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日蓮大聖人・池田大作

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一念随喜の功徳 東北第一本部地区部長会

1964.2.17 「会長講演集」第11巻

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1  一念随喜の功徳とは、喜んで信心するところに、功徳がわくという意味なのです。
 資本家というのは、働けば働くほど自分の利益になります。労働者は、やはり時間だけ働いて、あとは帰ったほうが得で、おそくまで働いても、直接的に自分には利益はないと、いちおう、こういう立て分けができるのです。
 しかし、私どもは、いっさい働いたことが、ぜんぶ自分の功徳になるのだと決心するのです。また、事実そうなるのです。それが一念随喜なのです。
 われわれは資本家と労働者のどちらに味方するわけでもなく、両方ともひっくるめた立ち場でありますけれども、例として、資本家的な気持ちで、すなわち自分が働いたものが、ぜんぶ自分のためになるのだという信心でなくては損なのです。いわれたからそれだけやろう、これは義務になります。能動的に、日蓮大聖人様のおおせどうりに、自分自身のために自分は働いているのだ、修行しているのだ、実践活動をしているのだ。こうした場合には、いつまでたっても不満は出ません。一念随喜になるのです。功徳はどんどん出てくるのです。
 一念というのは、一心というのは、ひじょうに微妙なのです。ですから怨嫉すれば、いくら題目をあげても功徳はありません。みんな罰です。同じ御本尊様を拝んでいても、そのようにきびしいのです。反対に、役職がなくても、役職を別問題にしても、純粋に喜んで自行化他にわたる修行を実践するならば、功徳はわいてくるのです。
 ですから、一念の出発としては、自分のためになるのだ、自分が功徳をうけたいのだ、宿命転換したいのだ、としていった場合には、苦労ではないでしょう。一念随喜です。同じ行動であっても、いわれたからやらなくてはならない、これだけやらないと、体裁が悪いからやらなくてはならない、困ったな、だけども自分は責任があるのだからやっていこうという一念の場合には、その一念が結果になってしまうのです。喜びはわきません。
 一方は喜びからの出発ですが、もう一方は義務として、喜びでないことから出発するので、一念随喜にならないのです。私たちは一念随喜でいきませんか。(拍手)
 腹がへった、だけれども、自分はなんとかすこしでもなにか呼吸していこう、一念随喜です。それだけ自分のものになるのです。
 普通のことでもそうです。いわんや妙法を根本とした一念というものは、これは電波のようにつうずるのです。これは根本問題です。それによって、いっさいの善悪、幸不幸が決まってしまうのです。ですから信心信心というでしょう。または信心の厚薄といい、または「信心の血脈無くんば法華経を持つとも無益なり」そこにくるのです。一念三千なのです。
 私はしあわせなことに、ほとんど一念随喜で戦ってくることができたのです。ですから、学会活動は少しも苦にしません。とうぜんのこととして、最高の名誉として「糞を黄金に変える」気持ちです。ノリ屋のむすことして生まれて、病弱なからだを、これだけよくしていただいて、そして大勢の人に、やれ部隊長だ、参謀室長だといわれてきました。
 また戸田先生にお目にかかり、先輩に激励され、ああ、なんというしあせだろうと。もしも学会にはいっていなかったならば……、もしも自分が信心していなかったならば、どうなっているだろうか……と、いつも自分の過去というものを忘れないできているのです。それが本因妙の信心です。いつもいつも自分を忘れず、感謝をしています。なんとかすこしでも、このような甚深なる仏法を戸田先生からおそわったのだ、それを説ける自分になったのだ、ありがたい、自分の力ではない、そういう気持ちなのです。まあ、一念随喜できたと私は確信できるのです。いやだいやだと思ったことは一遍もありません。
 輸送班もやってきました。ずいぶん激戦もやってきました。だけれども、ぜんぶそういうことが自分のためになるのだな、大勢の人のためになるのだな、御本尊様のお使いをすることになるのだな、このからだは糞のようなものだ、それを黄金に変えさせてもらえるのだ、ありがたい、こういう決心です。
 一念随喜の信心をしましょう。日蓮大聖人様は「いのち、いのちといっても、せんじつめれば一念ではないか」と。それは一念は色心不二になりますから。「その一念が随喜の心をもって活動したときに大功徳があるのだよ」と、このように「持妙法華問答抄」(461㌻)にお説きあそばされているのです。そうならなければだめなのです。功徳は出ないのです。

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