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日蓮大聖人・池田大作

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団結かため大前進 幹部指導

1964.9.23 「会長講演集」第12巻

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1  きょうの本部落成入仏式に参加できなかった同志の方々には、皆さん方からくれぐれもよろしくお伝えになってください。この本部建設を出発としまして、本部長を中心に、さらにさらに鉄の団結をもって、楽しい前進をしていただきたい。
 小さい静岡本部でありますが、どちらかというと、なんとなく愛知のほうの本部にもはいるわけにはいかなくなってしまった。東京のどこかの本部につくわけにもいかない。中途半ぱな本部になりがち性質の本部であった。本部長も、どうも愛知の文化祭に行くわけにもいかないし、静岡本部だけで文化祭やその他をやるわけにもいかないし、困ったものだといっておりましたが、小さい本部でけっこうでありますから、もっとも総本山と縁の深い、日本の中心であり、世界の中心点となるべきこの拠点の静岡本部が、他のいずれの本部に対しても、あらゆる点で模範となり、あらゆることでリードしているという充実しきった静岡本部になっていただきたい。このことを心からお願い申し上げます。(拍手)
2  第一に、もっとも大事なことは団結です。野球でも、それから“東洋の魔女”といわれる世界的なニチボーのバレーチームにしても、ぜんぶ団結の力、訓練のしからしむところ、勝利を博している。仏法においても、和合僧とし、異体同心とし、団結が根本であるということは御金言どおりであります。一家においても、会社においても、一国においても、政界においても、学校においても、どんな世界でも、団結があるか、ないかによって、その世界の目標、目的が達成できるか、楽しくその世界で、個性を発揮して進んでいけるかということが決定されます。
 日蓮大聖人様も、団結を破るものは師子身中の虫なりとおおせであります。信心が純粋であれば、しぜんに団結ができます。目標に向かって前進していくならば、おのずから団結ができます。自分自身の感情、利害、権威等をもった場合には団結はできない。したがって、学会内においても、そのような人は落伍します。ついてこられない。全員、御本尊を抱きしめて、月々の目標、そしてまた、創価学会の目標に向かって、幹部の皆さんがしっかり団結して、ほんとうにうるわしい、明朗な静岡本部の進軍をしていっていただきたい。お願いします。(拍手)
3  第二番目に申し上げたいことは信心ということに立ち入った場合には、妥協は必要ない。あくまでも後輩の指導、そして、折伏にあたって、堂々たる戦いをしていただきたい。きぜんたる態度をもって臨んでいただきたい。ただし、指導にあたり、そしてまた、折伏にあたって心しなくてはならないことは、自分の権威や自分の名聞名利のためや、感情をもって自分を尊大に見せようという行動であっては断じてならないということです。いばらないこと、背のびをしないこと、権威をカサにきないこと、どこまでいっても同じ人間として、自分は早く御本尊の力を知ったのだ、知らない人よりも少しでも功徳をうけてしあわせになっているのだ、とのうるわしい気持ちをもって接していただきたい。そうでないと、組織主義、権威主義等に陥る場合がある。そのような人は、やはり最後に苦しんでいきます。信心根底ではないから。
 一生涯、御本尊を根本として、学会の大幹部らしく、ゆうゆうと信心修行に、そしてまた折伏行に、そしてまた、指揮をとっていただきたいことをお願い申し上げます。(拍手)
4  第三番目に申し上げたいことは広宣流布の機熟し、これだけ偉大なる民衆の大行進があれば、御金言に照らして三障四魔、三類の強敵が現われることはとうぜんです。「大悪をこれば大善きたる」です。批判のアラシがあればあるほど前進が早いし、広宣流布が近いのです。恐れてはならない。
 ぜんぶ風の前のチリなるべしという大決意をもって指揮をとっていかなければ、学会の大幹部とはいえません。日蓮大聖人様の弟子とはいえません。後輩を擁護して、勇敢に、来年に向かって一日一日進んでいただきたい。
 いまの評論家は利害で動いているのです。私がかつて読んだ本の中で、感銘したことがあります。というのは、そのことの善悪は別問題として、無政府主義を唱えた幸徳秋水の事件の時に、時の作家であり、評論家といわれた徳富蘆花が、明治天皇にまで「死刑にすることは間違いだ、もう少しよく糾明すべきである」と進言しようと思っていたという後日談があるのです。
 自分の文筆にあっても、それは国賊であるといわれる。ただし、その社会主義者等を死刑にする者自身もそれでは国賊だと、その本人は真剣に国を改革しようと思って戦ったのではないか、との論評なのです。当時とすれば、そうとうの勇気が必要です。そう思うでしょう。けっして幸徳秋水がいいとか、それから、無政府主義がいいなどということは、毛すじほども私は申し上げません。死刑になり、そういう事件になること自身も、そのひとつの根底の思想のいかんにかかわることはとうぜんでありますが、その蘆花いわく「行き詰まった時代に社会を改革しようという者が出ずして、なんで社会が改良できるか。したがって、賊人といわれるような先覚者がいなければ、社会の進歩はないではないか。個人においても、賊人といわれるぐらいのその反発心をもって、一家を、自分自身を改革しようという信念がある人こそ偉いのではないか」と。
 「なれあいの妥協や、惰性やなにかに流されるのでなくて、なにかを改革しよう、よくしていこう、とのその信条に対しては、心すべきものである。心して考えなくてはならないものである」というような意味のことが書いてあったことをおぼえております。
 その根底になる思想は別として、私どもはいろいろ批判されますが、批判している人たちが、どういう信念をもって社会を改革しようと思っているか、どういう信念をもって、理念をもって、いままさに自殺せんとする人、悩み苦しんである人を救っているか、救うことができるかと反詰したいのです。なんにもしていない。ぜんぶ観念論です。口は重宝なもので、批判なんかすることは小学校一年生だってできます。子供だってなかなか口はたっしゃです。いわんや、金をもうけながら批判するなどということは、ひきょう千万です。
 言論の自由だからいくらしてもかまわない。それはそれとしても、私どもは、自分もしあわせになる人間革命をしていく、その大仏法をたもっている。隣人をも革命してしあわせにしている。社会をも革命している。その革命も無血革命です。だれからも一銭ももらわず、それだけ、人々のため、社会のために最高に働いておりにがら批判される。これは歴史の常であり、とうぜんのまた、先駆者の進むべき道なのです。(拍手)
5  ですから、戸田先生も「辛くとも嘆くな友よ、明日の日に、広宣流布の楽土をぞ見む」との歌をくださいましたが、私どもは、自分自身が幸福になりながら、功徳をうけながらの前進であります。他の先覚者や、そして、革命家等は一家を犠牲にし、一身を犠牲にして社会のために尽くしてきております。かわいそうといえばかわいそうでありました。
 それに対して、私どもはしあわせであります。どんな批判があっても、ゆうゆうと打ち破り、ゆうゆうと乗り越えて、批判してきた人たちをほんとうにすごい、驚いたと、心の底から動執生疑させるまで、がんばりきっていこうではありませんか。それが学会精神です。これが幹部の精神です。
 そして、この静岡の地を地盤として、皆さん方も、子供のためにも、子孫のためにも、永久に栄えていく妙法根底の地盤を、皆さん方が先駆となって築いておきなさい。
 この中からも、何人、何十人、何百人の市会議員、県会議員、参議院議員、衆議院議員も出てもらいたい。出られない人も子供のためにがんばってください。そのことをお願い申し上げたいのです。(拍手)
 しょせんは、皆さん方のためであり、ぜんぶ一家のためです。このことを忘れてはならない。また、結局は、そうなっているでしょう。学会のためでも、広宣流布のためでもない、ぜんぶ自分のためです。だったならば、文句をいう必要はないのです。
 最後に申し上げたいことは、どうかくれぐれも忍耐強く、どこの座談会へ行っても、どこの会合へ行っても、和気あいあいと笑いがとまらないような明るい会合の静岡本部であっていただきたい。お会いするたびごとに「成長しているな、頼もしいな、安心できるな」ときょう集まった方々だけは、絶対にいわれるように、また、いえるようになっていただきたい。(大拍手)

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