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日蓮大聖人・池田大作

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団結で大勝利を 茨城本部地区部長会

1965.3.14 「会長講演集」第13巻

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1  オリンピックのときに、なんといっても、雄大なる競技であったのはマラソンです。このマラソンで、世界最高の覇者として、名を残したのはアベベ選手でした。
 エチオピアのアベベ選手は、二度オリンピックで優勝している。たいしたものです。人間わざではない。われわれはべつにあんなに速く駆ける必要はありません。それはそれてして、あのリズミカルな、初めから最後までゆうゆうと戦いきり、ゴールインしていく態度、その根底にある訓練、これは見上げたものです。
 ある選手は、初めは速かった。だが、途中で息切れして、負けてしまう。ある選手は、初めはゆっくりしていた。最後にラストパートしてどんどん抜いていこうと思ったけれども、最後は抜ききれなかった。ある選手は、途中までいって落語してしまった等々、さまざまな姿がありました。ひとつの競技の例でありますか、信心も同じです。火の信心と水の信心、このふたとおりの信心があります。火の信心であってはいけない。水の信心ではなければならない。これは御金言のうえから、とうぜんなことでもあるし、道理のうえからもとうぜんなことであります。
 皆さん方は地区部長・地区担までなった。隊長・区長までなった。しかし一生成仏という個人のゴールにまだ到達していない。学会全体とすれば王仏冥合というゴールがあります。そのテープを切らなくてはいけない。どの人であっても、どこの団体であっても、どこの教団、政党であっても、それぞれの目的をもっております。駆け足をしております。“学会は強いから、公明党は強いから、もうゆっくりしょうではないか”と、安閑としていられるような世界ではありません。食うか食われるかです。勝負の世界です。なまやさしい社会ではありません。
 アベベのような、初めから最後まで、力走ができるにはどうすればよいか。信心にあてはめれば、やはり朝晩の勤行です。勤行は、時計でいえばゼンマイを巻くようなものです。機械でいえば電流をとおすようなものです。それを巻かなかったり、電流が通じなかったり、弱かったりしたならば、強い生命活動を湧現し、荒れ狂う社会を乗りきっていく人生の戦いはできない。いわんや一生成仏の因にはならない。朝晩の勤行をして、題目をたくさんあげて、いつも変わらない信心をしきっていただきたい。冥益です。しぜんに大成していきます。功徳を積んでいきます。人の姿を見て、あの人みたいに自分もやらなくてはならないと思えば、苦しい場合がある。人と同じようにしなくてはいけないか。そんな背伸びをする必要はありません。自分らしく、自分のペースで、題目により、勤行によって、一歩一歩、一足一足、完全に走りきっていただきたい。また歩みきっていただきたい。これでいいのです。かんたんでしょう。
 それを大きくいうならば、自分の地区、自分の支部を、自分の信心で、自分の責任で指導しきり、自分の使命を果たしきっていく。こんどは大聖人の弟子として、王仏冥合のひとつのギアを回しきっていこう、完全にそれを成し遂げていこう、これで完ぺきな信心になるわけです。ですから、自分自身の一生成仏、これは地球と太陽との関係でいえば、地球自体が自転していることにつうじます。
 こんどは、王仏冥合という目的のもとに活躍することは、太陽の回りを地球が回っている公転を意味します。この自転と公転があって、完ぺきになるのです。完ぺきなるリズムになるのです。
 御本尊様を根幹とした人生に矛盾はない。御本尊様を根本として目的に進む創価学会に絶対矛盾はないのです。それを自覚して、ゆうゆうと忍耐強く、一生涯進んでいけば、それが信心のぜんぶであります。どうかこれを忘れないでがんばってください。
 先日、北条理事長が、学習院時代か、海兵時代の友人と会った。その友人は、ある会社の重役候補になっている実力者ですが、そのときにいわく「創価学会は、いままでは隠然たる勢力であった。野に伏し、山に伏す姿であった。ほんとうにわれわれも無認識の評価で、やがて消滅していくだろうというくらいの認識しかなかった。
 こんどは公明党ができ、参議院、都議会でのあの力を見、五百万世帯以上の事実の動きを見て、また品川駅からは毎朝毎晩、登山列車が行く、自分の友人や近所の人たちも、だんだん信心するようになってきた等々、隠然たる勢力ではなくして、顕然たる勢力になってきた。驚きました」こういっておりました。あらゆる批判をされながら、ここまで発展してきた、その力、その源泉は何か。これは御本尊様の力です。そしてまた皆さん方の信心力です。
 戸田先生が学会を再建なされて、わずか十年余りです。しかるに、日本はとうぜんのこと、世界的になったというこの実相は、創価学会の信心、御本尊様の力、ならびに学会の指導力が間違っていなかった証拠です。これを証拠として、将来十年、二十年、同じく信心と指導力と団結をもって進んでいくならば、いまの何倍、何十倍になることは間違いない。現在を自覚して、未来を確信しながらら、同じペースで、同じ団結で、同じ指導力をもって、前進して大勝利を博そうではありませんか。(拍手)
 私どもを批判する人は罰をうけるのがとうぜんです。御書にも、あらゆるところで、それは説かれております。因果の理法です。その因果の理法も、根本的な大法則への反逆には、その結果もきびしいし、大きい。大聖人様も「釈迦仏の御敵いかなる智人・善人なりとも必ず無間地獄に堕つべし」と断定していらっしゃいます。
 「釈迦仏の御敵」――釈尊にも六種類ある。蔵通別の釈尊、法華経迹門、本門の釈尊、そして独一本門の教主釈尊です。すなわち末法今時においては、日蓮大聖人が御本仏でいらゃいます。その釈尊に師敵対する。どんなに「智人・善人なりとも」――いまでいうならば、総理大臣であろうが、大評論家といわれる連中であろうが、東大の総長といわれようが、全日本民衆から尊敬されている人格者といおうが、かならず無間地獄に堕ちてしまう。
 また大聖人様は、このようにもおおせであります。
 それは、釈迦当時の歴史を引かれてのお話でありますが「されば賢王の時は仏法をつよく立つれば王両方を聞あきらめて勝れ給う智者を師とせしかば国も安穏なり」。
 ということは、賢王のときは、賢い王、いまでいえば賢明なる大政治家、ならびに指導者の時代であるならばという意味であります。かならず仏法を強く立つ、すなわち仏法を根底にする。大宗教を根底にする。
 釈迦の時代であろうが、天台の時代であろうが、伝教の時代であろうが、末法今時であろうが、未来何千年、何万年であろうが、変わらない方程式なのであります。
 賢王は、すなわち、すぐれた指導者であるならば、仏法をまず立てる。しそて「両方を聞あきらめて」ということは、どの仏法が、どの宗教がいちばん高いかをかならず見きわめるというのです。比較検討するというのです。
 日本には、いま十七万ないし十八万の宗教法人があるといわれます。賢明なる指導者であるならば、どれが高いか、どれが邪教か、どれが正法か、どれが淫祠邪教か、どれが金もうけの宗教か、これを見きわめ、もっとすぐれた宗教、仏法を立てる。そしてその仏法を知る指導者、師匠を重んずる。であるがゆえに国も安穏となるとの意であります。
 阿育大王の時も、そうでありました。天台大師の時も、その同じ事例になっております。伝教大師の時の桓武天皇も同じであります。
 いま大聖人を師匠とし、あらゆる指導者が大聖人の大生命哲学を根底におくならば、国土安穏になることは、間違いないという依文なのです。
 したがって、いまの指導者連中、すなわち政治家連中などは、仏法はわかりっこない。どうしても私どもが仏法を教えていき、私どものなかから大政治家を出していく以外に国の安穏も実現できない。したがって、私どもが仏法の先覚者である。
 民衆の邪教がの解放軍である。いずれの人に対しても、正しい仏教を教えきる指導者でりある。その自覚を忘れないで、襟度をもって、進軍していこうではありませんか。(拍手)
 私どものなかから、りっぱな政治家を出して、王仏冥合して、国の安穏を期していこうではありませんか。これだけが、きょうの皆さん方に対するお願いであります。

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