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日蓮大聖人・池田大作

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信心とは実践なり 静岡本部入仏落成式

1964.9.23 「会長講演集」第12巻

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1  たいへんにおめでとうございます。(拍手)
 総本山まします静岡県に、小さいながらも本部ができましたことに対しては、私も心から喜んでおります。いままでいろいろとお話がありましが、どうか心を合わせて、皆さん方の幸福のために、そしてまた、後輩の人の幸福のために、思うぞんぶんに活用していただきたいと思うのです。(拍手)
 私は形式が大きらいです。大事な儀式であっても、わざとなごやかに、楽しくさせたいという心で、行動する場合があります。ということは、どんなに学会の幹部になっても、いつも人間性を忘れず、庶民性を忘れず、形式を排して、実質的な信心を根幹とした、たくましい、明るい前進をしきっていきたい。人間性ということは、常識的ということであります。これがほんとうの学会員の行動であり、実相でなくてはならないのです。
 皆さん方も、ある人は支部長、ある人は婦人部長、または部隊長等々、その後輩は何千人、何万人もいるわけです。どんなに幹部になったからといっても、いつも変わらざる庶民性、人間性をもって「いっしょに幸福になっていこう」「いっしょに三障四魔と戦っていこう」「私も苦しかった、だけれども、このように戦っている。あなたもがんばりなさい」との心意気をもって進んでいってください。お願いします。堅苦しいことはいっさいぬきにして、実質主義をモットーとしていただきたい。(拍手)
2  私ども信心していく者は、即実践をしていかなければならない。信心とは実践です。実践がなければ観念論です。観念論のなかには、なんらそこに価値を生じない。前進はありえないのです。よく見かけますけれども、車を二日も一週間もとめておくと、だんだんさびついてしまい、きたなくなってしまう。あき家も同じです。
 機械も同じです。ほおっておけば、動かさなければ、さびてしまう。
 人間も同じです。真剣に頭を使い、からだを使って働けば、それだけのいちおうの効果が出るのはとうぜんです。堕落して「向上していこう、社会に貢献していこう、生活を豊かにしていこう」という意欲がなければ、その人の効果は出ないのです。
 道理はすべて同じです。したがって、生活の上にあり、社会の上にあっても、ぜんぶ、共通の問題でありますが、一歩深く、仏法の世界にはいった場合には、永遠の幸福をつかむ源泉になります。いっさいの社会活動、生活のもう一歩本源的な源泉になる。根本になるのです。その場合に、それ相応の実践がなくてはならないわけです。実践なくして功徳がでるわけはない。その実践とはなにかといえば、それは朝晩の勤行であり、そしてまた、学会活動に尽きるわけです。
 芸術家が真剣に芸にムチ打って、真心こめて戦うところに、はじめて芸の真髄が会得できる。剣道をやる人が、朝晩、人よりも剣道に全力をあげるがゆえに、剣道のひとつの真髄をつかむことができる等々、仕事においても、あらゆる階層の人々においても同じです。政治家においても、学者においても、工員においても、文化人においても、私どもは信心の上に立っ絶対的幸福をつかむためには、それ相応の実践だけは必要なのです。
 どうか、日蓮大聖人様も「大願を立てん」とおおせであります。ひとの幸福をねたんだり、人の不幸を喜んだり、そんな小さい、卑しい心ではなくして、人の悪口をいったり、人の批判等をするなどという怨嫉や批判等のトリコにならないで、自分自身が御本尊様と取り組んで幸福になろう。そしてまた、ふしあわせな人をしあわせにしてあげるために、全力をあげ、真心こめて戦おうというのが、私どもの大願であります。また、私どもの大願は信心根本、御本尊様根本として、自分自身がしあわせになっていく戦いをしていこう。こう考えてさしつかえないと思いますが、どうでしょうか。(拍手)
3  日蓮大聖人様の大願は、全人類を幸福にしてくださる世界の広宣流布であります。それはとうぜんのことであります。また創価学会の目的も、大願も同じく王仏冥合の実現であります。それはそれとしても、おのおのが自分自身の幸福建設をしきれる信心になるならば、それ自身が大願であると私は思います。つうずると確信いたします。そういう決心であるならば、つまらない、小さいひとにとらわれなるようなことはなくなります。
 たいへん話が長くなりますが、先月もある雑誌に、あまりにも創価学会の飛躍が早い。「創価学会と公明党」という題で、結論として「やがては宗教独裁、宗教ファッションが考えられるまことに危険である」ということをいっておりますが、小さいときには「なんだあんなりっぱなことをいっていて、正しい信仰だったら、ふえるにきまっているではないか。ふえないのはよくない宗教だからふえないのではないか」と、ついこのあいだまで、いわれてまいりましたが、これだけ民衆が正法にめざめた時には、こんどはその言をひるがえして、暴言を吐いている。的はずれの意見を吐いているのです。
 西洋でも、そしてまた、アメリカでも、その根底となる宗教は、どこをとっても、ほぼひとつです。それは欧米にあってはキリスト教です。インドにおいては、ヒンズー教、共産圏においては、共産主義というひとつの“宗教”、ぜんぶ独裁といわざるをえない。宗教ファッショ、宗教独裁といわざるをえないではありませんか。
 あまりにも軽率な、軽薄な理論です。やきもちというか無定見というか偏見というか、学者としてあるまじき批判であると、私は結論いたします。最高の哲学に、民衆がめざめて、それに徹していくということは、しぜんの動向です。
 ひとつのものにとらわれることが、おおぜいの人がそれに加わるということがファッションであり、独裁であるというならば、民主主義ということ自体が、“民主独裁”ということになってしまう。そんなバカな論理があるわけはないのです。そんなことをいうまえに、評論家が自分自身は批判する本質をきわめないで、かつてきままな人気取りの的はずれの批判をしていること、それ自身が評論家の独裁にすぎない。ファッション的行き方にすぎないと思いますが、皆さんどうでしょうか。(拍手)
 民衆の声、民衆の足音ほど強いものはありません。それが民主主義の原理です。
 どうか、いっさいのことに、信心根幹として、目を開き、勉強して、この中から、たくさんの各階層の大指導者が出てくださることを心からお祈り申し上げまして、激励のあいさつといたします。おめでとうございました。(大拍手)

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