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日蓮大聖人・池田大作

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末法の功徳は冥益 中国第三本部地区部長会

1964.8.28 「会長講演集」第11巻

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2  私も先日の八月二十四日で満十七年の信心経歴となりました。十八年目に向かってまいります。まだ先輩は二十年、二十数年にわたる人もおりますが、私の十七年間の信心の歴史をみ、その活動をしてきたうえから、同志の人々の姿も何人か見てまいりました。信心して一年、二年たった時分、そうとうの先輩であった強信そうに見えていた人も何人かおりました。だが、私が五年、七年、十年と信心経歴を経たときには、その人たちのなかに退転した人がいました。先輩として私どもを激励をしてくれながら、なんで退転したのだろうと、私は疑問をもちました。
 だが戸田先生につき、御書を拝読して「なかなか信心をまっとうしきることは、たいへんなことだ。学会人だから、また学会に名を連ねているから、その人は強信者とはいいきれない。幹部だから、その人は絶対に強い信者であるとはいいきれない場合がある」ということも、わかってまいりました。
 どうか皆さん方は一生涯、大聖人様のおおせどおりに、私とともに事あるたびごとに信心を飛躍させていただきたい。ちょうど大聖人様は、難があるということは、引き潮と上げ潮のときのようなものである。冬から春に向かうようなものである。そのひとつの節と考えなさいと、御本尊様をたもっていれば絶対に春がくるのだ。したがって「賢者はよろこび愚者は退くこれなり」ともおおせであります。皆さん方はこれから、ひとりも残らずきょう集まった人が創価学会の、そしてまた王仏冥合への最高幹部になっていただきたいことを願っております。
 かつて釈迦は、舎利弗をはじめ、迦葉尊者、その他の弟子たちをいつも見ながら、もっとも自分のうれしいことは、弟子である舎利弗、そしてまた迦葉、おまえたちが成長することである。このように説いた経文があります。
 あるとき、私が戸田先生に「先生はなにがいちばんうれしいのですか」とお聞きしたところ「それは、広宣流布のために戦っていく弟子たちが、どんどん成長することだ。したがって、おまえたちと会うことが、語ることが最高の喜びである」と、申されたことがあります。
 いま、私は皆さん方にそういう偉そうな、口はばったいことは申し上げません。御本尊様がぜんぶ見ております。御本尊様は日蓮大聖人様です。大聖人様は仏さまです。この仏さまを信じ、仏さまのいうとおりに行じ、ご遺命達成のために活躍している私どもを大聖人様が、三世十方の仏菩薩が擁護しないわけがありません。それを絶対の確信をもって、最後は妙法をたもった者が勝利者のなかの大勝利者になることは間違いないといえます。強い強い確信をもって前進していただきたい。お願い申し上げます。(拍手)
3  きょう萩から小郡で汽車に乗る途中に、有名な秋吉台にまいりました。三、四十分、時間ができましたもので、その秋芳洞のあの大自然の偉大さに打たれました。ちょうど一年前、山田副理事長の話によると奥のほうにもまた少し鍾乳洞が発見されたそうです。そこまでトンネルがあって見てまいりましたが、いちばん最後のところに巌窟王と名称がついておりました。
 戸田先生が牢にはいったときに「おれは巌窟王になる。牢から出たならば、牧口会長のあだを討つ。絶対に牧口先生をいじめた連中に鉄ツイを下す」すなわちそれは広宣流布を成し遂げるという根本精神であることはとうぜんでありますが、そのおことばをよく牢から出られて私どもに話しておられました。そのときの先生の壮絶さというか、繊烈さというか、迫力というか、それはものすごいという以外ありませんでした。
 その根底は脈々たる信心であることはとうぜんです。仏法のうえで、あだを討つなどという、そのような小さな考えをおもちでないことはよくわかっておりますが、それは先生のご気性としては牧口先生をいじめた者は、ぜんぶ仏罰をうけた姿、法罰をうけた姿をまのあたりに見て、御本尊様の前にこうべを低くさせて、そして牧口先生にあやまれ、このご気性であったことはよく私はうなずけます。
 いま皆さん方は、そんな壮烈な気持ちをおもちになることは別問題としても、ずいぶん創価学会員がいじめられてまいりました。皆さん方もずいぶん批判をされてきたと思います。また皆さん方の後輩も、たくさん、大につけ小につけ、批判され、いじめられてきております。私ども最高幹部は団結して巌窟王のような信心をして「どうだ、大聖人様の仏法は絶対正しかったろう」「広宣流布はできただろう」と、批判していた連中、バカにしてきた連中が「ほんとうに申しわけなかった。創価学会はたいしたものだ。大聖人様の仏法は絶対に正しい。私は負けた。どうか会員にしてください」といわせるぐらいの巌窟王のような信心を、おたがいに一生してまいろうではありませんか。
4  それが学会精神です。学会精神とは何か。一生渡、大御本尊様を抱きしめて死んでいくことです。よく戸田先生は、青年部の水滸会などの会合において「宗教革命は死だ。死ぬ決心で戦わなかったならば、なんで宗教革命ができあがるか。広宣流布はできあがるか」と、きびしい、激しい私に対しては指導であり、訓練でありました。
 それはそれとして、私どもの決心は、一生握、御本尊様を放さない、だれがなんといおうと、知ったかぶって学会を批判しようが、ぜんぶそれは皮相的な批判にすぎない。御本尊様がなんであるかの力を知らない。一念三千という大法理はわからないし、それを批判しきった人はいない。一念三千の法理に矛盾があるといって打ち破った学者、評論家、そしてまた批評家はひとりもおりません。
 せんぶ的はずれです。御本尊様を一生握抱きしめて、ゆうゆうと確信に満ちみちて、戦いきっていくことが学会精神です。しょせんは、それが大聖人様の精神につうずるわけであります。
 どうかおのおのの立ち場でいろいろな境遇があると思いますが、また折伏ができるとかできないとか、やれ教学が自分は講師である、あるいはまた助師であるということは、それは、それとして、御本尊様を信ずる、御本尊様のいうとおり行ずるというその一念だけはだれにも負けないというー念がある人は、結局は、尊い人であるし、その人がりっぱな大信者といえるわげであります。
 どうかひとつ、おたがいに励ましあい激励しあって、この有意義な一生を、九仞の功を一箕にに虧くことなく、りっばに終わっていきたいと思います。そしてまた、その功徳を、男の人は妻に、子供に、子孫末代にぜんぶ回向しきっていただきたい。これが私の祈りであります。
5  信心は水のごとく、そしてまた、功徳は冥益です。十年、二十年と信心して初めて大功徳がわくのです。二年や三年信心して、まだ功徳が少ないなどということはおこがましいのです。末法の功徳は冥益です。十年、二十年、変わらず、そして、その変わらずということも進まざるを退転というのですから、進んでいなければならない。背水の陣になったときに初めて宿命転換ができるのですから、その信心に立ったときに人間革命をしきっていけるのです。偉大なる成長があるのです。
 皆さん方も長い信心をしていただきたい。これを要望するのです。五年や七年で自分はたいした長い信心をしていると思ってはいけません。十年、十五年、二十年たって初めて「自分はだいたい、普通の信心になった。長いほうの信心になった。もうこのへんで御本尊様が願いをぜんぶ聞いてくださらないわけはない。厳然たる生活のうえに功徳が出ないわけがない」と、このように思っていただきたいのです。それまでは土壌をつくるというか、土台をつくるというか、その過渡期であるという考えをもってさしつかえないと思います。
 皆さん方は、地区部長以上なのですから、それは当分、かせつ跨節のうえから当分の功徳は絶対あります。とうぜん顕益もあります。だが、ほんとうの意味のこわれない大福運、大功徳は、長い信心で初めて完成されるのです。長い信心をしきって、初めて日蓮大聖人様の仏法を理解することができると、このように考えていただきたいのです。そこまで申し上げておきましょう。

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