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日蓮大聖人・池田大作

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新時代の折伏活動と社会性 新時代の折伏活動と社会(座談会)

1964.7.7 「会長講演集」第12巻

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1  大仏法の広まる時、内部充実に重点
  五月三日の総会以来、五月度、六月度の二か月間で、じつに六十万世帯の折伏ができたわけですが、これは学会始まって以来の大折伏で多くの新入信者を迎えたのですが、まず、この点からお話しいただきたいと思います。
 会長 時がくれば、春には一挙に桜の花が咲き、秋になれば稲が実るごとく、その方程式と同じで、日蓮大聖人の大仏法がひろまる時がきたと理解してよいのではないでしょうか。
2  学会の指導勢力が成長した証拠
 会長 それで、日蓮大聖人の仏法でなければ絶対の幸福というのはありえない、他の思想や他の哲学ではものたりない。それでは確信がもてないという証拠でしょう。
 ですから、どんなにひろめようと思っても、ひろまらない時はひろまらない。教・機・時・国・教法流布の前後といっても、時がいちばん大事なのです。法華経にしても、十小劫のあいだ大通智勝仏は説かなかった。釈尊も四十余年間説かなかった。
 日蓮大聖人様は「時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり」と予言されて、大聖人の仏法のひろまる時が今だと申されているのです。したがって折伏すれば、かならず信心する人が多くなってきている時代です。
 ちょうど、夏に炭を売っても売れない。冬にアイスクリームを売っても時にあわない。夏はアイスクリームが必要で、冬は炭が必要である。
 鎌倉時代のヨロイを、いまの時代に、いくら持っていても使う必要がないのと同じです。広宣流布の時、まさに今なりとの感じです。
  たしかに“時”が根本になりますが、皆もよくがんばったと思います。
 会長 それは、ひとつには、学会の指導勢力が成長した証拠です。社会人としても、いろいろな点から功徳をうけて仏法を立証できる力をもった、そういうことになったと思います。
3  折伏はあくまで万人が喜ぶ形で
  元気のあまり、一部では折伏の行き過ぎがあったようにも聞いていますが、これはいけないことですね。
 会長 それは、あくまでも本部の指導どおり、全部徹底しなければなりません。そうすれば、万人が納得するのです。万人が喜びます。それで結果的には、折伏もしやすくなるのです。行き過ぎは、今後は絶対あってはなりません。
  結局、そうした一部の幹部のために、大勢の人に、学会に対して、大きな不信をいだかせたり、信心に対する不信をしだかせることになったらたいへんです。
 会長 それは大悪になります。大善の行動をしている学会に対して不信をいだかせることは大悪です。順縁広布の時代にはいって、そういう行き方はいけません。
  気がついたら率直に認めて改めるべきですね。
 会長 そうです。折伏がたくさんできても、利用根性で、はいってくる人間がいますし、どうしても、あせって座談会をとおさずに入信させた場合は、こちらが受け身になる場合などがあります。これは学会をこわすもとになる。学会にとっては大きい迷惑です。ですから、信心してもらうなどという、あせりの折伏をしてはいけません。
4  座談会は楽しく明るいふんいきで
  折伏に行く場合、相手にもよりますが。
 会長 できるだけ座談会に誘うという行き方が正しいのです。一対一の友だち関係をつくって座談会に誘うことです。
  座談会中心にやれば、間違いないわけですね。
 会長 そうです。そして今度は、座談会で、その人が入信しなくても、あと気まずくないようにしてあげなければなりません。かならず連れてきた人と仲良く友だちになって、親しくお付き合いしていきなさいという指導が大事でしょう。
 いずれにしても、座談会は、楽しく、みんなが納得するように、具体的に、明るいふんいきをつくることです。そして、信心しようがしまいが、長くみてあげる余裕がなくてはならないのです。
5  仕事を本尊と心得よう、自覚をもって判断
  学会員がふえて、あちらこちらの職場で問題になるのが残業です。会社が残業をしてもらいたいときに、これらは学会活動で、なるべく早く会社を飛び出したい。そういう場合のジレンマです。
 また社長がたまたま学会幹部であったりする場合、座談会に行ってはいけないとはいえないし、残ってはもらいたいし、そういうところで、へんな空気になる場合がありますが……。
 会長 根本は本人の自由意思です。自由意思であり自覚です。なぜならば学会員となると物の考え方がひじょうに発達してきますから、常識もよく重んずるのではないですか。その場その場において、冷静に判断すべきでしょう。
  それも、やはり、事業主とよく話し合えば……。
 会長 そうです。しかし、そのことは、もともと学会とはなんら関係なしに考えるべきです。仕事のうえの問題を信心活動に持ち込んでは学会利用になります。おたがいに協調できれば、とうぜん協調もする、話し合いをしてもらいたいと思います。
  どうしても、信心が強いと、みんな幹部会等へ行きたくなってしまう。
 会長 事業のうえで……労使の関係で信心だ、学会だなどということ自体が大きいあやまちです。そういうことは抜きにすべきです。それをからませるから、おたがいに利用するようなかっこうになる。
  両方で信心を両するようになるのですね。
 会長 それは謗法になります。
6  一家の協調は話し合いでつくる
  折伏活動では、よく婦人部が相談にくるのですが、活動しているあいだは「折伏すれば功徳がある」といって、家の仕事も夜中になるし、家にばかりいると、班担さんには「やってない」といわれるし、という悩みですが、そういう点はいかがでしょうか。
 会長 まず婦人としては、賢明な婦人になることです。すなわち、いまの学会の婦人部の大幹部の姿を見てもらいたい。大幹部はほんとうにそれぞれの立ち場で、理想的に、きちんとやっています。それが証拠です。大幹部の家庭を見習うことです。
 それで今度は、班担さん、地区担さんや、組担さんは、自分のなすべき責任だけは、どのようにして果たすべきかをよく考えていただきたい。
 それで、一家の和楽、一家の平和、一家の協調だけは、できるかぎり話し合いをすることです。できないわけはないのですから、かえって、なんだかんだと、家庭内の問題を学会や信仰にからませることはいけないことです。
  しぜんのうちに、そういう生き方を身につけて、やっていけなければならないわけですね。
 会長 じょうずにやっていけるのが、御本尊の円教たるゆえんなのです。ですから、ほかのことでケンカなどしておいて「忙しい、忙しい」と信心活動に結びつける
 ようなことはすべきではないのです。
  それから、学会行事と休暇の問題ですが、会社をむりに休んでまで活動する人があったようです。そのへんのことは、やはり考えていかなければならないと思うのです。
 会長 そうです。仕事を休んではいけません。仕事は本尊である、職場は本尊であると思ってください。そして生ききっていくための生活の糧ですもの。それができないことは、人生の根本自体をこわすことになります。
 また、なにか困ることがあったり、問題が起きた場合は、遠慮なく、各本部なり、支部なり市民相談所なりに、積極的に行ってもらいたいと思うのです。ひとりで悩んだりしてはいけません。
 社会のチームワークを考えて、幹部も相談をうけた場合は、安心して働けるようにいろいろ話も聞いてあげることです。そのぐらいの余裕をもって、適宜に指導し、行動をとっていくのでなければ、長い長い広宣流布の旅路はできません。連日の生活はきびしいものです。
7  班一世帯できたら信心指導に切り替え
  折伏の班一世帯の問題ですが、ことしの年頭の目標が毎月平均して班一世帯というわけでしたが。
 会長 最大限として、班一帯、この方針は変えません。したがって、ある地区で十班がひじょうに伸びて十五世帯できた。ほかの班で一世帯もできなくても、その地区としては目標達成したとみなして、あとは信心指導にはいっていただきたい。それ以上はする必要はありません。
 むしろ内部のほうが大事なのです。そういう時代にはいりました。したがって、幹部会でも、ひとりひとりの確立が打ち出してあるのです。
  たしかに一家のなかで、ひとりだけ信心していたのが、両親が信心するようになり、家族全員が信心するようになるということは大きな前進ですから。
 会長 そうです。それが実質の力です。形式的に数を追っていくことは大きな誤りです。
  そうでなくても、順次、班はふえていくのですから。そういうふうな実質の充実を図る時といっていいわけですね。
 会長 そうです。五百万世帯の組織を完ぺきに鉄筋コンクリートのようにしなくてはならな。それに力を入れることは、三年先、五年先に、その倍、三倍の力になるのです。ほんとうに安定して内部充実すれば、あわてなくても、しぜんと信心はするものです。
 なぜならば、もう学会は実質五百万世帯。一千数百万の同志がいるのです。個々の確立を図っていけば、しぜんに向こうから信心したくなってくる場合もあります。
 そういうときにこちらがしつっこく行くことは自然に反します。土台ができあがっていれば、しぜんに依正不二の力になるのです。
  折伏がしつっこいといわれる場合がありますが。
 会長 粘りと親切とは必要です。しかし、度を越してはなにもなりません。余韻を残すことをおぼえることです。「もう少し考えさせてくれ」という人に「なんでもかんでも」と強硬に粘ることは、かえってマイナスになる場合もある。これはいけません。
  とくに相手が忙しそうなとき、また夜おそく折伏に行くことは……。
 会長 それは禁止しなければなりません。学会本来の指導ではないのです。職場での仕事中の折伏もすべきではありません。
8  つねに礼儀正しく慕われ尊敬される人に
  そこで社会性をめぐる問題として、座談会ですが、時間は九時半までとなっていても、あとの話で幹部ともなると帰りがおそくなる場合があります。これも、十一時までには帰って寝られるようにというのが指導としてあるわけです。座談会でよく問題になるのは、オートバイや車をめぐってです。
 会長 それははっきりと指導して、おたがいが注意しなくてはなりません。
  その場で、いっぺんに動かさないで、少し押していってから動かすと……。
 会長 そう、それが社会性です。常識の問題ですからね。近所がうるさいなと思った場合でもちょっとえがおで「いつもすみません」とか「ご迷惑がかかると思いますがよろしく」とか、ていねいに礼儀正しくあいさつすることです。全員がその気持ちにならなければならないと思います。
 信心するしないは、人間は感情の動物ですから、ほんのちょっとのところで決まる場合があります。好意ももつし、ちょっとした学会員のふるまいで信心をやめてしまうし、退転してしまう場合もある。そこのところが微妙なところです。
 その点みんなが注意していかなければ、新時代の建設とはなりません。それが勝ちいくさの源泉になります。
 ですから、人間としてだれからも慕われる学会員として成長しなければならない、尊敬まではかなくても。(笑い)とうぜん三類の強敵に対しては、師子王のごとくでなければなりませんが、一般的にはそういう気持ちでいかなければならないのです。
9  九時過ぎたら学会歌は歌わない
  それと、もうひとつは学会歌ですね。
 会長 学会歌は、九時過ぎには絶対歌わない。これはどこの会合でも守っていただきたい。苦情や迷惑は、みんな学会本部にくるのですから。(笑い)
 とくに、都会では注意しなければなりません。とくに形式的に歌う必要はぜんぜんありません。
  それから、座談会に遅刻する問題ですが、遅刻すると行きにくいという空気をつくってはまずいと思います。仕事のつごうでおそくなる場合もありますからね。
 逆に私は、地区部長とか支部長とか、大幹部は遅刻してはならないと思いますが……。
 会長 仕事の場合には、たとえ座談会に遅れても、仕事をきちんとしてはせ参ずることです。けっして窮屈な思いをさせてはなりません。官庁のように出勤簿を押すわけではないのですから。(笑い)
 幹部になればなるほど、後輩に対する理解をしてあげてもらいたい。上にいけばいくほどきびしいほうがいいのです。下にいけばいくほどやさしくしてあげるのです。学会という世界はとくにそうです。
 また、担当の幹部で行けなかった場合は、かならず代理を出すとか、連絡をとるなりしなければなりません。指導する人がいなくては、指導をうけようと思っている人たちが、がっかりしてしまいますから。それは断じていけません。
 しかし、今度はうけるほうは、万一、担当者がこられないような場合であっても、なんとなく怨嫉して、反抗的になったりしては、仏道を求める態度ではないのです。大白蓮華を読み合ったり、勤行したり、または体験発表したり、いろいろな打ち合わせをしたり、有意義にすごすべきです。
10  指導をゆがめずそのままを実践
  それと、問題は「先生がいわれたことに文上と文底がある」などということが、まだいわれることがあります。「先生はこうおっしゃっているが、ほんとうは早朝勤行をやってもよい」などと。そういうことは、指導上はっきりやめさせるべきですね。
 会長 それはそうです。たとえば本部で会合は九時半まで、早朝勤行はしてはならない、日曜の会合は九時からと決定していることに対して「それは文上だ。文底は、大闘争のためには十時、十一時までやってよいのだ」などと勝手な解釈をして後輩を引っぱっていく。
 それは、自分のやりたいことを正当づけていこうとする我見の行き方です。文底というのは、信心のうえにいうべきことばで、けっして乱用してはなりません。
  学会の指導には、文上も文底もない、そのままうけて実践すべきですね。
 会長 そういう指導をする幹部がいたら、これはいうことを聞く必要はありません。各本部長に報告してください。
  社会性の問題でいえば、ふだんの付き合いが大事ですね。
11  近所、親戚とも正しく付き合い
 会長 そうです。近所の付き合いはひじょうに大事です。信心してないからといって、無口になったり、人を疎外したりしてはならないのです。どこまでも近所は近所です。それに、遠い親戚も正しく付き合っていかなければならない。慈悲をもって、信心しようがしまいが、きちんとしていくことがもっとも大事です。
  つねに親しくしていれば、なにかあったときに、なんだかんだいったり、いがみあうようなことはありませんね。
 会長 そのとおりです。
  社会性ということは、よく知られているのですが、具体的なことになるとわからない場合があるので、これをわかりやすく話していただきたいと思うのですが。
 会長 社会性ということは、あくまでも宗教のための宗教、信心のための信心だけではない。あくまでもわれわれは、信心を車にたとえればガソリンとして、車で走っていくのは道路である。それと同じように一切法は仏法である。信心を根幹としながら、社会人として隣近所の人とも、信心は別として親しくなっていかなければならない。だれとも仲良くしなければならない。職場においても職場の第一人者になるという意味でがんばっていかなくてはならない。なんでも社会に生きていることを忘れてはならない。すなわち、信心をもった社会人は、こんなにもりっぱなのか、包容力もある、話がわかる、常識があるといわれるように……。
12  水のごとく変わらぬ信心を貫く
 会長 たとえていえば、信心したら、どんな場合でも折伏しなければいけないとか、極端に。どこでも題目をあげなければいけないとかというふうなことは非社会性です。信心は個々の確立であって、社会人としては、いっさいの社会人と付き合っていくことがとうぜんです。それを極端に、学会人は別なのだという意識は間違いなのです。
  一日に何万遍題目をあげようとか……。そういう人もいますが、どうでしょうか。
 会長 そうですね。受持即信心ですから、生涯、水のごとく変わらない信心をしていくということが根本になります。
 ですから丑寅勤行をしなければいけないとか、個々の自主的なものは別として、何万遍題目をあげなくてはいけないとか、そういった指導は極端です。極端な形式的な火の信心になるおそれがあります。あくまで個人の特別の事情があって自主的な意味においてやることは別ですが。
  社会性という問題も、結局、信心が中途半ぱな人ほど社会性がないといえますね。
13  よき社会人となり大仏法を宣揚
 会長 そうです。似非信者です。自分は信心しているから、なにをやってもいいのだ。自分は信心しているから特別だという考えで社会にはいっていった場合には、非社会性になってしまう。
  もうひとつは、最近、とくに社会性が強調されていると感ずるのですが、どうして、それほど社会性が必要になったのかという問題ですが……。ひとつには会員があらゆる階層にふえたからということがいえるでしょうか。
 会長 そうです。学会自体はもう大衆です。それに一般の人々が創価学会ということを知ってきましたからね。したがって、一学会員は一社会人としてふるまって
 いくことが、いいほうにも悪いほうにも印象づける。
 一切法が仏法であり、また仏法は道理ですから、道理正しい生活をしていくうえの源泉なのです。ただ、われわれは日蓮大聖人様の弟子であり、信者としての社会人として、大聖人の法を宣揚していくという意味からも、とうぜんのこととなります。
 功徳をうけるのは九界です。仏界は信心です。九界は社会であり生活のことです。
 どういうふうに信仰を源泉として、働いていくかというところに社会性があるのです。政界においては信心根本にした政党、それから、おう盛なる生命力をもって政治の実践に、進展に、どう寄与するか、これが社会性です。学校へ行って一生懸命勉強して、成績を上げること自体が社会性です。どうして成績が上がったか、その根本は信心だと、こうなるべきです。そこで学校へ行きながら、勉強しないで信心ばかりしていたのでは目的が違う。
 社会性ということは、信仰上の妥協ということではないのです。信心が透徹すれば、とうぜん社会性は出てくるものです。摂受という意味とは違います。
14  信心に名を借りた活動はあやまり
  不合理とか非常識とかいうことは、信心していない人からみても、学会人からみても、同じと考えてさしつかえないことですね。
 会長 そうです。ですから朝から晩まで題目あげていて仕事をほうっておく、これは不合理です。非社会性です。信心が強いとはいえないのです。先日も話したのですが、牧口先生も、結局は道理正しい生活、常識的な人間として、社会人として生活していくところに、信心のあらわれがあるともいわれていた。
 それから夜おそくまでやっていて信心が強いとはいえない。早く休んで翌日の生活に備えるのが正しい姿です。また家庭もほうりっぱなしにして、髪の毛をくしゃくしゃにして、それでいくら信心のことで働いたとしても、だれも美の価値とは思わない。これは非社会性、強信とはいわれない。信心に名を借りた行動に流されている。信心根幹として、家庭、境遇、社会のより以上の価値創造をしていくのが信心の目的なのです。
  その信心と行動というものに、ひとつの錯覚があるわけですね。
 会長 社会人としてりっぱになる、たいしたものだといわれる信心をするならば、信心即社会性となるのです。いくら信心強盛のような人でも、社会的に今度はマイナスの行動をしている場合は法を下げることになり、これは完成された信心のありかたではけっしてない。これは新時代にはいってとくに大事なことです。
15  非社会的な行動はマイナス
  みんなで話し合う必要がありますね。
 会長 信心の根本ががっちりしていれば人もついてくる。功徳もはっきりみえるものです。全員が一騎当千になることが目的であります。非常識な人が、今度は信心がわからず非社会的な行動をとった場合には、大きく学会にとっては反価値となります。その意味からも、いま社会性が大事になってきているのです。
16  御本尊は一世帯に一幅安置
  自分のへやがあって、勤行する時間が家族のものと食い違っているというとき、御本尊様が二幅あってもいいかという質問もありました。
 会長 よくありません。やはり一世帯は一幅です。ただし、大きい家で、親たちとむすこたちが世帯を別にしていたり、下宿のように暮らしている場合などはいいでしょう。世帯が完全に別になっているのですから。
  御本尊様を受ける場合に、組長とか班長さんが、御供養を立て替えるという折伏の仕方は、絶対にいけないと思うのですが。
 会長 いけません。それも法を下げます。ただし、弟の分を立て替えるとか、そういった特別の関係の場合は別ですが。
  次に、両親や家族の中心者が信心に反対の場合、御本尊様を持たせてよい場合と、悪い場合があると思うのですが、その場合になるといっぺんでは決められませんね。
 会長 たしかに二種類あります。私などは、両親も一家も反対で、謗法のなかで御本尊様を受けたのです。具体的にそういった大幹部もたくさんいます。辻:副理事長はどうでしたか。
17  きちんと受持できるまで待つように
  私は下宿していましたからなんの問題もなく……。
 会長 根本は本人の決意です。
  そうですね。あまり自主性のない人は持たせられないですね。
 会長 そう、自主性のある人には持たせてあげたほうがよいのです。
  さきほどの内得信仰の問題と関係しますが、御本尊様がなくても、たしかに青年などは近所で勤行させてくれとか、座談会にはいつも出てくるとか、そういうかたちで信心活動をやっていますが、それでいいわけですね。御本尊様は受持できなくても、具体的な学会活動をやって……。
 会長 そうです。
  そして、寝るときに大石寺のほうを向いて題目を唱えて寝る……。
 会長 それでよろしいでしょう
  信心があれば絶対にあげるようになると思います。そうなると、御本尊様を持たない人は学会員には入れられないというような考え方もなくなってくると思うのですが。
 会長 そうです。それは、むりをせずに少し時を待ってあげることです。
18  伝統の座談会で折伏、個々の人間完成こそ根本
  これからの折伏はどうあるべきかという点ですが。
 会長 これからも、いままでも同じですけれど……。(笑い)座談会をとおすことです。座談会で懇談していくこと。お友だち、知人を座談会へ連れて行くのです。
 学会三十五年来の伝統であり、鉄則です。
  新時代へのわれわれの活動とは、いかにあるべきでしょうか。
 会長 向こうから「信心をさせてください」というところまで社会の空気を盛り
 上げ、そういうリズムをつくっていくことが新時代です。
 われわれも王仏冥合達成のために折伏戦を展開していくことはとうぜんでありますが、反対に、今度は向こうから「信心をさせてください」という時代に変えていくことが、これからの戦いでもあります。学会本来の指導をそのまま会員が実践すれば、かならずそうなってきます根性の悪い人は別として。
  そうですね。一と月が入信する人が三十何万というと、新潟、静岡……。ちょうど浜松が三十五万ぐらいです。
19  右に信心、左に大衆の包容力を
 会長 これからは、本部の新時代への指導に徹し、個人個人が信心を確立し、主体性をもって人生観を確立していけばいいのです。そうなれば、ほんとうに事故は起きないのです。そういう方向に今後はがんばっていきましょう。そして、たとえば、ひとりがふたりの友だちを折伏すれば、三倍になってしまうのです。すでに一千五百万世帯となります。
 ということは、人数にすれば四千五百万人で、日本人口の半分です。大地に足を
 しっかりおいて、それで個人の確立をしつつ、友人を救っていくのです。右に信心、左に大衆の包容力です。
 折伏にあっては、大聖人様は“みえをたたえて”といっています。えみをたたえるということは、あせってはならない、楽しい、ゆうゆうたる行動であれとの御金言と拝します。
 強敵に対しては、勇敢に戦うことは仏弟子としてとうぜんであります。しかし、
 友人に対しては、おたがいに尊敬していかなければならないのです。
20  御本尊生涯放さず、紹介者は信心で指導
  御本尊様の取り扱いについてお願いします。
 会長 御本尊は日蓮大聖人の生身と拝することです。その信心でなければなりません。したがって、紹介する人はその自覚でなければならない。
 それで、一幅の御本尊をしっかり受持することが受持即観心です。御本尊を“物”と扱うようになった場合は罰をうけます。学会精神に反します。信心ではありません。それは紹介する人の精神がまず大事です。新入信者の人はまだわからないのですから。紹介者の信心です。その紹介者の功徳は絶大です。
 ですから、御本尊を受けた場合は、本人がお持ちする、おうちへ行ってご安置したり、そういったことは、手伝ってあげてよい。そうなると代理下付ということはありえないはずです。
21  代理で御本尊を受けてはならない
 会長 代理で受けるなどということは絶対あってはなりません。大なるあやまちです。この点は、指導の月にしっかり指導してほしいと思います。たとえ世帯数が何割か減ったとしても、ほんとうの大信者が大事です。さきほどの指導どおり、どうかひとつ、間違いない信心指導をしていただきたい。大幹部はよくわかっているはずですが、中堅幹部の方々はじっさいに直接の折伏、指導にあたりますから、よくわきまえていただきたいと思います。
  御本尊様を受ける年齢について。
 会長 社会人の場合は十六歳以上。学生は大学生、高校生の場合は両親の了解をうる。小・中学生には絶対受けさせてはいけません。
  二男、三男はいずれ分家するのだからとか、また、娘さんに、どうせお嫁に行くのだからいまのうちに受けて持っていなさいという人がいますが……。
 会長 厳禁です。
  謗法払いについてお願いします。この場合、いちばん問題になるのは、他人の物をどうするかという点ですが。
 会長 手をつけるべきではありません。
  近ごろでは謗法払いについては、あまり問題は起らなくなっていますが、やはり多いのは奥さんが信心したという場合に、主人のお守りなどを黙って焼いてしまうといったケースのものです。
 会長 やはり主人の物ですから。まだまだ日本は封建的な観念も強いですし、奥さんが信心しても、まだ信心がはっきりしない場合には、そのままでいいでしょう。
 本人の信心さえ強くなれば、魔にも負けないし、そのうちに払うこともできます。
  題目をあげていくうちに、自分からいやになり、気がついて、謗法を払っていく、それを待ってあげなければならない場合だってあると思うのです。
 会長 そうです、それを待つのです。
22  普段の信心が大事、形式は第二義で
  五座三座は、だれでもとうぜん実践すべき修行ですが、たとえば真夜中に帰宅して、どうしてもあげられない場合など、どうでしょうか。
 会長 やむをえない場合もあります。それは本人の自由意思ですから、止めるわけではありませんが、周囲が寝静まっているときでしょう。それもやはり“時”です。夜中は寝る時です。そのときに大声を出して迷惑をかけたりしてはなりません。
 日ごろの信心がしっかりしていれば、題目三遍でもよいし、十遍でもよいし、それできちんとつうずるのです。
  間借り生活や、壁一重のアパートなどですね……。
 会長 そう、同居人とか、寮生活とか、病院の中とか……。題目だけでもけっこうです。小さい声で百遍なり、二百遍なり、きちんと唱えて、五座三座にとらわれる必要はありません。ある場合には、方便品・自我偈・題目と、それでいい場合もあります。
  とくに問題になっているのが、汽車の中と船の中の勤行です。
 会長 信心のうえからはいいことですが、なにも、そのときにあげなくても、ふだん信心をしっかりしておけば、そのときは楽しい旅でいいでしょう。
 それに、社会に与える影響はマイナスになる。奇異な感じを与えます。むしろしないほうがいいと思うのです。法を下げてしまう場合があります。これからは、そういう行き方は是正すべきです。
  九州や北海道から二日も三日もかかって総本山へくるときなど、やはりやらなければと思うらしいのですが。
 会長 それは、本山へ行こうというその因果倶時の信心でつうずるのです。そうでしょう。ちょうど母親思いのむすこが、母親に会いに行く途中“おかあさん、おかあさん”と叫んでいるようなもので、ちょっと奇異に感じます。おかあさんのことを思っていけば、それでいいわけなのです。
  それから、家族に反対されて五座三座ができなかったり、何得信仰の場合ですが、功徳が違うでしょうか。
 会長 信心があれば、同じことです。御授戒をうけたうえの内得信仰ならば功徳は同じと考えてさしつかえない。形式にとらわれて、信心の厚薄は決まりません。信心の深さ、それで功徳の浅深が決定されるのです。ただ信心弱くして、それを口実に信心がなくなっていくことは、厳にいましめなければなりません。
  それから御本尊送りのさいの勤行ですが、みんな、さまざまなのですが。
 会長 これはとうぜん何種類かに分かれるでしょう。家族が反対で、ひじょうに感情的になっている場合など、題目三遍だけで、あとでゆっくり教えてもいいと思います。逆に五座三座を教えてもらいたいというような人に対して、題目だけで帰ってきたのでは無慈悲になります。臨機応変に考えて指導していただきたいと思います。
  初めてですから、一座でもひじょうに長くかかるわけです。
 会長 五座三座をやらなければならないという必要はないでしょう。一座でもいい、方便品と自我偈でもいい、題目だけの場合もある。ただ、御本尊ご安置ということだけははっきりして失礼すべきでしょう。
23  店先などで題目を唱える必要なし
  次に人の家を訪問したとき題目をあげますが、店先で奥のほうを向いてあげたりしますが……。
 会長 これは必要ありません。われわれはうちで題目をあげればいいのですから。
 よその家まで行って、いわんや商売などでいって……、そんなことは絶対してはならないのです。
 ですから、これからは、学会の会合以外で「御本尊様を拝ませてください」などといわれた場合は拒否すべきです。
  そうですね。同志だというと、すぐゆだんしますしね。とくに知らない人など絶対に拒否すべきですね。それに関連しますが、御本尊のないへやで、会合の初めに題目をあげる必要は……。
 会長 必要ありません。原則として御本尊のないへやでは、あげないほうがいいでしょう。実質主義でいきましょう。

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