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諸君こそ学会のにない手 学生部部旗返還授与式

1965.3.1 「会長講演集」第13巻

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1  おめでとうございます。私も心から喜んでおります。まことにうれしい。
 張り切って、信心も、王仏冥合の戦いも、また自分自信の勉強もやっていただきたい。ぜんぶ勇気をもって、元気にやりきっていただきたい。それをまず祈る心でお願い申し上げます。
 学生時代は勉強もたいへんです。アルバイトもたいへんです。おまけに後輩のたくさんの人たちの信心の指導もしなくてはならない。他の学生よりも仕事が多い。
 悩みも多いかもしれない。しかし、それほど尊いことはありません。それがぜんぶ、自分自信の将来の土台であり、財産であり、血肉になることを知ってもらいたい。
 大御本尊様を根幹として、ムダがあるわけがない。いな何倍も価値ある人生の充実ができるわけです。大聖人様は親です。師匠です。主人です。もっともかわいい、もっとも遊びたいさかりの学生を、なんで苦しめたり、なんで不幸にするわけがありまか。
 同じスタートに立った、信心ある学生と信心しない学生とでは、十年、二十年後の差は、明瞭です。これを確信していただきたい。
 いつも私は申し上げている。それは、学生部は創価学会のにない手です。跡継ぎです。日本の未来の指導者です。それだけでなくして、東洋、世界の指導者になってもらいたいのが念願です。
 自分のことを自讃するのはよくないことでありますが、私はいままでいったことは、また約束したことはぜんぶ実行しております。どれ一つとして、完成していないものはありません。実施しないものはありません。また実現していないものもないわけであります。
 それは皆さん方もご存知であると思うし、先輩によく聞いてくださればわかります。諸君がにない手である。その道だけは切り開いてあげたい。ヒノキ舞台だけはつくってあげたい。これが私の念願です。心境であります。あとは諸君が成長して、力ある指導者となって、思うぞんぶんにあばれまわっていただきたい。大活躍をしていただきたい。
 諸君の先輩は、諸君がこれから進んで行く大事な道しるべである。
 たとえていうならば、いまあいさつをした矢追秀彦君は、学生時代から信心してきた。こんどは博士号をとることができます。
 ひとりむすこで、お坊っちゃん育ちで、創価学会の青年部の再建当時に入信して、今日まで戦ってきております。十何年間の信心です。信心しなかったら、いまごろノイローゼまたは自殺か、または小さい会社の一社員かです。それが信心もやりきった。即学業が生活です。学業もりっぱに達成しています。落第なんかしておりません。健康であり、福運に満ち、すえは博士か大臣かというが、両方いっぺんに取れるなどというのは、ありえないことです。それも弱冠三十歳そこそこで、これは厳然たる証拠ではありませんか。よしんば、利口げに学業を終わったとして、だれびとが心から尊敬してついてきてくれますか。虚無的になったり、怠惰主義になったり、ただ高慢チキになって終わるぐらいが関の山です。それが何十万、何百万の人に尊敬され、その人々を事実のうえで指導し、そして救っていく。これほど有意義であり、尊い偉業はない。
 また諸君の学生部長を見てもそのとおりではありませんか。学業もきちんとやってきています。いっぺんぐらい落第したようだけれども、いまは民衆の若き大指導者として活躍して、みんなから尊敬されている。
 名実ともに力ある指導者になっております。勉強も、青春時代、学生時代、いっさいが信心を根底として勝ち切った姿ではありませんか。あと十年先、二十年先はどれほど開けているか。その土台はやはり戸田先生のもとで、学生時代に植えつけたその財産が大きく花を咲かせております。
 篠原君も同じです。諸君と同じ先輩のころから信心している。もし信心しなかったら、いまごろ結婚して女房といつもケンカして(笑い)。「あなた月給はどうしました。東大を出たというのに一銭も働いてないじゃないの(笑い)。子供がおります。水道料が上がります。ガス代も上がります。いったいどうしたらいいんですか。“灯台(東大)もと暗し”じゃありませんか」(笑い)そしていまごろは精神病院に行っているのが関の山ではないかと、私は確信して疑わない。(笑い)
 そのほか諸君の先輩は、りっぱそうなかっこうをしておりますけれども、準じてみれば同じです。
 秋谷青年部長も学生時代から信心して、青白い顔をして、いまごろはだいたい結核病院の十年選手として、病院に費用を提供して、病院を発展させている一青年でありましょう。(笑い)おとうさんたちも、むすこを産むんでなかった、病院の費用を出すためにわが人生はあったのか。このくらいが関の山です。(笑い)
 それが、いまでは言論界の中枢となって、大指導者として、思うぞんぶん新しい道をつくっています。何百万という青年の中心となって、指導者となって活躍しています。同じ早稲田大学を出て、友人たちとの差を考えた場合、どれほどの大きい違いになっているかは明確なる事実ではありませんか。
 諸君も、どうか悩みもあるだろう、たいへんなこともあるだろう。そんなことは青年だからあたりまえです。だが御本尊様だけは放してはいけない。創価学会にはついていらっしゃい。それだけは歯を食いしばって、決め切って前進しなさい。多少の紆余曲折なんかみんなあることも知っています。そんなことはぜんぶ包容してあげます。一念三千の大理法を、身をもって皆さん方が体得しなさい。そうでなければ損です。
 剣道の練習にはいったとする。初めから剣道の達人の心境、ならびに力はもてない。何回も何回も剣道の練習をして、初めて五年、十年先に、剣道の達人の境涯をうる。色心ともに、ワザもその力が備わる。
 ピアノにしても、芸術にしても、また踊りにしても、いかなる世界においても、その道理は同じです。信心根幹のその会得というものは、これはたいへんなことでありますが、会得してしまったならば、これ以上の力は他にないのです。中途半ぱであってはいけない。
 それは学生であろうが、女性であろうが、壮年であろうが、学者であろうが、工員であろうが、ぜんぶ人間です。その根源であるべき妙法の湧現、仏界の湧現ということは、人生として重大問題のカギなのです。学生である場合には、頭脳も明晰だ。優秀だ。さらにそれを会得していくべき過程が早い。信心の助けがどんどん、どんどん、学問によってもできるわけです。
 その事の一念三千という当体を信心により、学問により会得していくならば、これは即身成仏でありますから、いますぐ自分の生活、自分の学問においても、最高度に、力も出る。しかし十年先にも、同じその大きい人生の力として、ゆうゆうとして生き切っていける原動力はもうつくったことになるのです。
 それをいまから実践し、勉強して、会得することに取っ組んでもらいたい。そうすればなにも心配することはないのです。一念三千という法門をつかみきる。体得しきる。柔道でも剣道でもたった二年や三年で、達人にはなれっこないではないか。いわんや永遠の生命の根本であるこの大法門を、ただちにぜんぶ会得することは、できないかもしれない。だからといって、退転したり、逃げてしまったり、避けてしまったならば生涯損です。これだけは止めてあげたい。
 どうか、さきほど申し上げたように、張り切って進みなさい。希望に燃えて進んでいきなさい。私とともにがんばろうではありませんか。

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