Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

社会の大指導者に 関西・御義口伝講義発会式

1964.9.13 「会長講演集」第12巻

前後
1  きょうは関西学生部の事実上の発会式にしましょう。東京の学生部では、過去二年間、御義口伝の勉強をともにしてきました。その中から、私が尊敬できるような、りっぱな学生がでてきたことを、ひじょうにうれしく思っています。五年、七年たつと、かならず学会を背負うような大人材になるでありましょう。私はたいしたものだと、心の中でおどろいております。「後生畏る可し」といいますが、じっさい、将来の大理事として、創価学会を背負っていくことはとうぜんと思います。相当数の大人材が目についております。希望をもって、その学生部員の人たちを見守っております。
 「学会の将来は心配ない。彼らがあと五年、十年成長してくれれば安心だ」そういう気持ちでおります。関西においても、どうかしっかり勉強して、自分のためにも国家社会のためにも、令法久住のためにも、この中から何人かの大人材が出てもらいたい。願わくは全員そうなってもらいたいのです。まず第一段階として、きょうから再来年の九月まで、すなわち満二年間、御義口伝のいちばん最後の段から勉強したいと思っております。第二段階はまたその時考えていくつもりです。
2  話はかわりますが、いま、書店に矢内原全集が出ております。私もどういう内容かいっぺん読もうと思って、宗教観のところだけ読んでみました。あの人はキリスト教の信者です。キリスト教を根底とした指導者というのは、世界各国にたくさんいる。日本の国にも田中前最高裁長官もそうだし、その他の人もいます。共産主義を根底にした政治家も、それからまた司法官もたくさんいます。日蓮正宗については諸君に託す以外にないのです。諸君が日蓮正宗を根底にして、大指導者になっていかなければ、広宣流布はできません。
 あの矢内原さんの宗教観、正しい宗教と間違った宗教の見分け方というものは、とうぜん自分がキリスト教ですから、キリスト教を根底とした考え方であることは、信者としてあたりまえです。しかし学者という立場から、もう少し科学的に、比較検討してもらいたいと思う。それが私の読んだ結論です。
 社会にあって、生活の上にあって、病気がなおるとか、金がもうかるといった宗教は、邪教とみていくとか、霊魂だけを追究していく宗教は正しい宗教とみていくと、こういうわけなのです。あまりにもばく然としている、キリスト教が観念論であるという証拠です。観念論でもいいけれども、人生は九界の中しかない。その中で生活しています。肉体的な悩み、精神的な悩み物質的な悩み、社会との関係のいろいろな葛藤、それらをいっさい解決していく源泉になる宗教でなければ、真実の宗教といえるわけがありません。
 霊魂だけを追究するのが正しい宗教というのではぴんとこない。実感がない、力を感じない。そのキリスト教であっても、これだけ世界の広布を成し遂げたのですから、いわんや色心不二の大仏法が、将来、広宣流布されないわけがありません。
 学会員はたくさんふえて、ずいぶん反対していた人もいまでは信心しています。ということは、その宗教に、やはり御本尊に、絶大なる力があるということです。
 御本尊は生活指導の大原理であり、また大宇宙の縮図です。したがって宇宙大の力をもっています。生きている源泉です。病気がよくなった。それから生活がよくなった。これはとうぜん一人前になったことにすぎないことであって、永遠の生命を会得することが信心の究極の目的です。霊魂の追究という観念観の百千万億倍も深い、崇高なる目的をもっている信心です。
 ですから、罰と利益は、生活にも厳然と現われてきます。因果の理法です。それと同時に、こんどは現実の生活をとおしながら、こんなに荒れ狂う刹那主義な、葛藤ばかりの利己主義な、そしてまた名聞名利と割りきっている社会にあって、蓮華の花のごとく、泥沼の中にあって、永遠の生命を会得しようとし、大生命哲学を自分のものにしようということは、偉大なる崇高なる信心であり宗教です。
3  また日蓮正宗創価学会の人を見て「疑うことを知らないのか」こういうような評論家があったというのです。それは、もう学会員はしょっちゅう疑ってます。疑っているがゆえに前進があるのです。「大疑は大悟につうずる」ということわざがありますが、大疑というのは、疑いです。大悟は悟りです。御本尊様をいただいた、力があるかないか、事実は疑うところから出発します。
 疑ってはいけないというけれども、皆疑っているのです。それでも御本尊に願うと、生命力がわいた。「なるほと力がある」と確証をにぎるのです。それで、また信心が進みます。また、つぎの疑いを生ずる。しかし御書を拝読する。自分も折伏してみる。そうすると現証がはっきりする。御書どおりになるわけです。他の哲学と相対して、御書に説かれていることは偉大である。また信心が進んでくる。それで、さらに大確信がわいてくるのです。
 煩悩即菩提です。煩悩は疑いです。菩提は悟りです。なにも、学会は疑うことを知らない人間の集まりではありません。一面からいえば、だれびとだって疑う。しかし、その疑いは最高にしあわせになっていくための、媒介の疑いです。
 彼らの仏法の「ぶ」の字も知らないのです。なんとか自分は優秀な評論家として、あの偉大なる創価学会に体当たりして、どうだ、これだけ切ったぞと思いたい。
 あにはからんや、自分の頭のほうを切ったようなもので、なんら効果はないのです。
 真実の宗教、すなわち日蓮大聖人の仏法は、人の魂にあたるものです。また、一家においては、一家に人が住んだようなものなのです。なぜならば、知識は智慧にいたる道程、智慧を根幹として、初めて、いっさいの知識が働くのです。いくらりっぱな体格をしていても、そこに人生の目的、信念等しが確立しておらなかったならば、図体ばかり大きくて動物に等しいのです。いくらりっぱな家があっても、そこに人が住まなければ無価値です。外から見れば「ああずいぶんりっぱな家だな、ていさいがいい」と。だけれども、なんら価値がない。
 また、知識だけであったならば、それはちょうど大工場で機械がたくさん置いてある、博覧会みたいである。どんなものも置いてある。だけれども、それを使う人がなければならないわけです。これは智慧です。それで初めて価値創造になるのです。その源泉は仏法しかない。ですから、ちょうどいまの知識階級や評論家というのは、小さい博覧会、小さい工場、こんなにいっぱい科学的機械があると見せるだけであって、なんらそこで人類の幸福のために、自分の絶対的幸福のために、社会の繁栄のために、どう動かしきっていくかということがないのです。機械をあっちへ持っていったり、こっちへ持っていったり、また博覧会で、どうだこんないい品物があると見せびらかしているとの共通しています。
 諸君は日蓮大聖人の仏法を根幹として、勉強をしっかりやってもらいたい。真剣に学生時代に学業に励んでいただきたい。それをまた将来、大きく生かしてもらいたいのです。この中から何人もの学会の跡継ぎ、そしてまた社会に偉大なる貢献をしていける大指導者が出ていかれんことを、御本尊様にお願いしておきました。しっかりがんばってください。
4  仏法のひとつの方程式からいって、代々の御法主猊下も唯授一人でおひとりと決まっていらっしゃる。また在家の立ち場における創価学会の会長もひとりです。だが、いままでと違った応用ならびに総仕上げの場合においては、ちょうど高杉晋作、久坂玄瑞、品川弥二郎その他、勤皇の志士が、吉田松陰を中心として輩出したのと同じように、師弟不二ですから、私以上の人材がたくさん出て活躍する時代なのです。また、もったいない話ですが、日蓮大聖人様は、日興上人とごいっしょに御本尊様をおしたためであります。また、日蓮大聖人が御書をお書きになって、そのあと、つづきを日興上人がお書きになったものもあります。師弟不二です。
 仏法はいっさいにあてはまるわけですから、創価学会においても、生活面においても、応用できる場合があります。すなわち、私が思っていることは、学会は日蓮大聖人様がお説きになったことの敷衍です。ゆえに牧口先生、戸田先生のご指導、ぜんぶ皆さん方が知っているのです。ですから、私といっしょに、おそわるという立ち場で、勉強すると同時に、いっしょに広宣流布のために、王仏冥合のために、大きく宣揚しきっていただきたい。こうお願いするのです。(大拍手)

1
1