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日蓮大聖人・池田大作

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御本尊の力を体得 栃木本部地区部長会

1965.3.14 「会長講演集」第13巻

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1  遠いところを、たいへんにご苦労さまでした。
 皆さん方のひじょうに明るい、元気な姿を拝見して、私はひじょうにうれしい。
 からだを大事にして、うんと功徳をうけ、長生きして、楽しく、福運に満ちみちた人生を送っていただきたい。これだけが私の願いです。その方法はかんたんです。
 一生涯、三大秘法の御本尊をたもちきっていくことに尽きます。
 信心のこと、仏法のこと、宗教のことを、日蓮正宗創価学会ほど研究し、間違いなく実践しているところはありません。他の宗教団体、仏教団体は死んでいる宗教団体であり、仏教団体です。なにも力を与えることができない。そこへくると、日蓮正宗創価学会の場合は、ご存知のように、いっさいの宗教、ひとつの基準をもって、正邪を論じています。経文のうえで、深く深く討究して、教の浅深を決めております。これほど真摯な態度はありません。これなど求道心あふれる態度はありません。
 また哲学的に研究し、討議し、あらゆる哲学と比較検討して、この大聖人の大生命哲学が、永遠不滅の最高無二の大哲学であるということも、日夜の研さんでわかっています。大聖人も「我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし、我日本の柱とならむ我日本の眼目とならむ我日本の大船とならむ等とちかいし願やぶるべからず」。絶対に大聖人の大生命哲学は、破れないとのご断言なのです。宇宙の根本法則ですから、破れるわけがありません。生命の本質を法報応の三身、空仮中の三諦、南無妙法蓮華経として、説き切っていらっしゃる。これ以上の本質、根本はありません。
 また現証のうえで、不幸の人がどんどんしあわせになってくる。生命力を湧現し、人間革命、家庭革命をし、人のために、日夜元気いっぱいに働ききっている。これほど、厳粛な事実はない。厳然たる証拠です。ですから、宗教のこと、仏法のこと、哲学のこと、信心それ自体のことについては、私どもが数え切っていく以外に方法はないのです。
 他の政治、経済、文化、その他については、それぞれ専門の人々はいるでしょう。その意味においては私どもは耳をかたむけるし、勉強し、認識する態度は、とうぜんです。しかし、人生の根本問題、宗教の問題、信心の問題、これだけは、どんなことがあっても、私どもが教え切っていく、われわれしか知らないのだという確信で進んでいこうですありませんか。(拍手)
2  その確信をもって進んでいく人は、もう仏です。その人の姿、所作は如来の使いです。いな、それ自体が仏の所作なのです。境遇がいかなる境遇であっても、顔や形がどうであっても、そんなことは問題ではない。さいふの色がどう違っても、さいふがどんなにきたなくても、中身が大事です。価値は中身です。同じく妙法蓮華経という宝は、われわれどもしか持っていない。われわれども以外に湧現しえない。御本尊を受持しきって生涯を送り切ることです。退転してはいけません。退転させてもいけません。
 御本尊から離れたならば、どこへ行っても迷路です。根本的なしあわせはない。
 小楽を願う人がいる。小さい楽しみを得て、それが幸福と思い込んでいる人がいるかもしれない。そんな幸福は、風吹けばすぐに散ってしまう。時がくれば枯れて、散ってしまう。大楽は妙法しかない。大楽は変わらないものです。金剛不壊ともいう。また永遠の幸福ともいう。絶対的幸福とも名づける。仏法用語では成仏という境涯です。
 これをつかむには、とうぜん信行学しかありません。これを私たちは実践しているのですから、仏になれないわけがないのです。ですから、御本尊だけは、放してはいけません。放させてもいけない。この戦いを根本としていただきたいと思うのです。
 皆さん方が、何回も聞いて、わかっていらっしゃる御書でありますが、有名な「何なる世の乱れにも各各をば法華経・十羅刹・助け給へと湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり
 「何なる世の乱れにも」――総じていえば末法です。原爆がいつ落ちるかもしれない世の中です。大きくいえば、そこにつうずる。小さくいうならば、やれ強盗だ、交通事故だと、世の中が乱れ切って安心して生きていけない。そういう境遇にあっても。「法華経・十羅刹・助け給へ」ということは、御本尊、助けたまえという祈りです。祈りが信心です。勤行は信心の縮図です。その題目に信行がある。信の題目が大事なのです。そこに行の題目もまた生まれてくるのです。
 ただ、一時間勤行した、二時間題目をあげたといっても、ふわっとあげて終わったのでは、功徳は小さい。“このことを願った”“御本尊様、これを成就させたまえ”との強い、純粋な、深い願いがあって、題目をあげ、勤行した場合には、いまのこの御書につうずるのです。
 われわれは宿命に、ひのじょうに罪業が深い。末法の衆生が罪業の深いのは決まっています。いいことなどなんにもしてはいない。少しぐらい有名人になったり、金持ちになる人間はいるけれども、その人の一家はどうかと、みると、たいへんです。また、一生涯、その福運がつづくかといえば、つづきはしません。ある雑誌に、いままでの大臣をABCDDに分けた判定が載っていました。それから推測してみますと、結局あれだけ大臣になっても、たいした力などない。たいした偉業を成し遂げていない。そのあげく、ある総理大臣の家庭は、いまひじょうに貧しい、不幸であるという片鱗がうかがえる文章が載っておりました。みんな不幸なのです。
 私どもは、宿命転換のため、強い祈りをもっていくことが肝要です。
 「湿れる木より火を出し」――湿っている木は、マッチをつけても燃えません。
 だが、絶対に燃やしきってみせるぞという、その一念、その信心の濃さが大きく宿命を転換するのです。根本的な宿命転換、人間革命の大原動力になるのです。
 同じ機械を動かすのでも、弱い電流では機械の動き方は少ない。強い電流、ボルトで送れば機械はぐんぐん動いていきます。そのどれだけのベルトの電圧、どれだけのアンペアの電流を使うか、使わないかに相当するのが信心です。
 「所詮は各各の信心によるべく候」「信心弱くして、地獄へ落ちても日蓮をうらみ給うな」と各御書に出ております。
 「乾ける土より水を儲けんが如く」――かわいた土からは水は取れない。ですけれども、かわいた土から、絶対に水を出してみせるぞと。これも深い信心を意味しております。そのように「強盛に申すなり」――その強盛なる信心ができる方法は、どうすればよいか。これは学会活動しかないのです。
 根本は、大御本尊に強盛な信心をしていく。勤行をしていく。これは個人の自転です。こんどは学会活動、王仏冥合の戦いは公転。自転と公転が調和して完璧な全体になるわけです。この原理が立正安国論の原理であり、三大秘法抄の原理であります。大聖人の仏法の方程式です。その方程式どおり、御金言どおりに一分の間違いもなく実践しているのが創価学会です。これは自賛するのではありません。
 皆さん方が眼を開いて、御書を拝読すればわかるとおりです。題目をあげ、その力で生活を推進し、社会繁栄のため、宗教革命のため、王仏冥合のために戦っていく。その戦いのなかに仏界が湧現する。それでまた御本尊様に題目をあげ、また仏界が湧現するのです。
 信心強気を名づけて仏界となす。信心が強い。これしか仏界はないのです。信心がなくなれば、いくら御本尊様をたもとうが、いくら長い年月、信心をしようが、大幹部であろうが。仏界は消えてしまうのです。冥伏してしまうのです。その仏界を題目を一声あげても、学会活動にあっても、いつもいつも湧現しきる生命になっていくためには、信心と学会活動を永続的にやりきる以外にない。これを繰り返している人は、最後は勝利者です。最後は大聖人のおおせどおり人間革命、人間完成ができるわけです。途中でやめてしまうから止まってしまうのです。功徳も消えてしまう。そして“なんだ、こんなに信心しても功徳がないではないか”“これだけやったたけれども、どうも生活が楽にならない”というのは、信心がないのです。
 仏界が消えてしまっている。これが根本原因です。
3  それから「日々月々に強より給え」――このとおりにいかなければ、大聖人のおおせどおりの境涯には到達できません。また大聖人は勇猛精進とはおおせです。このとおりにいきましょう。(拍手)
 そうすれば、また有名な御書に「法華経を信ずる人は冬のごとし冬は必ず春となる」。大自然の道理を、そのまま、私どもが信心の大功徳をうける道理としてお説きになられている。
 「いまだ昔よりきかず・みず冬の秋とかへれる事を、いまだきかず法華経を信ずる人の凡夫となる事を」法華経を信ずるとは、末法の南無妙法蓮華経の法華経です。すなわち、三大秘法の御本尊です。これを信ずる人が宿命転換できないわけがない。絶対に幸福になるとご断言です。どうか、幸福になってください。(拍手)
 また有名な松野殿御返事には「法師品ほっしほんには「人有りて八十億劫の間・無量の宝を尽して仏を供養し奉らん功徳よりも法華経を説かん僧を供養して後に須臾の間も此の経の法門を聴聞する事あらば・我れ大なる利益功徳を得べしと悦ぶべし」と見えたり」――この法師品の御文は、人が八十億劫という長いあいだ。無量の宝を仏に供養するその功徳よりも、末法において、僧、なすわち大聖人を供養し、須臾の間も此の経の法門を聴聞する。すなわち三大秘法の大御本尊、そして日蓮大聖人の法門を聴聞するその功徳は、その八十億劫のあいだ、無量の宝を仏に供養した人よりも、さらに功徳があるとの意であります。
 三大秘法の大御本尊のことを、聞くだけであっても、それだれの功徳はあるのです。いわんや、皆さん方は、大聖人様の法華経をひろめているのです。大聖人のご遺命を実践しているのです。その功徳はどれほどであるかということを確信していただかたいのです。
 「無智の者は此の経を説く者に使れて功徳をうべし」――われわれは凡夫であり、無智です。「此の経を説く者に使れて功徳をうべし」――これは、とうぜん大聖人のおおせどおりに活動して功徳をうけなさい。すなわち、創価学会は仏意仏勅の団体であります。和合僧即団結をもって、自己の幸福と社会の繁栄のために、仏さまに使われて、活動していけば功徳が湧現することは間違いないのです。
 小さな文、小さな箇所のご聖訓でありますが、また耳にはたびたび聞いていらっしゃる御文であることもとうぜんであります。その一言一句を、自分自身の強い強い生涯の信心の糧にしていただきたい。このために申し上げたのです。
 この御書のとおりにならなかったならば、自分の信心が弱いのです。そうなるでしょう。ならない幹部がいたならば、その幹部は信心がなかったと断定されてもやむをえないのです。この御書のとおりになるわけなのです。御本尊に力がないか、われわれの信心が弱いか、それだけの問題です。
 御本尊様に力があることは、わかるでしょう(拍手)。あとは私どもです。信心には年齢はありません。貴賤貧富の差もありません。おのおのの信心によって、大法王である大聖人の王子ともなるし、反対に、本人の卑しい、弱き信心のために、みすぼらしい自己を見る人生にもなるでしょう。人のことばかりやきもちを焼いたり、虚栄高くなっていかなくてはならない、寂しい人生になる場合もあるでしょう。これもおのおのの信心です。
 どうか私とともに一生涯、明るく、強く、たくましく信心しきっていただきたいと思うのです。(拍手)
 どんなことがあっても、御本尊様を疑わないで、題目をあげきっていきなさい。
 大事なのは、それだけです。人間ですから、宿命的にひじょうに深い罪業があるかもしれない。病気もあるでしょう。交通事故もあるかましれない。だが、ぜんぶ信心があれば本有の妙法に照らされた病気であり、事故であり、死なのです。それは同じ病気であり、同じ事故であり、同じ死であっても、他の病気や事故や死とは、意味が本源的に違うのです。もう救われているのです。
 生命は永遠です。自分自身も絶対に結果として救われていきますし、そしてまた家族に、子孫にその証拠が残っていくものなのです。信心さえあれば、なにも悩むことがないのです。苦しむこともないのです。寂しがることもないのです。信心ほど強いものはない。
 話すことは、いつも同じです。うまいことは話せないし、うまいことを話す必要もないし、皆さん方ひとりこひとりが御本尊の力を体得し、御書のとおり生きて、戦っていただければ、それでいっさいが尽きるのです。

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