混同してしまっている時代だ」という意味の記事がありました。諸君は仏法を持った偉人、有名人になっていただきたい。これこそ本門の偉人であり、有名人であります。
 蓮華の法は、因果倶時であります。日蓮正宗といえば、七百年前からの仏法でありますから、なんとなく古い感じをうけるかもしれません。しかし、二千年以上昔の運の種であっても、今日、立派に花を咲かせているのが実相です。同じく、三大秘法の妙法蓮華経が、いま順縁広布の時きたって、大きく花を咲かせていくわけであります。これ以上の新しい開花現象はないといえるでしょう。
 仏法は体であり世法は影です。これは、常々私どもが口にしている大聖人の御金言であります。自分の持っている師僧、信念、哲学、これが自分の人生に大きく反映することは理の当然であります。御本尊を持って、題目をあげ、実践活動した場合には、事実のうえに、人間革命が進んで、生命力が横溢し、英知がみがかれ、明るく、逞しくなっていきます。これほどたしかな現実の証拠はありません。他の宗教団体、他の思想団体等は、どうみても地獄界の実相であり、また修羅界の行動であり、犠牲をともなった生活であります。論より証拠で、その現実の姿を見れば、裏づけになっている思想、哲学の実態がわかり、また裏づけをみれば、必ず現実の姿がそこに反映しております。皆さん方も大なり小なり、現実の証拠をとおして、御本尊の力、大聖人の生命哲学の正しさというものがおわかりでありましょう。
 どうかいままで以上にしっかり信行学に励んで、一生涯の、深い、強い基礎をつくっていただきたい。特に申し上げたいことは、なんといっても二十代に、大いに勉強するこでする。どれほど勉強しぬいても、まだ足りないくらいでしょう。その勉強も題目をあげたうえでの勉強、本門の勉強をしていくならば、なにもムダはなく、全部生きてしまいます。私も十五、六歳から、三十歳ぐらいまでの時代に、いままでの十倍、百倍ぐらい本を読んだり、書いたり、頭を使っておけばよかったなと反省し悔いております。
 一般の学生と同じような勉強だけで学生時代を終われば、これは普通です。そこでさらに一歩、本源的な、生涯の礎である信行学を実践しておけば、どれほどの力になるかもしれません。ですから信心のうえでも、生活や学問のうえでも、勉強して、勉強して、勉強しぬいて、これほどまでに自分は勉強した、しかしまだ足らない、もっと勉強していこう、書こう、読もう、こう決心して学生時代を立派に生かしていただきたいと思います。長い人生において、その人が将来の栄冠を獲得することは、絶対に間違いありません。人生の基礎は二十代です。これはよく恩師もいわれておりました。二度とこない青春時代、学生時代を決して悔いなく送るために、しいて私は訴えたえるものであります。
6  最後に申し上げたいことは、学生部の幹部会、または部旗授与式などのときにいつも申し上げておりますが、諸君が次の学会の、日本の、そしてまた世界の担い手であるということを忘れないでいただきたい。私自身は、どんな迫害があろうと誹謗があろうと批判があろうと、そんなことはなんとも思ってはおりません。また、いま三障四魔紛然として競い起これば、大悪起これば大善きたるで、必ず大前進できることも確信しております。さらに僣聖増上慢が起これば広宣流布が近いことも知っております。評論家といっても、学会に対してはまだ幼い評論ばかりをしており、とやかく反論する気持ちにもなりませんが、一流の評論家の批判は僣聖増上慢といえます。そのはしりがあることは、必ず広宣流布が間近であるという証拠であり、これほどの喜びはありません。
 大聖人の仏法は一重立ち入った第三の本門であって、いままでの先入観念では解くことのできない仏法であります。世間の人は、いままでの日蓮宗という概念、既成仏教による仏法というイメージ、宗教という概念はもっておりますが、日蓮大聖人の第三の法門、すなわち事の一念三千の大法門は知りません。それを知らないで批判するのは、ちょうど小学校の六年生あたりが微分、積分を論じ、また科学に無知な人間が、相対性原理の四次元世界の話を聞き、内容を会得もしないままその批判をしているようなものであり、全く、笑止千万な話であります。したがって、どのような批判がでようとも、私どもが、大聖人の仏法の奥底を覚知して、社会のため、人類のために戦っていく以外にない。
 諸君が一人前になり、大きく育ち、大活躍できる舞台は私が全部つくってさしあげたい。諸君が成長するまでは厳然と指揮をとってまいります。これだけが私の信条であります。大きい、広宣流布という舞台です。諸君が自分の自体顕照のために、すなわち各自の個性を生かし、どんな社会にあっても思う存分に活躍できるように道はつくっておきます。どうか、その私の気持ちを知って、勇んで進んでいただきたい。
 しかし、なかには自分は信心はいやだ、学会はどうも気にくわない、わかにもっと偉大なる哲学があるかもしれない、自分は自分の人生観で別に行きたいのだという人もあるかもしれない。そういう人は決して私は追いませんが、ただどんな人にも悔いない人生を送ってもらいたいと願うし、大きくあやまる人生コースだけは、踏んでもらいたくないと祈っておるがゆえに大聖人の仏法の実践を強調するのです。共に大聖人の弟子として、人々のために、自分のために、また平和のために戦おうという人は、私と一緒に進みなさい。
 命をかけ、学問を捨てて、政治運動の渦中にはいって、学生時代を生きた人もおります。過去においても政治運動に深入りして犠牲になった青年や学生が何人もいました。また現在までも韓国においては、学生が中心になって、あれだけの大暴動を展開し、政府と戦って犠牲を払っております。考えてみれば、このように日本でも外国でも相当数の学生が、学生時代に血みどろの戦いをしてきています。その半面、平々凡々と、学問をしているのだか、していないのだか、なんのために大学に行っているのだか、わからぬまま卒業を迎え、風前の灯みたいな存在で消えていく人もおります。それはどちらも不幸であります。
 それに比べると創価学会の学生部は堅実です。犠牲は一人もつくらず、自分も最高度に有意義に生ききり、人のためにも働き、そしてまた学問については、それを生かしきるための実践をしております。これが学生部の生き方であります。その点を冷静に見きわめて、しっかり把握して進んでいけば、なんの後顧の憂いもないことがおわかりであると思います。どうか、苦労をいとわず、しっかり勉強をして進んでいただきたい。諸君のご健闘を心から祈っております。

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