Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

生涯「受持即観心」で 女子部幹部会

1964.7.12 「会長講演集」第11巻

前後
1  たいへんに暑いなか、また長時間ご苦労さまでございます。また女子部員百万の達成、心からお祝い申し上げます。ご苦労さまでございました。
 この暑いのに、早くかんたんに話をすませて終わればいいのに、なかなかそうもいかないで、いろいろ話があり、聞くほうもたいへんであると思いますが、私でもう終わりますから、少しがまんしてください。
 話を聞くだけでなくして、登壇した人以上に、皆さん方が力をもっていただきたい、咀嚼をしていただきたい、指導者になっていただきたい、これが私の願いであります。
 しょせん、文化活動がいくら展開されても、政治意識の向上がいくらなされても、未来にわたって多角的な戦いがなされるうえにあっても、ぜんぶ、その根幹は信心であることを忘れてはなりません。
 信心を離れた行動は創価学会にはありえません。信心の目的は、物心ともに、ひとりひとりが、ひとりももらさず会員が幸福になりきっていくことであります。幸福にならなけれれば信心の目的は達成されません。どうすれば幸福になれるか、それは一生涯、御本尊を放さないことであります。退転しないことであります。
 受持即観心です。したがって、御本尊をたもち、そこに信心があるならば、かならず成仏できる、絶対的幸福をつかむことができるのです。信心がなければ、「信心の血脈無くんば法華経を持つとも無益なり」と。いくらテレビを買っても、ラジオを買っても、そこに電流がつうじなければ、なんの価値もありません。
 どうか、一生涯、御本尊様を抱きしめて、絶対に自分こそが日本一の、世界一の幸福者になってみせる、幸福者であるということを宣言できる人生であっていただきたいと思うのであります。(拍手)
2  その信心のを妨げるのは怨嫉であり、また人々に対する、同志に対するうらみ、批判であります。そういうことのないように、のびのびと明るく、心豊かに題目をあげきって前進をしていただきたいことを切望するわけであります。
 きょうは、あとはめんどうな話はしません。ということは、さきほど、渡部女子部長の話を聞いても、そのほかの女子部幹部の話を聞いても、たいしたものです。
 男子部員以上であります。私は、ほんとうに日本の国に、事実のうえに、新しい婦人解放、いな婦人以前に女子部が、未婚者である皆さん方が立ち上がったということは、歴史始まって以来の偉大なる壮挙であると確信するのであります。(拍手)
 これは恐ろしいことです。
 先日の総裁選挙なども、きょう集まった女子部の幹部の皆さん方の前で総裁選挙をやったならば、池田さんでも佐藤さんでも、藤山さんでも、そして代議士連中も「ああもうオレたちは、ヤミ取り引きや、おかしな派閥はやめようじゃないか」「ほんとうに反省して日本のことを考えようじゃないか。次代の青年のことを考えて、心を改めていこうじゃないか」と、きっというのではないかとおもうのですが、どうでしようか。(拍手)
 女子部長をはじめ、非常に力ある女性の指導者が台頭してします。私もあれを聞いていまして、会長をやめようかなと思っているのです。(笑い)男子部以上、壮年の人たち以上の清らかな、そしてまた力強い前進のいぶきが、偉大なる歴史を築いていくことはとうぜんであります。
 どうか女子部長を中心として、信心根本に、ひとりも退転する者なく、十年先をめざして、大きく前進していってください。(拍手)
3  私は、やり自民党だとか、社会党だとか、民社党だとか、共産党だとか、アメリカ人だとか、日本人だとか、西洋人だとか、そういう偏頗な考えでは、根源的には見ておりません。あるいは階級闘争だとか、なにやかやいいますけれども、日蓮大聖人様から見れば子供のケンカです。兄弟ゲンカと同じです。つまらないことであります。 一歩、大仏法を鏡として目を開くならば、ほんとうにそういう偏狭な行き方はムダなことであります。だが現実はままならぬものであります。はやく広宣流布をしたい。ですから私は本質的には、なにも差別をもっておりません。皆、大聖人様の子供である、こういう気持ちであります。これは事実であります。
 それはそれとして、これはかんたんことではありませんが、大聖人様の仏法は、東洋に、世界にひろまっていくことはとうぜんである。それで、うちの理事の方々を見ますと、なんとなく東洋、世界の指導者に似ているという結論がでたのです。(笑い)早く東洋の指導者、世界の指導者も御本尊をたもてば、やれ共存していからければならないとか、または共産主義と資本主義と戦わなくてはならないということは必要なくなるだろうと、そういうふうに考えるわけです。
 しかし、われわれの活動には「動中静あり」で、ほんとうの同志、信頼しあい尊敬しあうなかで、楽しく妙法に照らされて、愛称を呼び合うぐらいの余裕があるということも大事ではないかとおもうのです。いつも折伏の顔ばかりしたり、いつも怨嫉の顔ばかりしたり、いつもごはんを食べない顔ばかりしたり、(笑い)いつも部隊長になった、区長になったという顔ばかりしていたり、そういうことではいけません。 信心を根本として、ゆうゆうと、みんな大御本尊様のもとに友だちなのだと、人間性豊かに、のびのびと守り合っていただきたいと思います。

1
1