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求道の一念燃やして 兵庫総合本部結成大会

1964.9.13 「会長講演集」第12巻

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1  たいへんしばらくでございました。皆さん方の元気あふれる姿を拝見いたしまして、ひじょうにうれしい思いであります。
 第一番目に、なんといっても大事なことは、題目をあげきっていくことであります。私も、入信して満十七年を越えることができました。学会によって、先輩、同志の激励によって、今日まで信心をどうやらまっとうできたわけであります。その源泉は何か。ひとくちにいうならば題目しかありませんでした。会長だから、理事長だから、やれ渡部総合本部長だから、なにか特別な人間ではないか。そう考える人もいるかもしれませんが、けっしてそんなものではありません。ぜんぶ同じです。悩み多き人間です。その解決の源泉は題目であります。
 ある時は戸田先生におつきして、先生が大きい難をうけていらっしゃる時、自分もからだのぐあいが悪い、いったい将来どうなるのであろう、生きながら地獄のような苦しみの時もありました。二十二、三歳の時であります。その時に私は、御書を拝読しても、また、戸田先生の指導にしても、いざという時に題目をあげきれ、あげきっていけば願いとしてかなわざるはないではないかという指導、御金言であり、いつも頭に刻みついていました。そうだ、いまこそ題目をあげきって、どういう結果がでるか実践しきろう、解決してみよう、だれがなんといおうが、私は私なりに御本尊様にぶつかってみよう、この決意で、十万遍、二十万遍、三十万遍、五十万遍、あげて、あげて、あげぬきました。
 真に自分なりに、生活の上に、境涯の上に、厳然たる解決の証拠がでました。たしかに御本尊様はすごい。忘れもしない、白木さんの最初の選挙の時も、とてもたいへんないくさでありました。しかし、願いとしてかなわざるはなし、私は長として御本尊様に願いきっていこう、そして働ききっていこう、支部員のために勝ちきっていこう、こう決心しました。
 真剣に題目をあげきりました。もしこの大阪の戦いが負けてしまえば、一生懸命戦った大阪の同志の人があまりにもかわいそうだ。そのためにも御本尊様、お力をいただきたい、諸天善神の加護がほしい、そしてまた、この大阪のいくさが負けてしまえば、王仏冥合のいくさも、広宣流布への大きいいくさのひとつの戦いが負けていってしまう、ということは将来に大きい欠陥をつくります。断じて自分が与えられたことだけは勝とう。そのかわり、戦った学会人に御本尊様、偉大なる功徳を授けていただきたい、願いをぜんぶ達成させていただきたいと念じきって戦いました。御本尊様はお力を厳然と現わしてくださいました。これは、ぜんぶ団結の力であり、真剣に同志が戦ったたまものであることはとうぜんでありますが、それはそれとして、私の願いという一念においては、つうじてくださったわけであります。
2  また、会長に就任するときも、どうしても理事長はじめ、理事室の方々になれなれといわれ、ならされたようなものでありますが、私はなりたくなくて何度も断ったのでありますけれども、第三代になることの使命は、心の奥ではよく知っております。戸田先生のご遺命を達成しなくてはならない使命、宿命、因縁も百も承知であります。でなければ学会人を困らせ、学会をこわしてしまう。大罰をうけることになる。だから私はうけました。
 だが、からだのぐあいもよくない。これからのことを考えれば、百貫目、二百貫目、何百貫目を背負っていくようなものである。からだがだんだん痛んでくる、やせてくる。よし、題目をあげよう。ある理事は「もう会長は長生きできないな、もう太りっこないよ、こんなにたいへんな仕事では、こんなに苦しいことばかりでは」というように心配していました。私は御本尊様に願って、理事の人たちや、そしてまた、会員の人たちが心配しないようにからだを健康にしよう、そして、より以上に指揮をとっていこう、このように題目をあげました。
 一年間たった時、また、元どおりのからだになってしまいました。等々、数えあげればきりがありません。なにによって、いっさいの解決がつくか。それはくどいようでありますけれども、題目であります。これだけの立ち場になりますと、そのほか、いえないことがたくさんあります。天魔として鬼神、悪魔あらゆる責めが襲いかかってくる。仏法の方程式です。おかげさまで、ゆうゆうと打ち破ってきております。こんごも打ち破っていく決心であります。
 皆さん方も同じ御本尊様であり、同じ題目であります。御本尊様は平等大慧であります。学会の組織は、和合僧という仏法の上の方程式の組織であるということは当然でありますが、信心の上からみるならば、これは形式であります。大事なことは信心であります。私とともに日蓮大聖人様の御金言どおりに我此土安穏、そしてまた、大福運、大境涯を開くために、題目をあげて、あげきっていただきたいことをお願い申し上げるものであります。(拍手)
3  題目をあげきっている人に怨嫉はありません。題目をあげきっている人には行き詰まりはありません。やきもちはありません。また、その人の言々句々はかならず相手の人につうずるものであります。よく、幹部になり、または、残念なことに大幹部になっても、行き詰まって、また、生活の上、仕事の上でもまずいことがある。いちじ解任をさせざるをえない場合があります 「ないて馬謖を斬る」場合がある。
 よく、この人々の本質を聞き、また、見、考えてみますと、ぜんぶといっていいくらい題目をあげていない、しっかり勤行しておりません。学会は信心の団体です。大幹部といえども、信心以外のなにものもないのです。その源泉は題目です。それを忘れてしまったならば、それだけきびしい、そしてまた、前進の速い学会についていけるわけがない。仏法は体、世法は影、すなわち社会の生活の上に罰の現証が現われないわけがない。行き詰まることは、とうぜんであります。どうか題目を、形式的ではなくして、何万遍自分は唱えたとか、そういうことでなくして、心ゆくまで黙々と唱えきっていけるひとりひとりになっていただきたいのです。
4  第二番目に申し上げたいことは、能動的な信心であるか、受動的な信心であるかということであります。能動的ということばをちょっと使うことはどうかと思いますが、自分から求道精神を奮い起こして、求めていく信心であるかどうかという意味であります。受動的信心ということばはありませんが、受動的ということは、義務的ということになります。いわれながらやっていこうということです。そうではあってはなりません。
 私も入信当時は、良く先輩の人が座談会へいらっしゃい、といってくれても行きたくない、家で寝ていたり、友だち思うような雑談をしていたほうが楽しい。とくに信心して一、二年というのは、そういう気持ちが多かった。その先輩の家へ行くのもつらい、行きたくもない。どこかへ行く場合に、わざわざその先輩の家のそばを通らないように、遠回りをして行ったものです。皆さんも大なり小なり、考えてみれば、つまらないことですが、そういうことがあるのではないかと思うのですね。(笑い)
 信心は自分のためです。御書の講義に行くのも自分のためです。本部でいわれたから行くなどという根性で、なんでりっぱな講義ができますか。一言一句たりとも、法華経を説けることは大福運だ。それが何千人、何万人の前で講義ができる、こんなしあわせはないわけです。講義を聞きに行く、これもいわれて行く。まあいわれて行く場合もあるでしょうけれども、自分から行ったうほうが得なわけです。
 これからも、長い長い王仏冥合達成のいくさであり、仏道修行、一生成仏のための実践がなされますが、皆さん方も、どうか能動的に、自分から求めていこう、自分から班員のめんどうをみよう、組員さんのめんどうをみていこう、この一念で行動していただきたいと思います。そうすれば重荷にはなりません。苦しくありません。そしてまた、怨嫉や反感や感情的ではなくなるものであります。楽しいものであります。いわれてやっていくと、思うようにできない。かならず反感をもつ、学会は強制的だ、学会についていけないと。では、ついていかなくてもけっこうだけれども、どれだけのしあわせがあるか。
5  よく役職を解任になった人が「解任になってみて初めて学会の偉大さがわかった」といいます。また、退転した人が「退転しているときは楽なようだが、いちばん苦しい。学会活動をやっていたと時がいちばん楽しい」と申しているのを聞きます。
 金剛不壊の自分をつくりきるために、生涯、ゆうゆうと福運を積み、人生を楽しみきっていける自分をつくるまでには、まじめに、そしてまた力強く、いっさいの人間革命をしきっていくのだ、この強い強い実践をしきっていただきたい。そういう自分になってしまえば、あとはぜんぶ、大宇宙のリズムにのっとっていけるのです。そうなれば、やきもちをやいたり、退転しようかと思ったり、学会についていこうか、やめようか、あの人はこうだ、ああだということなどなくなってしまう。
 しぜんに自分の行動自身が妙法蓮華経の行動である。自分の人生それ自体が妙法蓮華経のリズムに合致しているし、自分の学会活動それ自体が、ぜんぶ永遠につながる人生のしぜんの歩みである。なんら、そこに形式も屈託もないわけです。そうなりきるためのもう少しのしんぼうです。
6  第三番目に申し上げたいことは、御書をしっかり勉強していただきたいことであります。そしてまた、御書を根幹として、いろいろな勉強をしていただきたいのです。御書はいっさいの思想、哲学をぜんぶ含んだものであります。御書一冊を真剣に勉強すれば、いっさいの哲学、いっさいの思想につうずる結果になります。私も、今はあまり本を読む暇はございませんが、やはり過去において、自分が発心して偉大なる前進をさせよう、また前進してきた裏には、題目をあげたことと、御書を拝読したことがあります。一日一ページずつは、かならず読んだ時もあります。
 また、昭和三十二年、一年間、参議院の戦いの時にも、戸田先生に、なかなかお目にかかれなかった。御書を拝読しよう、みんなで御書を読もう、これを源泉にして戦ってきたものであります。皆さん方も御書をきちっと拝読して、それを実践に移していく場合には行き詰まりはありません。信心の偉大なる源泉になることは間違いございません。やはり行き詰まっている人は、御書を読んでいない、自分の頭だけでぐるぐる回って終始している。それは御書はむずかしい。しかし、わかるところでけっこうであります。そしてまた、わからないところは、暇があれば先輩に聞いていこう、そしてまた、聞いたところを後輩に教えていこう。それをまた、実践に移していこう、生きた教学にしていこう、生活に現わしていこう。このような身口意の三業で読みきる御書の拝読をしていただきたいのです。(拍手)
7  兵庫では、渡部君がひじょうにがんばっております。皆さん方が、また、呼吸を合わせて団結して前進しておりますもので、私は心配しておりません。ほんとうに安心しております。さらにさらに団結を固めて、けっして怨嫉しあうことなく、感情的になって自分の功徳を消すようなことなく、御本尊様第一に、そしてまた、本部長中心にして、いっさいが御書にかなった信心である。日蓮大聖人様のおおせにかなった仏道修行をしている、楽しい自身に満ちみちている、一家和楽である、その実相を示していっていただきたい。ひとりでも病気になったり、事故を起こさないことを、心から祈っております。皆さん方の強い団結と、ご健闘とを、心からお祈り申し上げまして、私の話とさせていただきます。(大拍手)

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