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信行の題目を実践 夏季講習会第4期大幹部会

1964.8.9 「会長講演集」第11巻

前後
1  講習会にくるまえに、少し時間があったもので、古本屋へ行きました。そのときに、梢風の書いた「名勝負物語」という本を買って読みました。ぜんぶ読んだわけではありませんが、十何冊ありますので、そんなにかんたんに読めない。ちょうど読んだなかの何人かの代表人物を考えてみたときに、ぜんぶ結論は、悲惨な死に方をしているという事実をみて、私は正しい仏法、正しい宗教、強い信仰が必要であるなということを、とくに感じました。
 かの有名な原敬、平民党宰相といわれ、一世を風靡した内閣総理大臣も、最後は十九歳の一少年に暗殺され、寂しそうに死んでおります。
 また、鈴木久二郎は、明治時代における大相場師です。現代の金でいえば、何百億、何千億を動かしていた大成金ですが、最期の死に方は警察に追われ、寂しい、小さい借り家で死んでいる事実等々、かぞえあげれば、きりがありませんが、人生最後の幕はどうであったか、これが重大問題であります。
 栄誉栄達も、人気も、愚人である私どもはあこがれるものです。だが、そういう人々が、真実にどれだけの幸福生活をしているか。いかなる生命の本質をわきまえているか。子孫が、家族が幸福に満ちみちているか、ということを探究してみれば、絶対そうではない。
 現代における有名人、人気者、世の中から騒がれている人々等も、冷静にひとりひとり一軒一軒掘り下げてみるならば、同じであると私は確信いたします。
 したがって、私どもは夢のような世間の波に幻惑されてはいけません。もっともっと根を深く、強く、正しく人生を生きていく道を知らなくてはなりません。それは三大秘法の御本尊様を信じて、水のごとく信心し、生活していくことに尽きることは、とうぜんであります。
2  また、いま撰時抄講義録の総仕上げをしております。きのうやりました個所に日寛上人様のおおせに、「題目には信の題目、行の題目がある」と「信行の題目は共通して寂光にいます」とある。しょせん信心が根本である。その信心とはなにかといえば、信の題目、行の題目です。信心ほど尊いものはありません。信心ほど偉大なものはありません。
 学会は信心の団体であります。大幹部たりとも、一組員たりとも、信心が深いか浅いかによって、その人の福運も決定されるし、成仏も決定されるわけでありまする。大事なことは、まさに信心です。
 御本尊様に自分自身の宿命転換のために、福運を積むために、支部員の幸福のために、どれだけ深い信心をしているか、していっているか、それが実質的な創価学会の“位”であり、仏法のうえの“位”であります。また、どけだけまじめに真剣に行じているか「信心即行躰、行躰即信心」です。責任をもった実践をしているかということに尽きます。
 「信の題目、行の題目」――普遍的にいうならば、信心を根本に、自分の責任をどれだけ実行しているか、実践しているかによって、寂光土に行くか行かないかは決定されるというお心であります。私どもは、日々月々年々に信心がすすんでいかなければならない。自分自身が、信心が向上することとが一家の福運であり、ともに全支部員がついてくる源泉になる。いかに大幹部であっても、会長であっても、理事室であっても、これは同じであります。
 信心がすすんでいない、信心が光っていなければ、信心が強くなければ、信心が正しくなければ、どんなことを聞いても、どんな実践をしても、それは無価値です。尊いものは信心、いっさいの源泉は信心です。
3  「やれ、仏法民主主義だ」「やれ、政治の向上だ」「政治意識の宣揚だ」と、こういっても、信心がなければ、それは惰性に流れて、政治のために創価学会はくずされます。口のうまいものに、政治性で信心を平等にみられてしまって、むしろ、それが魔になる場合があります。信心で政治を動かし、信心で政治意識の高揚をしなければ大なる誤りです。この点を、どうか一つ銘記していただきたいのです。
 少しぐらい教学ができなくても、少しぐらい政治のことなんか知らなくても、信心さえ透徹しているならば、しぜんにわかってきます。信心がなくして口がたっしゃな人間がうまい話をしても、多くの人をだますだけです。信心がある人が、少しぐらいのことばはへたであっても、その人が真剣なる信心のうえの戦い、指導をしていくならば、千人、万人の人が最後はついてくることも、救えることも、絶対間違いありません。
 したがって、私をはじめ大幹部の皆さん方は、一千万以上の学会員に先駆けて「信心だけは自分にならえ。それがほんとうの学会精神であり、学会伝統の信心である」ということをいいきっていける、ひとりひとりになっていただきたいのです。
 信心のある人が、最後はかならず証拠がでます。実証が出ます。仏法は観念論ではありません。現証主義であり、現証主義であります。信心がない人は、かならず三年たち五年たち、十年たち二十年たち、または死の瞬間に謗をなすものです。そうであってはなりません。
 そのために、一日一日の冥の照覧を信じて、しっかりと積み重ね式に、強い信心のうえの功徳、力を積んでいっていただきたい。これが私が、まず皆さん方に心から念願するものであります。
4  また、八月の幹部会においては、学会始まって以来ともいうべき大組織の大拡充がなされます。ある人は理事もなるでしょう。ある人は、また、たくさん大幹部になる予定になっております。そのときに、先輩である皆さん方が遅れをとらないように「さすがあの先輩はたいしたものだ」といわれるようになってください。
 「なんだ、自分が大幹部になってみたら、ずいぶん本部の話と、先輩である支部長や婦人部長がいうことと違うじゃないか、がっかりした」といわれないようにしていただきたいと思うのです。
 これからも、どんどん学会が発展するなのは、仏意仏勅に照らされてとうぜんです。そうなると、さきほど柏原副理事長から話がありましたとおり、直接的に私もそしてまた理事長、副理事長とも接近する機会が皆さん方は、少なくなってきます。そんなことはいいのです。御本尊様根本に、ぜんぶ学会精神がわかっている人が大幹部になったのですから、相対的に考えるのはなくして、自分が創価学会なのだ、自分が王仏冥合のカジ取りなのだ、自分が会長の代理なのだと、これを自覚していただきたいのです。
 そうでないと、本部の指示がないから、本部の指導がはっきりしていないから、自分にはわからないというような大幹部があったとするならば、卑怯です。自分で求め、自分で思索し、自分で把握し、自分で責任をもっていったときに、初めて大幹部の資格がある。そこに信心のつながりがあり、異体同心の原理が成り立つのです。
 それは、わからないことはどんどん聞いていただきたい。だが相対的であってはならない。どうか自分自身が創価学会である、創価学会の最高責任者であるという自覚をもって、自信をもって活動していただきたいのです。
 また、一から十まで私がいわなければわからないというような時代ではない。私は個人プレーを排します。ぜんぶ日蓮大聖人様の弟子であります。王仏冥合達成への同志であります。同じ心をもち、同じ理念をもち、同じ目標に進んでいくべき地涌の菩薩です。
5  ぜんぶ御書に書いてあります。ぜんぶ大白蓮華、巻頭言、聖教新聞に出ております。それを実践すればいいわけであります。根本は御本尊様、題目です。「万法は一法より生ず」そしてまた「無量義は一法より生ず」と。その「一法」とは、南無妙法蓮華経を根本として、思索し、聖教新聞、大白蓮華を読んでいくならば、いっさいが応用できないわけはないのです。
 ですから、皆さん方が、ぜんぶ最高責任者と自覚し、自信をもって、私を中心に、ずうっと下にいくのではなくして、私を中心に御本尊様のもとに横に、横隊に並んでいく、これが学会精神であり、私の指導方針なのです。その心をどうかわきまえていただいて、楽しい、これからのまた戦いをすすめていこうではございませんか。
 この短期間である三日間のあいだに、なんでもいいから一つだけでけっこう、自分のものにして帰りなさい。来年の夏季講習会に、元気いっぱいに成長した姿を見せていただきたい。このことを御本尊にお願いしています。
 一歩下山すれば、悩みと戦い、指導の戦い、折伏の戦い、社会の戦い、職場の戦い、さまざまの戦いがあります。そのときに、この三日間のなかにおいて、一年間の原動力をつかんでいってもらいたい。苦しいとき、寂しいときに、その一つ自分がつかんだものを思い出して、また題目をあげて、ゆうゆうとそれを乗り切って、来年の夏季講習会を霊鷲山会で、楽しくまたやってきて、そしてまた次の一年間の原動力になってもらいたい。これが私のお願いであります。

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