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日蓮大聖人・池田大作

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世界平和に貢献しょう 男子部隊旗授与式

1965.3.2 「会長講演集」第13巻

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1  ほんとうにおめでとう。ひじょうに私もうれしい。時代は刻々と流れていく、そしてまた、人の心も刻々と変わっていくものであります。先日、副理事長の同志と、さまざまな懇談をした。その時、そうとう実力のある指導者と会った話をいたしました。
 その人いわく「いまは総無責任時代である。日本の国は、なにやかやいっても、太平ブームだ。日本ほど、いま安穏として暮らしている国はない。世界を回ってみても、他の国々はそれ相応の苦悩があるし、真剣さがある。日本の国は困ったものだ。このままで何十年もいくと思ったら大きな間違いだ。何百年もこのままつづくと思ったら大きな間違いだ。世界情勢は、変化に変化を重ねている。
 総理大臣にしても、いったんなってしまうと無責任になる。名誉だけで、保身だけで、人気だけでうまく通り抜けて終わろうとしている。ひじょうに残念なことだ」という意味のことをいっておりましたた。それは、いわなくてもとうぜんなことです。われわれがよく知っていることであります。
 その本人は、やはり日本の前途をひじょうに心配している。だが私からいえば、本人も、こうさせてしまった責任者ではないか、こう注意しておいたのでありますけれども、その時にその人は「そういわれてもやむをえない。私も悪い。だけれども方法がないので」と弁解しておりました。
 その話を、副理事長会でいろいろと雑談的に話した。「いざ日本の国に、もっともっとたいへんな時代がきたら、いったいどうするか。命を張って、日本民衆の幸福と安泰を築く指導者が、団体がどこにあるか」いまでも支離滅裂です。いわんや大事な時代にはいった場合には、さらに支離滅裂だ。手のほどこしようがない。
 したがって、無責任な、勝手気ままな批評家や、評論家や、僧上慢の連中が多いけれども、自分自身に、家族に、一家に、一国に、深刻なる事態を感じたときに、いったいどういう態度をとるか。そのあわてふためいた姿は想像にあまりある。
 しょせんは、日蓮大聖人の大仏法を奉じた、この鉄の団結をもって、王仏冥合を成し遂げていく創価学会をさしおいて、日本の救済はありようはずがない。少し賢明な人であるならば、少し冷静に物事を考えている人であるならば、だれでもわかることであります。
 私は、その有名な指導者にいいました。
 「創価学会はどこにもヒモつきではない」
 「ああ、それはよくわかっております」
 「二百万、三百万人の青年が、新しい時代を建設しているではないか。観念論ではない」
 「ああ、そのとおりだと思う。私も創価学会の未来に、大きい期待をかけております」このように述懐しておりました。だけれども、おとなのいっていることというのは、どうしても信用できない。口がうますぎるから、腹黒いから。
 私ども青年が、次の日本の建設のため、世界の平和の貢献のために、さらに団結を強めて、いま批評したり、無認識の批判をしている連中も、かならず心のなかで、あるいは面と向かって「申しわけないことをした。やっぱり創価学会に、皆さん方に頼む以外になかった。皆さん方のおかげで、平和な暮らしができる」と言わせきれる時代がくることを強く確信して前進してまいろうではありませんか。(拍手)
 大御本尊様は絶対である。組織も完ぺきである。寺院、会館も布石しおわっております。あとは人材の成長を待つのみであります。ふつうの革命であったならば、青年が二百万、三百万集まれば、とっくに暴動が起こっております。だが私どもは無血革命です。大聖人の仏法は道理です。平和革命でなくてはならない。
 もっとも生命を尊重する、そしてまた本源的な人間革命への戦いであります。したがって、時間は少しかかるかもしれない。あまり早くできたのでは、かえって寂しい。大聖人の仏法は冥益です。そのかわり功徳を積み切ったらこわれない。邪宗は通力で、一時的には現証が出るけれど、あとは地獄です。
 あと十年、二十年、いな三十年かかってもいい、永遠の生命からみるならば短時間です。楽しく、有意義に、充実感をもって、自分のために、社会のために、思い切り張り切って指揮をとっていただきたい。がんばっていただきたい。(拍手)
 私は入信して十八年になります。私は私なりに、大聖人の仏法を根本として、同志の姿を見ております。冷静に、洞察もしてきております。青年部の生みの親、育ての親は、とうぜん戸田先生であります。しかし実践のうえの育ての親は私であります。
 したがって、同志の姿、後輩の姿、先輩の姿、皆、私は十八年間をとおして、ひとつひとつ分析もしております。確信をもち、自信をもって皆さん方にいいきれる。おのおのがひとしく大御本尊を奉持し、信心している。その哲学は、日蓮大聖人の生命哲学である。ぜんぶ実践は同じです。
 だが、たまに信心弱い、疑い深い、根性曲がり、利用主義、要領主義の青年もいた。
 反対に、ひじょうに地味であるけれども、強信であり、根性があり、人のために真心がある、その人々の姿を何人も見ていた。自分も信心しているのですから、鏡が、基準があるゆえに、人の姿はよくわかります。自分に基準がなければ、人の姿はわからない。
 したがって、私は、あのような信心をしている人間、同じ学会の青年部であり、同じ戸田先生から指導をうけているけれども、ちょっとおかしい気がする。この青年は花々しくないけれども、将来はきっとりっぱになるような気がする。このように、私なりに分析していたけれども、ほとんど100パーセント、結果は事実としてあらわれてきております。
 諸君は、信心根本にして、よい先輩について、よい同志について、十年、二十年、一直線に仏道修行しきっていっていただきたい。かならず栄冠はあります。悪い同志、悪い友だちは、信心があればわかるはずです。おかしいなと思ったならば、自分が確かめてあげればいい。そっちに引っぱられてはけっしてならない。
 たとえていうならば、星野義雄君は、もう青年部を卒業した。しかし、十何年前は、ひじょうに貧乏な一介の小僧です。たいして学歴があるわけなもない。しかし彼の信心、実践は見事なものでありました。彼よりも先輩はいっぱいいた。頭のよさそうな先輩がいたけれども、学会とはこんなものかとバカにし、御書もろくに読めないのに、端のほうだけかじって、自分はたいした頭の持ち主だというぐらいに思って、増上慢になって退転して、いま苦しんでいる人もおります。
 星野君は、まっすぐに「月月・日日につより給へ」の御金言どおりに進んでいった。いまでは、力ある印刷工場の社長です。学会の副理事長です。都議会議員です。次は衆議院議員です。十何年前にだれが想像したか。ほんとうの小僧の姿だった。しかし、その真剣なる、御本尊に対する取っ組み方、創価学会員としての、青年部員としての自覚、喜び、法を求め切っていくその求道心、これが、十年、十何年先には花を咲かせております。
 まだ彼は四十代そこそこです。四十代そこそこで、いっぺんも落選しないで衆議院議員になって、社長であって、副理事長であって、何万、何十万、何百万の人の尊敬をになうなどということは、ふつうではできえないことです。これが現証です。その基準をもって、あとのことはいくらでも、私はひとりひとり申し上げることができますが、善悪ともに、皆さん方もきょうを出発にして、どうかよき先輩を見習っていただきたい。アッというまに青年時代、青春時代は終わります。なんでもいいから、御本尊の力、そしてまた大聖人様の仏法の偉大さはわかったのですから、あとは諸君が成長しなさい。努力しなさい。勉強しなさい。
 学会についていこうか、どうしようかなどといってはもう間に合わない。また、ほかの道を行って、いいところがあれば、いくらでも行きなさい。それから帰ってきたのでは、青年時代は終わってしまう。青春時代は終わってしまう。人生はきびしい。社会もきびしい。間違いない土台であることは、いままで申し上げたとおり、私は確信をもち、自信をもっていいきっておきますから、あとはそれぞれの信心です。努力です。求道心です。
 このことをよく心に銘記して、まず十年先をめざして成長していただきたい、戦っていただきたい。
 最後に、これは提案事項になりますが、男子部も約千五百部隊になんなんとしている。この千五百部隊を記念して、できれば全部隊長の体験なり、決意なり、随想なり、希望なり、部隊の現況なり、そして伝統なり等を、一冊の本にして出したらどうかと思うのです。題名等は諸君が自由につければいい。それで三月いっぱいに原稿を出すことにして、四月に本にすればよろしいのではないかと思う。諸君ひとりひとりの部隊長が、学会全体の部隊のようす、または部隊長のようすもわかるし、親近感もできると思うし、強い、事実上の連係、結合も可能であると思うし、その意味において提案しておきます。
 部隊長以上の幹部も皆載せてあげれば、されにけっこうであると思う。その編集等においては、参謀室が責任をもって、りっぱな本として青年部の歴史の縮図として作っておかれてはどうかと思う。諸君のご健闘をお祈りいたします。ご苦労さまでございました。

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