Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

仏法の因果は厳然 北海道本部大幹部会

1964.2.16 「会長講演集」第11巻

前後
1  本年も、北海道には初めてまいりましたが、どうか宮崎本部長を中心として、さらに異体同心の団結を固めて、楽しく、仲良く、一生成仏のために、福運をつむために、そしてまた、王仏冥合達成のために、着実に前進をしていただきたいことを、まずお願い申し上げます。
 日蓮大聖人様の御書に「法華を識る者は世法を得可きか」という御文があります。日興上人様、そして日寛上人様は、正嘉の大地震、文永の大すい星、三災七難の本源、そしてまた、根本は、あくまでも南無妙法蓮華経を鏡としてみるならば,やはり、その三災七難の源泉がみえる、わかるという意味に解釈をなさっているのです。
 したがって、大御本尊様を根本として、いっさいの生活、いっさいの社会、いっさいの国、国際情勢をみていくならば、了々として、不幸の根本、社会の乱れる原因、国際的な問題の本質、これがわかってきます。「仏法は体、世法は影なり」ということばもあるのです。その根本である鏡を、私どもは受持し、日夜みずから実践し、後輩の人々をも指導しているわけです。したがって、その鏡が、明らかな鏡になるかならないかは、信心の二字しかありません。
 有名な内村鑑三、そしてまた先日も読んでいたのですが、田辺元などの哲学者がおりますが、キリスト教を根底とした哲学者でありますが、その人たちの話は、ほとんどが因果論を知っていない。大勢いる哲学者や思想家も、因果の理法を明確に確信しきっていない、究明しきれない、そこにおおいなる誤謬があるのです。
 日蓮大聖人様は、因果倶時の哲学をお説きあそばされております。宇宙の根本、生命の本源は、一念三千の理法より、本因・本果・本国土の大哲理より、くまなく究明しきり、そしてまた、私どもに一幅の御本尊として実践の道を残されているのです。
 したがって、大聖人様の御書を拝しますと、罰論も利益論も厳然としております。
 大勢の哲学者やそしてまた評論家や、思想家等は、大聖人様の御書を拝し、おうおうにして文上だけを論じたり、ある人は「大聖人の哲学は不合理の合理、合理の不合理」ということばで表現したり「そんなに原因、結果の法則が明確になるわけはないだろう。罰論だ、利益論だ、どうも信じられない、考えられない」このように批判をする人が多いのです。
 しかし、それはとうぜんであると思うのです。大聖人様の、因果倶時の一念三千の理法を究明しない、実践しないがゆえに、わかろうはずがないのです。そこに御本仏日蓮大聖人様の一大事因縁のご出現のいわれと、他の思想家、哲学者、指導者等の頭脳と根本的に違う、それをまず私どもはわからなくてはならないと思うのです。
 それで私は、大聖人様が立正安国論で他国侵逼難を予言いたしました。そのとおりに元の襲来がありました。そのときに大聖人様は、予言が的中したからといって弟子一同が「どうだ、予言が的中したではないか」というふうに慢心を起こしたり、いいふらすことはいけないと、そういう戒があります。私どもが折伏しまして、信心せずして罰をうけ、苦しい生活になり、現証が明らかに出て、困っている人を見て、私どもが「どうだ、罰ではないか」というふうにいうことは、これはいけない。あくまでも真心をこめ、慈悲をもってその人を苦悩のどん底のなかから救ってあげなければならないという意味につうずるのです。
 それで、遠くは大聖人様ご在世にもっとも大聖人様を迫害した東条景信は、十羅刹女の責めによって早く死んだ。生命を断った。このように大聖人様は、報恩抄ではお述べになっております。また日寛上人様も、お述べになっていらっしゃいます、「南無妙法蓮華経を根本として信ずれば、福を安明(須弥山)に積まん、謗ずれば堕地獄である」この因果の理法だけは、厳然たるものであります。これを確信しきっての、私どもの清い清い信仰でなければならない、信心でなければならないということを、さらに自覚をしていただきたいのです。(拍手)
 また有名な熱原三烈士を迫害した平左衛門尉一家、彼らも日蓮大聖人様滅後十二年、熱原三烈士を死刑にして十四年目に、一族ぜんぶ死刑と同じ死に方で亡びております。近くは太平洋戦争のときに、牧口先生、戸田先生を牢獄に入れ、そしてまた、日蓮正宗を弾圧したときの官憲は、くまなく法罰仏罰をうけております。
 日本の国も敗戦です。そういえば、慢じた言いかたに聞こえる場合があります。
 なぜかならば、日本の国に、科学兵器が少なかったから、作戦がヘタであったから、陸軍と海軍とケンカをしたからと、近因をたどれば、たくさんその原因をあげることができるでしょう。しかし、そういう近因をつくるべき遠因、根本の原因が考えられなくてはなりません。そこまできた場合は、ぜんぶそれは南無妙法蓮華経を根本とする以外にとけない、とけようはずがないのです。いくら世人が信じようが信じまいが、三世を通観していらっしゃる大聖人様のご確信、大聖人様の御書に照らしてみるならば、厳然たる証拠があり、哲学があり、鏡があるのです。
 また、最近のことを申し上げますと、まあ隣人のことについては、それは皆さん方が証明者であり、体験者でありますから申し上げる必要はありませんが、このあいだ、あるデパートが焼けました。そのデパートを建築しているある有名な建築会社があります。その責任者の人が信心しました。じっさいは謗法払いをしなければならないのに、それができずに御本尊様を受けたと聞いています。
 謗法払いしなければならないことを知っておりながら謗法払いしないで、自分の大事なおとくいの工事場で、ばく大なる損害をうけた、焼いてしまったのです。
 それは近因というならば、さまざまの原因が考えられると思います。妙法からみるならば、そこに本源的原因がある、明確にわかる。「法華を識る者は世法を得可きか」です。
 また、昔、牧口先生の当時、戸田先生が学会を再建した当時、理事までになったある幹部がいたのです。その幹部が、牧口先生、戸田先生が牢獄にはいったときに、さんざんに反逆し、批判し、そのあげく、何回となくもう一回学会に復帰をさせてもらって信心しようと決意はしたらしいのですが、やはり今世の悪役になるべき因縁といいましょうか、最後まで学会につけない。ついこのあいだ新聞をみて驚いたのですが、一月末の寒い日に、二時間自動車に乗り回って、そのあげく玉川上水で入水自殺、六時間捜してやっと死体が見つかった。その間の苦悩は察するにあまりあると、私は思うのです。
 私どもが、お通夜やお葬式に行くわけにはいきませんけれども、かわいそうでありますし、家族の人を今度は守ってもあげたいし、救ってあげたいゆえに、代理の人を行かせてあげました。ほんとうに、仏法はきびしい。妙法を根本としていた場合には、三年、十年、二十年、一生かかって厳然とその証拠があらわれる、ただし、私どもに信心がなければみえないのです。
 また、大講堂落慶のときに、当時の総理大臣が、戸田先生と約束をして、総本山にくることになっておりました。そのときに、何人かの側近の批判に負けて、信義を裏切りました。一万人近い青年が待っていたのです。まあ、くる、こないなどということは、小さい問題ですが。ウソをつかれて、寂しい思いをしたのです。
 ところが、今度はその総理が、ご存知のように安保問題のときに、花道をつくることができず、総理にとってもっとも盟友であるべきアメリカの大統領を呼ぼうとしていた、呼ぶことになっていたのです。それが、やはり一万人たらずの全学連の総反対にあって、日本の国へ呼ぶことができなかった。総理として、一国の責任者として、盟友として、最大の恥辱です。信義を裏切った結果です。そのあげく、また痛い思いをしてしまったりしました。このように、ひとたび妙法に関係した場合は、どれほどきびしいかということを痛感するのです。
 大につけ小につけ、それほど仏法はきびしいのです。どうか、目先のことにおいてはさまざまなことがあると思いますが、さらに信心を奮い起こして、永遠の生命からみるならば、五年や十年や二十年の仏道修行の苦しみなどということは問題ではありません。
 また、苦しみといっても、たいして苦しみはありません。大御本尊様の加護により、同志の結合により、助け合いによって、世界最高に楽しい、幸福の和合教団が創価学会であることは皆さんが百も承知であると思います。
 小さいことで縁に紛動されたり、感情的になって大事な一生を間違えることのないように、永遠の生命を大事に、福運をつけきっていくということを忘れないように、いっさいの学会活動が、宿命打開であり、自分のためなのであるという確信をもって、粘り強く希望に燃えて、じみな戦いであっても、コツコツと前進されんことを心から切望するわけなのです。(拍手)
 四月には、待望の北海道本部新館の起工式をする予定です。それを法城として、皆さん方が指揮をとるところとして、皆さん方にしてあげますから、これから一生涯のさらに大きい戦いを、大きい人生を、張り合いある活動をできるようにしていただきたいと思うのです。

1
1