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日蓮大聖人・池田大作

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勝負は信心で決まる 小田原会館入仏式

1964.2.22 「会長講演集」第11巻

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1  たいへんにお元気な姿を拝見しまして、ひじょうにうれしい思いです。きょうのような、なごやかな、そして元気な姿をもって、きょうをまた第一歩として、本部長を中心として、この会館をわが家のように思って前進されんことを、まずお願い申し上げます。(拍手)
 とくに神奈川第二本部関係は、広き戦野の法戦でありました。ひじょうにたいへんだなと、痛々しい思いをしておりましたが、この会館がひとつの牙城になりますれば、ひじょうにまた、やりよくなっていくのではないかと、その点でも私は安心をしたしだいでございます。ひとつも事故のないように、着実に一歩一歩福運を積むいくさであっていただきたいのです。
 私どもが大御本尊様を受持し、大御本尊様に照らされて信心修行する、すなわち学会活動をしきるということは、すなわち、それは社会のためである、自分自身のためである、子孫末代のためであります。大きくいうならば、根底的に日本の国を救済するためである、全日本民族を救いきるためである、そしてまた全世界を、全人類を救いきる根本的な、最高の戦いをいているのであるとの強い自信と確信とをもって、進みきっていこうではありませんか。(拍手)
 日蓮大聖人様は「愚人にほめられたるは第一のはぢなり」とおおせです。いままでも、創価学会に対しては幾多の批判、誹謗、怨嫉がありました。よく会館を造りますときに、または買うときに、ひじょうにりっぱな家が買えた、その家の人を見ると、だんだん福運がなくなって、そして売っていく。気の毒な思いでもありますし、時代は変わっていくものだなと、しみじみと私は感ずるのです。
 さきほどもお話がありましたが、山形会館もりっぱな会館です。それから今度は、じつは文京会館も買って、もうじき入仏式がなされるのです。九州の宮崎にも会館が買ってあります。また、北九州にもりっぱな会館が買ってあって、三月は入仏式になっているのです。
 そのように、だんだん会館も手を打っております。先日の幹部会の、鉄筋コンクリートの本部はこれは別としても、会館のほうまで、何十か所も手を打つようにすすめているわけなのです。
 福運というものは、ひじょうにこわいものです。いままで学会を批判し、小バカにしていた人が、もしか反対に学会のために使ってくださいと、自分はほかのほうへ行きますと、こういう興隆をしていく人と、それから悲しくも滅んでいく人とのきびしさが、私は胸にうつるような気がするのです。
 日蓮大聖人様は「普通の、信心をしていない人の栄えは、夢のなかの栄えである。まぼろしのようなものである」とおおせであります。事実そうです。この十年間の姿を見ましても、そのきびしさは感じます。御本尊様をもった人は、最後はかならず幸福になるし、大勝利者になることは十年、二十年のこの歴史を見ただけでも証明されるのです。
 反対に、私どもを誹謗した人は、かならず福運つきて滅んでいっているのです。
 どうか、信心を強盛にして、一生涯どんなことがあっても、どんな批判をされようが、どんな誹謗をされようが、どんなヤキモチをやかれようが、信心のことだけは、大御本尊様のことだけについては、絶対なる確信をもって、その他は、それは謙虚に、そして礼儀正しくすることはとうぜんなのです。けっしておごりたかぶってはなりません。しかし、絶対に信仰のことについては、私どもに聞くのがとうぜんであるという誇りと自覚とをもって、進んでいっていただきたいのです。(拍手)
 よく世間の指導階級の人々は「学会も組織が巨大になって、幹部の連中はずいぶんアグラでもかいているのではないか」というようなことを、いわざるをえなくなってしまった。しかし、大御本尊様が、いちばん私どもの活動を照らしてみてくださっております。また理事長はじめ、大幹部の方々の戦いぶりは、私がいちばんよく知っております。どれほど苦労し、どれほど民衆の味方となって、令法久住のために、王仏冥合のために命をけずって戦っているか、いままでの歴史上、これほどの崇高なる、団体、幹部はありえないということを私はじゅうぶんに知っております。
 本部からただの一銭ももらうわけでもなく、批判のアラシのなかを戦ってきているのが、創価学会の歴史なのです。だれびとがなんといおうが「大聖にほめられるのは一生の名誉である」――人の心などというものは、水の流れるようなものであって、時代時代によってどう変わるかもわからないものです。いくらほめられようが、けなされようが、そんなものはアブクのようなものです。いまの評論家や、指導階層の批判などというものは、ことばのどれいになっているにすぎません。
 大御本尊様にこうべをたれ、ぬかずき、そのおおせを謙虚な気持ちをもって聞けない連中こそが、大増上慢なのです。悪人なのです。大御本尊様をたもって、純粋に戦いきっている私どもは、もっとも人間とし、人生としても、謙虚な心をもった人間であり、人生であるのです。
 その誉れ高き有意義なる法戦に、私どもは先駆者として戦っているという心意気をもって、ひとりひとり、ぜんぶ勝ちいくさの人生を進んでいこうではありませんか。(拍手)
 最後に、この町は富士山というひじょうに不思議な、また有意義な名前であります。それに相対しまして、学会本部があるところは信濃町、信心の濃い町なのであります。いくら富士山がいいといっても、信心がなければなんにもなりません。とうぜん神奈川第二本部を中心とすることはあたりまえでありますが、そのもう一歩根本は学会本部であると、その点も忘れないでいただきたいのです。
 皆さん方のご健闘とご健康とを心からお祈り申し上げます。

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