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日蓮大聖人・池田大作

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実践者こそ大信者 長崎会館入仏式

1964.9.12 「会長講演集」第11巻

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1  長崎方面を今月末に本部とし、実質的には、きょうを本部の結成としたいと思います。(拍手)それで正式発表は今月末にいたします。ひじょうに人材もいるし、そしてまた、地の利の上から考えても、そうしたほうがいいと思います。
 それで、総支部は二つでありますが、やがては四つ五つに分けてもらいたい。どうか新しい本部となり、本部長を中心にして、さらに充実していただきたい。仲良く、信心だけは、日々、月々、年々に進んでいく前進であっていただきたいと願うものであります。けっして惰性に流されたり、もうこれでよいのだという行き詰まりであってはならない。進まざる退転といいます。信心だけは、だれがなんといおうが、大聖人様のおおせどおりに、ひとり立って、そして組織もいっさい指導しきっていくという信心でなければなりません。その人に大功徳があるのです。その人がまことの大信者です。学会幹部です。
 どうか、きょうを実質的な出発として、長崎の次の目標に向かって再出発という自覚をもって、希望に燃えてがんばってください。(拍手)
2  信者ということは実践者という意味です。私どもは日蓮正宗の信者です。大信者です。ということは日蓮大聖人の弟子として、日蓮大聖人の理念、哲学、ご遣命を実践しきるという意味です。したがって、御本尊様を受けても、実践がなければ、まことの信者とはいえないわけです。往々にして、いままでの既成仏法、宗教家が堕落しきっていたがゆえに、信者ということばは、なんとなく弱い人の代名詞のように考えられてしまいました。そこへくると、日蓮正宗の信者、創価学会員は、あれが宗教団体かといわれるぐらい、明るく、強く、たくましい。これ自身がまことの末法の仏法であり、仏法の正しい生活に直結したありかたです。
 社会主義者は、社会主義という理念を信奉し、実践していく信者です。信者という意味には変わりはありません。自由主義者は自由主義という一つの理念、目標に向かって、どれだけ真剣に実践しきるか、すなわち信者です。
 自動車の運転手、または飛行機の操縦士という人たちは、その運転の法規どおりに間違いなく、正しく、そして、また効果がたくさん出るよう実践すべき、その法規、すなわち、その道の信者です。
 日本の国には平和憲法があります。その憲法を文化生活のために、平和国家のために信奉しきっていくところに、憲法が生きてくるゆえんがあります。すなわち、憲法の信者でなければ、じっさいの憲法は活用されない等と、そのように考えてみれば、いっさいがっさい信者という名称は、実践者であり、意義のあることばなのです。
 会社でいえば、会社の一つの規定、方針があり、それに全力をあげて会社の繁栄のためにがんばろう、実践しようということはその会社を思うりっぱな信者の性質とみることができます。
 最高の信者は、日蓮大聖人のご遺命達成の信者です。なぜかならば、生命の本源の改革、宇宙全体に広がる幸福、平和への活動、永遠不滅の人類救済の大原理の実践、これ以上のものはないわけです。ですから、「なにも一つの固定的なものを信ずる必要はない」といっても、みんななにかを信じて生活しているのです。また「そんな窮屈そうなことは必要ない」という連中自体がじつは、船でいえば、カジがないことになるのです。根なし草です。信念がない人生は不幸です。卑きょうです。動物と同じようなものです。
 現実は、私どもは、日蓮大聖人様の大信者という誇りをもって、堂々たる人間革命に、そしてまた、政治革命に、平和革命への先駆として、喜々として、がんばっていきたいと思うのです。
 その人が最後は大勝利者になることは間違いないのです。邪のものを信ずる人もいる、低いものを信ずる人もいます。または、一部分のものしかしあわせにならないものを、その一部分だけにとらわれて信じている場合の人もたくさんいます。根本を信じているのは私どもしかないのです。
3  よく戸田先生は「言論界が学会を批判しているが、言論界の連中が“しまった”といった時が広宣流布である」といわれました。いまの学会に対する批判というものは、的はずれであり、皮相的な批判にすぎません。本質論はなんら解剖していない。学会を批判している何人かの評論家がいますが、私からみれば、小鳥のさえずるようなものにすぎない。
 まったく仏法も知らず、学会の本質をわきまえようとする勇気もなく、やきもちをやき、人気取りのためだけの批判にすぎない。そんなことは、すればするほど、あとになって笑われる。自分が因果の理法で苦しんでいくのです。偉い評論家は、学会の強さを知り、仏法の深さというものを知っていますから、めったに批判なんかしません。
 そういうわけで、そんなことに左顧右眄しないで、絶対に変わらざる大哲学を奉じ、御本尊を根本としていくことです。御本尊を打ち破れずして、学会を批判できないし、また、打ち破ることは絶対にできないのです。強い強い信心を奮い起こして、こんなにも御本尊の功徳はすごいのかということを体得していただきたい。
 よく戸田先生は「あなたがたの功徳は、わしからみれば、鼻クソをまるめたくいのものだ。わしの功徳は公会堂いっぱいぐらいの功徳だ」とこう申されました。なにもはったりや大げさで申しているのではありません。私は、いくぶんなりともわかるような気がいたします。御本尊様も同じ、唱える題目も同じ、題目を唱えて唱えきって、こんなにも偉大な御本尊、こんなにも境涯が開けたか、ありがたいと体験していっていただきたい。
 いままで以上に、いままでもそれは分相応に功徳をうけ、感謝もし、感激をもっていることも、とうぜんであると思いますが、そんなものではない。百倍、千倍、万倍も境涯を開いていただきたい。功徳を積んでいただきたい。それには実践しかない。そうなるわけでしょう。
 こんど新しい本部ができれば、ひじょうに充実した、理想的な本部ができるような気がするのです。幹部もまじめな人でありますし、大きい本部でなくてもいいから、みんなが功徳に浴して、明るい学会員になっていただきたい。
4  また、話は前後しますが、いまの三類の強敵、すなわち俗衆増上慢、道門増上慢、また僣聖増上慢といいます。俗衆増上慢、道門増上慢、これはすでに過ぎ去ってしまったものです。僣聖増上慢については、戸田先生はよく評論家の批評、ならびに国家権力の弾圧であると申されました。しかし、国家権力の弾圧はできっこない。反対に政治屋が、うちの議員におこられているのですから、これはできっこありません。
 評論家がのさばっておりますけれども、これも蚊が鳴くようなものです。日蓮大聖人よりも偉いつもりでいる。釈迦よりも、天台よりも、伝教大師よりも、自分はたいしたものと思い上がっているのです。ほんとうにりっぱな人であり、偉大な評論家であるならば、偉大なものに対しては謙虚さとがあります。増上慢、思いあがり、これが、いまの学会批評の評論家の連中なのです。
 ということは、このあいだ、評論できるときは評論家らしいけれども、できなくなったらもうおしまいではないかといっておりましたが、間違った評論をしたら評論家としての生命を断たれるわけです。実際問題は、二流三流の連中ばかりしかいないのです。“信なき言論は煙のごとし”こんどは諸君が勉強に勉強を重ねて、利害のための評論家でなく、生きた民衆代表の評論家として大きく活躍していただきたい。
 それには、いちばんてっとりばやい行動はなにか。これは折伏です。そしてまた、もういちだん応用して考えるならば、選挙です。議員をたくさん送ることです。
 それ自身が僣聖増上慢を打ち破るもっとも近道であります。戦おうではありませんか。

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