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日蓮大聖人・池田大作

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五万の学生と共に進まん 第7回学生部総会

1964.6.30 「会長講演集」第11巻

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1  たいへんにりっぱな総会、まことにおめでとうございました。五万の学生部まで発展させてきた努力に対し、幹部の諸君に深く敬意を表すものでございます。ご苦労さまでございました(拍手)
 よく戸田先生は「後生畏る可し」と申しました。師匠よりかならず弟子は偉くなっていってもらいたい、偉くなるのである、偉大なる跡継ぎになって、社会に、世界に貢献をしていくべきであるとの原理であると思います。いまは私は妙法のもと、諸君を同志であると思っております。諸君を信頼し尊敬しております。私を同志の中心としてくださっていることに対しては、まことにありがたい気持ちであります。責任も感じます。
 だからといって、私を過大評価することがあってはなりません。偉く思う必要もありません。思ってもなりません。あくまでも王仏冥合実現のために、日蓮大聖人の弟子として、絶対に日本の安泰と民衆の幸福と、世界の平和のために、ともどもに守り合って、ともどもに戦い進んでいただきたいのであります。(拍手)
 まず本日は最初に、将来、公明党が軌道に乗り、また正本堂が建立された時、それ以降に仮称「創価大学」または仮称「富士文化大学」を設置したい。その大学で、世界の平和に寄与するべき大人材をつくりあげたい。そのときに、諸君のなかから、大仏法を根底とし、各専門分野における大教授がでて教鞭をとっていただきたい。その目的達成、すなわち世界の大指導者に育てあげるために、その大学でがんばっていただきたいと、お願い申し上げたいのであります。(拍手)
2  つぎに申し上げたいことは、戒壇建立ということであります。戒壇建立と聞くと、一部の評論家や学者は、不思議なくらいに神経質になり、ノイローゼになっている。
 そして驚いて、まるでトウモロコシが幽霊に見えるがごとく、すぐに批判をする。
 戒壇とは何かという定義も知らないで、本質も知らないで、意義も知らないで、調べもしないで、それで「創価学会は国立戒壇をめざしているからよくわからない」このように陳腐な論議をしております。まったくナンセンスのかぎりです。
 戒壇とは、仏法の終着点であります。小乗教においては、小乗教の帰趨として戒壇が建立されています。権大乗教も同じ、また迹門も同じ、いま日蓮大聖人様の仏法においては独一本門の仏法であるがゆえに、その終着点は本門の戒壇となります。
 インドにおいても戒壇があります。日本においても、ただいま申し上げたとおり、小乗教の戒壇、権大乗教の戒壇(注=比叡山の迹門の戒壇に併合されている)、迹門の戒壇等は、すでに建立されており、それは歴史の示すところであります。戒壇とは「防非止悪」――非を防ぎ、悪をとどめるという義であります。したがって、いま、日蓮正宗においては、猊下のお許しを得て、私どもは、まだ広宣流布されていないがゆえに、ご内拝と申して、特別に信心純真なものだけが御開扉をうけているわけでございます。
 御書には「国立戒壇」ということばなどはどこにもありません。戸田先生も、ちょっと「国立戒壇」ということばをもらしたことがありますが、私も先生がおっしったから申し上げたことも一、二ありますけれども、御書にも日興上人のおことばにも、日寛上人のおことばにも「国立戒壇」ということばはないのです。「戒壇」といえば「本門戒壇建立」となるのです。
 だが、与えて“国立”ということばをどうしていったか。過去は封建制ですから、どうしても上部の決定によって建立する以外になかった時代です。しかし、いまは民主主義の時代です。したがって、民衆のひとりひとりがぜんぶ信心をまっとうして、しあわせになって、そのうえで納得し、そこで日蓮正宗の帰着点として、ひとつのしるしとしてその戒壇を建てようではないか、そういう意味から“総意”という意味から“国立”という表現になったときもあります。これは本意ではないのです。
3  わかりやすく鉄道にたとえれば、ちょうど国鉄と私鉄との関係のようなものなのです。いま日蓮正宗は私鉄の立ち場です。国鉄ではないし日蓮正宗の宗派としての立ち場で仏法を守っております。ということは、信心しない人は、御開扉はうけさせない。こういうことになっております。
 今度は、本門戒壇の建立という意味になった場合には、国が自由に、だれびとたりとも、拝ませてあげてもらいたい、そういう関係になるのです。信仰しようがしまいが、ぜんぶ公共的立ち場で拝ませてやってください。そうですかと、そういう儀式にすぎないのです。それで、そのひとつのしるしとして、戒壇建立となるわけです。なにも恐ろしいことでも、特別のことでも、なんでもないのです。
 競争すればゴールがあります。ゴールインがない競争なんてくだびれてしょうがない。(笑い)大学にはいれば、かならず四年なり五年なり、五年ではいけませんけれども、ほんとうは。(笑い)四年で卒業すると決まっていなければ、五年も十年もいるのでは、たまったものではない。また皆さん方がもう少し年ごろになれば、結婚もしなくてはならない。娘さんのほうも、それから青年のほうも同じです。
 結婚という青年時代の終着点があります。
 と同じように、政治でも、政党になれば政権をとるという終着点がある。どんなものでも終着点がある。帰趨すべきひとつの終着としてのしるしがなくてはならない。と同じように、宗教においても、その終着点が必要です。戸田先生は「本尊流布が、信心が、トウフである。戒壇建立はオカラである。カスのようなものだ」このように何度もおおせになっておりました。その本質を、皆さん方もよく知っていただきたいと思います。
 戒壇建立ということは、ほんの形式にすぎない。実質は全民衆が全大衆がしあわせになることであります。その結論として、そういう、ひとつの石碑みたいな、しるしとして置くのが戒壇建立にすぎません。したがって、従の従の問題、形式の形式の問題と考えてさしつかえないわけでございます。また、詳しくは、お帰りになってから幹部の方に聞いてください。(笑い)また新聞等でも、詳しいことは論じたいと思いますけれども、皆さん方に要点だけを申し上げました。
 国立美術館、国立競技場、やれ国立博物館などを個人個人が所有していたならば、大衆が幸福を分かち合うことができない、研究もできない。そのときに、国立として、全体が公共物として、自由にそこで遊ぶこともできる。研究することもできる、見学もできる、それが国立美術館であり、国立博物館であり、国立競技場です。
 同じように、国立という名前は使いませんし、使う必要はありませんが、本門戒壇ということも、これらと共通性をもっているのです。
 ですから、不勉強な、無認識な評論家等が誤解をして、戒壇論でなにやかや論じても、そんなことに紛動されないでいただきたい。もっとも知っているのは、われわれなのですから。(笑い)
 したがって、戒壇論については、あくまでも諸君がよくわかって、そして縁に紛動されないで、みんな学会人を理解させていく、その先端に立っていただきたいと思うのです。
4  それから、次に申し上げたいことは、王仏冥合ということなのです。これはまた、王仏冥合の具体的な理念として、本にするつもりでございますが、あまりにも前代未聞の大哲理であり、わからずして一部の学者等が批判することも、これはやむをえないかもしれない。(笑い)
 だが、これも絶対完ぺきな大哲理であり、理想社会実現の理念であることはとうぜんであります。いままでにないから、どうしてもわからない。あるものだったら、そこから経験的に、なからかの推測はできますけれども。
 王仏冥合ということは、私どもが実現する以外にありません。ただ私は、政治改革の結果からみて、王仏冥合と類似点をもつ事実がイギリスにもあったことを、皆さん方にお話をしたいし、また、皆さん方も研究していただきたいのです。
 どうも日本人というのは、西洋のことを話すと、なるほどなと、そう思いがちになる民族らしいのですね。(笑い)日本の国に、これだけの大哲理があるのに、それを究明しようとしないのは、ひじょうに悲しいことです。
 イギリスの国も、ちょうどいまの日本の政治と同じように、十八世紀においては、汚職、不道徳で、混沌たる政界であったことは歴史的事実です。ちょうど十八世紀のイギリスの政治と、いまの日本の政治とが同じような状態だから、それが「日本の政治は十八世紀じゃないか」このようにいわれるゆえんでしょう。
 そして西洋においては、とうぜん政教分離の思想があらわれてきた。中世の暗黒政治から、その次に新しい社会体制、理想的な議会政治、民主政治へと進んだわけです。そこで今日、世界的に議会政治の模範とされるイギリスになったのです。多少、国々によっては異論があるでしょうけれど。
 その十八世紀の混沌とした、腐敗しきった政治を、今日の十九世紀以後の模範的な議会政治にした、その底流はなんであったか、土台はなんであったか。
 まず、それはウェスレー兄弟らにおける、かの大宗教運動です。それが根底になった。宗教の大啓蒙運動がなされた。とともに、ベンサムのあの急進的な大哲学運動がなされた。そこで民主主義の土台を築いた。これは歴史的な厳然たる事実であります。民主主義の土台を築いた、それはどうしても宗教か哲学であった。政教一致とは違う宗教と政治の関係、王仏冥合と一つの類似点、共通性をそこから学びとっていただきたいと思うのです。西洋には王仏冥合ということばがありませんから。
 そして、そのうえに哲学をもち、思想をもつ、清潔なる政治家が輩出しております。バーグとか、ピット、チャタムとか、世界的な政治家がぞくぞくと輩出し、イギリスの、世界第一の民主議会政治の確立をすすめたのであります。その点から考え、いま創価学会が前進し、公明党がなさんとする王仏冥合の前進の本質を調べ上げていただきたい。また考えてみていただきたいと思うのです。
5  けっして独断的な行動をとっているのではない。それは、日蓮大聖人様のおおせどおりにやっております。大聖人様のおおせに間違いがあるわれは絶対にない。だが、それをわからせるために、なんらかの、そこに類似点を研究してもらいたい、教えておきたい、こういう意味から申し上げたのです。
 心ある学者は、政治構造の根底には倫理・哲学・宗教がなくてはならないと叫んでおります。心ある学者は、民主主義の根底には、ひとりひとりの心の奥底に、コンクリートのような道徳・哲学・宗教がなかったならば完成できるわけはないともいっております。
 したがって、当面問題の政治は政治として大事ではありますが、真実の宗教は生活の源泉であり直結しています。
 したがって、哲学の、宗教のこの大運動は、これこそ深遠なる大政治運動につながると確信しなくてはならないと私は思うのです。(拍手)
 どうか、また、この一年間、からだを大事にして、しっかり勉強して、来年の総会のときには、一段と成長して、きょう集まった一万二千人の代表の方々がひとりも退転せず、一段と元気で集まっていただきたいことを最後にお願い申し上げまして、私の話とさせていただきます。
 たいへんご苦労さまでございました。

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