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広宣流布の礎に 神奈川本部指導会

1965.3.5 「会長講演集」第13巻

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1  たいへんにご苦労さまでございます。(拍手)
 牧口先生は、よく「大御本尊に題目を唱えると、頭の構造まで変わる」と断言していらした。広沢虎造は「バカは死ななきゃなおらない」といったけれども、牧口先生は「バカにつける薬はある。それは題目だ」とおおせになっておりました。
 大聖人様からみれば、私どもは一寸先もわからない。ヤミの世界です。愚かです。どんなに学者といっても、あすの命もわからない。いかに偉大なる有名人たりとも、交通事故その他でしょっちゅう不幸な目にあっています。
 また御本尊を拝んでおりますと、しぜんに人相まで変わるものです。福々しくなるものです。皆さん方の先輩の姿を見ればわかるとおり、みんな利口そうであるし――おせじもあるかもしれないが(笑い)――人相もよくなっております。これが実相、事実の証明になるのです。したがって、御本尊にしっかり題目をあげきっていく信心を忘れてはいけない。
 ある人は言論界の中枢となって、広宣流布に花々しく戦え人もいる。あるいは衆議院議員、参議院議員になって、政界で大活躍をする人もいる。また将来は、世界的な外交官となって活躍する人もたくさん出るでありましょう。またある人は、財界で、教育界で活躍する人もたくさんいることを確信しております。
 しかし、きょうお集まりになった皆さん方は、そのようなヒノキ舞台で活躍する人ばかりとはかぎらい。学会だけをみても、理事や婦人部長や大幹部の存在だけではない。そこまでいく人もいるかもしれない。いかない人も多いかもしれない。これは妙法が決めることであります。また自分の使命が決定するものであります。
 千人の会長はいらない。いや、ふたりもいらない。ひとりでいいわけです。しかし、大事な組長、陰になって学会をささえている班長・班担さん、これは大事です。いな役職がなくても、どれほど広宣流布の礎になって、大聖人からおほめのことばをいただく人も数多いかもしれない。
 偉くなって罪をつくれば、その罪は大きい。一組員、組長であっても、純真に信心している人は、功徳は大である。大幹部だからといって。信心がなく、信心利用し、いばっておれば地獄へ落ちます。仏法はきびしい。因果の理法でする。
 したがって、私が申し上げたいことは、まず十年、二十年、三十年と信心をしきっていっていただきたい。自分のために、一家のために、子孫末代のために。この三大秘法の御本尊以外に、成仏の道はありません。福運を積む直道はありません。
 絶対にない。
 神奈川に事件が多い。それはいろいろな原因もあるでしょう。これを本源的にいうならば、どうしたって横浜、神奈川でいい調子になって活動していた総持寺や、孝道教団に決まっている。それを打ち破っていくぐらいの信心がほしい。
 それならば、どのように行動したらよいか。それは朝晩の勤行であり、一日一日の個人指導、座談会、折伏でいっさいが、含まれてしまう。むずかしいものではない。
 大聖人のおおせどおり実践する人は、信心が強い。その自覚がある人が、信心が深い人なのです。それで、皆さん方が福々しくなってもらいたい。安穏な生活をしてもらいたい。
 しかし、もうひとつ願いたいことは、皆さん方がヒノキ舞台で、政界や教育界や言論界や学会の舞台で、活躍の表にでなくても、お子さん方を育ててもらいたい。
 そこへいっさいを託して題目を送ってあげてもらたい。
 そのお子さん方が、皆さん方に代わって大きい活躍をするでありましょう。功徳をうけて有名人にもなるでしょう。力ある地涌の菩薩として活躍もするでしょう。
 じみであっても、そのことを大きい希望として進んでいただきたい。
 また、お子さんがいらっしゃらない方は、たくさんのまだまだ信心を知らない人がいる。信心していない人がいる。そのなかから、次のりっぱな指導者を、大幹部を育てていこうという念願で進んでいくならば、境智冥合です。依正不二です。その人は自分自身が即偉大なる指導者であり、功徳をうけることも間違いない。このような気持ちで楽しく水の流れるごとく、忍耐強い信心をしていっていただきたい。
 ちょっと話がむずかしくなるかもしれませんが、かのキリスト教においては、初めはどの偉大なる宗教であっても――偉大なる宗教は日蓮正宗しかないけれども与えていうならば――、信心が強盛であり、その活動も個人のみならず、一国、世界にと進んでいった。いままでの歴史が証明しております。
 だが、途中から、教会が権力をもち、僧が権力をもち、信者はその教会や僧をとおして神を見る以外になくなった。そこに大きい断層ができた。だんだんだんだん型式化してしまった。
 それはキリスト教のみならず、仏法の世界においても、いかなる世界においても、共通の問題です。日本の仏教界もほとんどそうです。僧がいばり、僧がなにもしない。僧につかなければなにもしてもらえない。かわいがってもらえない。葬式にきてくれない。
 これは宗教の世界においては、根本的なあやまちなのです。ですからキリスト教においても途中において宗教革命があった。それで旧教と新教に分かれたのです。
 新教はバイブルをとおして神に直結した。すなわち化儀を従にして、化法を根本にした。
 創価学会の強いのも、あくまでも御書をとおして大聖人に直結しているからです。
 僧を尊敬しないという意味ではありまれん。あくまでも御本尊が根本です。大聖人が根本です。大聖人と境智冥合するゆえに功徳があるのです。大聖人のおおせどおりの活躍をしているし、できるものです。
 したがって、創価学会では化法を根本とし信心を根本として、化儀は従の問題になっているのです。形式は従の問題であります。
 でから皆さん方は、御書をとおし、大聖人に直結しきった信心をしている。功徳はあります。とうぜん日蓮正宗という宗門に、大御本尊様がおわします。また御相伝をうけられた猊下がいらっしゃいます。もう“鬼に金棒”です。
 それは御本尊様を受け、御授戒をうけることはとうぜんです。しかし、その御本尊と直結できる指導、信心が、大聖人様のおおせどおりの仏意、仏勅にかなっているのです。
 どうか自信をもち、確信をもち、創価学会は絶対間違いのない信仰をしている、大聖人に直結した活動をしている、このことを強く確信して進んでいただきたい。
 われわれは大聖人様の子供です。弟子です。大聖人が私ども子供を苦しめるわけはない。どんなことがあっても、大聖人は親であり、師匠であり、主人です。皆さん方のお子さんが「おかあさん、おとうさん」といって、しがみついてくるみたいな気持ちで、御本尊にしがみつきなさい。願い切りなさい。
 大きい鐘があって、小さく打てば感応は小さい。大きく打つならば、感応は大きい。道理はすべて同じです。題目をしっかりあげさない。そうすれば、おのずからわかってきます。
 ただ諸注意になりますけれども、二年前に、親切なあまり、謗法払いをやってあげた人がいた。事実は、その家の人が「お願いします」といっておきながら、ちょっとしたもめごとから「かってに学会人がやった」と指摘されて罰金を取られることになりました。
 本人も、いまひじょうに功徳をうけ、方法として間違っていたということは反省しておりますまが、折伏にあたっては、事故のないようにお願いいたします。
 世の中には、どういう悪い人間がいるかもしれません。学会の指導どおりにしていただきたい。つまらないところで、皆さんに迷惑をかけ、学会に迷惑をかけ、法を下げて、親切がかえって仇になって、わわぜいの人にご迷惑をかける。
 それ自体が、現在では大きくマイナスになることを知っていただきたいと思います。
 事故のないように、本部の指導どおりに、すなわち日蓮大聖人のおおせどおりに進んでいっていただきたい。皆さん方の願いを、私も御本尊様にしっかりご祈念しておきました。このつぎお目にかかるときには、もっと福運をもち、若くなっていただいて、そして髪の毛も一か月に三遍のところを、五遍ぐらいパーマに行ってもだいじょうぶなような(笑い)家庭になっていただいて、さきほども申し上げたように、若々しい一生を送っていただきたい。きれいな一生を送っていただきたい。
 見えやなにかでなくして、皆さん方をみんなまわりの人が見ております。「うらやましいな。まったく楽しそうだ」と、無言のうちに示しきっていけるおひとり、おひとりになっていただきたい。これが人間革命です。そして、これが即社会革命につながるのです。
 いくら学会でりっぱなことをいっても、ひとりひとりが貧乏根性で、きたなくて、形相が悪くて、意地悪だったならば法を下げてしまいます。「なんだ、あの人を見ろ。何年信心してもあの姿ではないか」といわれてしまいます。
 反対に「ずいぶん変わったな。たいしたものだな」といわせることは、何千人、何万人につうずべき、折伏になっている。また力になっている。この責任があるとおもってがんばってください。では、きょういらっしゃらない方々にも、くれぐれもよろしくお伝えになってください。

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