Nichiren・Ikeda
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伝持の先駆者に
12月度教授会
1964.12.29 「会長講演集」第12巻
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1 ことし最後の教授会になりますが、たくさんの教学陣営ができあがりましたのもので、来年もひとつ、皆さん方が率先して力ある教学部員に仕上げていただきたいのです。心から念願いたします。
ひじょうに広範囲でありますもので、いちいち私どもがめんどうをみるわけにもいかないし、直接的に皆さん方、教授の方々が偉大なる思想界の先駆者をつくっていただきたい。訓練していただきたいのです。
先日、総本山に行ってまいりました。お会式の時でひじょうにいい天気であり、陽気もよく戸田先生のお墓参りをし、五重の塔のところのお墓参りもしてまいりました。その途中、ちょうど、御塔橋の所で、富士山もくっきり見えているし、いっしょに行った同志の方々と写真でも写そうではないかと、写真をとったわけです。
聖教新聞の写真部だから優秀なカメラマンです。技術も最高なわけです。
それで、どんな人がとったとしても、きれいにとれるに決まっている。それほどの上天気でしたが、できあがりました写真が思ったよりよくとれていない。ということは逆光線だったわけです。あんないい天気でありながら逆光線になると、ひじょうに画面が悪い。せっかくの好男子なのに(笑い)、みんなだいなしになってしまいました。信心も同じです。
いくら大幹部になった、大教授になったといっても、そこに純粋なる信心がない場合には影がでます。また、皆さん方が勉強する、たくさんの人々が教学の試験をうけた。末法の経文は御書です。御書を読み、御書を勉強した場合には、絶対功徳があるのです。いわんや私どもは実践をしております。身口意の三業で御書を読もうと努力している。功徳が出ないわけはない。境涯が開けないわけはないのです。
2 ところが、実践がない、教授として権威主義である。または、教学部員になっても、実直に信心している人に対して、利口ぶる気持ちで小バカにしたりすることはいけない。自分は要領がいい。もし、そのような教学であり勉強の仕方であったとするならば、それはいくら学会の栄光ある教学陣営であったとしても、功徳は少ないどころか絶対にありません。
逆光線の写真と同じです。むしろ、それ以上に、悪い、その点もどうか気をつけていただいて、皆さん方の力はあるのですから、後輩の人に力をつけるための実践をしていただきたいのです。自分だけの教学であったならば、それは逆光線と同じです。慳貪の罪になってしまう。使命だけは、どうか私に代わって、しっかり完遂していただきたいことを、心からお願いします。(拍手)
また、昇格試験、ならびに任用試験合格百二十万人以上の人がこんどは試験をうけたわけです。こんなすごい世界はない。思想界、哲学界、仏法界の大革命です。
だれがなんといおうがこの事実、この現象、この実相、これこそつぎの時代を築いていく偉大なる建設の姿です。前進の姿です。この姿をどこまでも失わないように、より以上に進ませていくようにしていきたい。その原動力は教授陣です。皆さん方にお願いする以外にないわけです。
3 それで、いままでもキリスト教、共産思想、そのほかカントにしても、ヘーゲルにしても、アリストテレスにしても、プラトンにしても、ソクラテスにしても、儒教にしても、マホメット教にしても、世界的なたくさんの思想、哲学、宗教が流布されてきました。だが、伝持の人がいない。命をかけて、この哲学ほど、この宗教ほど偉大なものはないと断言できる人がいない。これは、とうぜんなことです。その根底となる思想に矛盾がある。また、いまでは時代相違です。
創価学会も大を成してきたし、思想界の王者である。だが、それを観念的に勉強し、ただ口でいっているだけだったら、その道理としては、いままでの思想、宗教、哲学と同じ轍を踏んでしまう。大事なことは実践です。信心は実行です。実践です。広宣流布の暁まで、王仏冥合の達成まで、いな、それ以上に信心と実践を貫き通した時に、この大聖人の大生命哲学は死なないですむのです。生かしきっていけるのです。(拍手)
その伝持の人の先駆者という自覚をもって、私どもは、また来年一年も大きく深く進んでまいりたいと思います。ご健闘をお祈りいたします。(拍手)