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生涯、学会とともに 女子部部隊長会

1963.12.12 「会長講演集」第10巻

前後
1  さきほど、ある女流作家がまいりまして、どうしても面接をしなければならないことになりまして、ひさしぶりに、小一時間ほど面接をいたしました。
 その女流作家は、ある有名なおにいさんがいまして、ご本人も結婚生活をしたけれども、失敗して、三歳の子供をかかえて、ひとりで執筆作業をしながら子供を養っているそうです。
 先日渉外局長らが何冊かの聖教グラフを見せてあげたそうです。そのことについて、きょう私にいっておりました。「こんなにまで明るい、なんともいえないえがおの写真を見たことがない」と。
 「その写真も、何冊見てもそういう写真で、これはつくったものでないということが直感でわかります」と。
 私も「それは文学者が写真ひとつを見て、策で写したものか、しぜんのものか、おわかりになるのはどうぜんでしょう」といいましたら、喜んでおりました。本人がそういう境遇であったがゆえに、とくに感じたか、または、たくさんの付き合いがあるけれども、どこへ行っても悩んでいる自分の本心に、清らかに感応すべきものがなかったといえるのか、ひじょうに感嘆しながらいっておりました。むしろ涙ぐんで感嘆した表現でした。
 私も学会のことについはて、ずいぶん善悪ともにさまざまのことをいわれますが、ほとんど悪いことをいわれても馬耳東風、いいことをいわれても、おせじ、このように注意してずっときております。将来もそうでありますが、きょうのその女流作家の人の心の感応というか、反応というものをひじょうに私は強くうけました。
 「みんなそうなるのですよ。そのように、まっすぐに見てくださる人がいると、私はうれしいのです。まあ会合をごらんになれば、またよくわかると思いますけれど……」と話しました。
 あまり、いままで学会のことを知らなかった人らしいのですが「どうしても十五日の総会には出席させていただきたいというので、それはけっこうだと思います」と、こういっておきましたが、やはり、まじめな人、正しく物事を見ていく人、なにか求めている人、とういう清らかな正しい心の持ち主の人は、かならずや学会の会合、学会の人々の人間革命の姿に対して、学会の前進のありかたに対して、驚嘆し、賛嘆し、そしてまた信頼し、尊敬してくることは、この一事を見ても必然であると、こう私は確信しているのです。
 一組員でも学会員です。一部隊長でも学会員です。また一理事でも学会員です。
 したがって、一組員で、もしか信心がまっとうできないで悪いことをして、非常識なことをして、それで「なんだ、学会はあんなことを教えるのか。なんだ、学会というのは、あんなにだらしがないのか」というように、批判する人はひじょうに皮相的な見方をし、また手前勝手な批判をしますけれども、そのひとりを見て、学会全体の基準とするのです。恐ろしいといえば恐ろしいことです。もうすこし冷静に全体を見たらどうかといいたいのです。
2  一部隊長を見て「りっぱだな、さすがに信心している人はたいしたものだ。美しいな、教養があるな、力があるな、信頼できるな」と見た人は、あとすこしぐらい悪い部隊員のことを見なくても、また見ても、反対に、きちんと学会の正しさ、りっぱさというものを、それを基準としてみていく場合も多いだろうし、ひじょうにそういう点は多種多様であると思います。
 理想をいうならば、全員が大功徳をうけ、偉大なる成長をしていかなければ全民衆をリードすることはできえない場合もあり、広宣流布もできえない場合もあります。その方向に努力をしきっていく、徹底することに全力をささげて戦っていく、このように、まずお願いするのです。その作家にもいったのです。
 「どの世界、警察であろうが、やれ大会社であろうが、または医学界であろうが、貧しい人は、いっぱいいるではないか」と。「そういえばそうですね。たしかに冷静にみれば、どこでもあるわけですね」と、こういうふに述懐しておりましたが、その人も、きっとなにか学会員のことが心配になって「こんなにふえてしまうと、ずいぶん指導が徹底できなくて、むしろ学会にとってマイナスの場合があるのではないですか」と、その心配の質問があったのです。
 「ええ、それはそのとおりです。けれども、どの世界でもそういうことはあります。だが学会の根本指導は正しいのです。その根本を知ってもらわなくてはならない。それを踏み違えて、自分勝手になってしまったのでは、どうしようもない。ただし私どもは、二、三のそういう人が出たからといって、もうこれだけの勢力ができたのだからといって、利己主義的に、広宣流布を忘れて、安隠な気持ちになるわけにはいきません。他の団体はいざしらず、他の教団はいざしらず、私たちは最後の最後まで戦いきるのです。広宣流布を成し遂げるまでやるのです。そういう、しかばねを乗り越えて、そして証拠を示していくのです」と、このようにいったのです。
 そうしたら、なるほどなというような顔をしていました。皆さん方も、そうでしょう。だが理想としては、ひとりの人も退転なく、まっすぐに学会精神、学会の指導を徹底していただきたいと。それには皆さん方が力をもち、皆さん方が成長し、皆さん方が愛情をもち、皆さん方が「学会を守っていこう」「学会の中枢なのだ」という自覚がなければ、それはできえないと思うのです。
 たびたびいうことばでありますが、依正不二です。本末究竟してひとしいのであります。また境智冥合です。その意味において、七十何万人の部隊員がどうなるかを決定すべきが部隊長です。その部隊長に先駆けて、在京の部隊長のいかんによって、それが決定される、基準になるということを、強く自覚していただきたいのです。
 したがって、そういう中枢の位置にいて、もしか信心のうえの、広布の使命を達成すべき責任を回避した場合には、位が上がれば上がるほど、罪は大きくなるのです。また反対に功徳は大きいのです。したがって、自分の立ち場がひじょうに責任もあるし、ともに大福運を積んでいける位置だという、福運を知ってもらいたいのです。それを自覚するならば、信心もまた深くなり、強くなります。歓喜に燃え、感激をもって前進ができるのです。
 そういう自覚がなくなった場合に、信心が横ばいになり、感激がなくなり、向上がなくなるのです。しょせんは、一念に始まり、一念に帰着するわけです。「その一念の信心を、日々月々年々に進めていくのだ」「これが自分の人間革命であり、成長であり、幸福につながるだ」「、その決意が全部隊につながるのだ」と、こういう決心になった場合には、いかなる行動も楽しいのです。いかなる行動も福運に変わるのです。
3  事件があった。また事故があったとしても、縁に紛動されないで、自分の一念、事の一念三千の当体の生命によって、変毒為薬させていける指導になるのてず。大事なのは自分です。自分の一念です。
 また、話しは変わりますけれども、とくに過去には、深窓のお嬢さんとしてお花を生け、お茶をたて、ピアノをひき、たいへんきらびやかな生活をしている人が多かった。終戦後は、だんだん時代が変遷されてきましたが、いまでも、時代が安定し、財閥や見えっぱりは、そういう虚栄の生活をしている人は多いし、そういうものになりがちであります。
 若いときはちやほやされて、それでいいかもしれないが、それもほとんどはお金の力です。それが結婚し、子供を産み、ある場合には宿命と戦い、ある場合には主人をなくし、ある場合には子供をなくし、ある場合には突発事件に会い、そのときにならくに落ちるのが普通なのです。冷静に人生を見、歴史を見、また、ある人を一生涯見ていこうという冷徹なる試行錯誤をしてくるならば、歴然たる証拠がでます。いいかっこうはしていますけれども、その精神的な悩み、苦悩というもの、ちょっとわからないのです。
 学会には、組織があります。組織といっても、これは仏道修行をするための組織であり、広宣流布の組織であり、和合僧という、釈迦以来の仏法の定義になっているのです。なんとなく折伏が忙しい、教学が忙しい、それで功徳を受けてきて、少し心境が進まなくなってしまったり、安心してきたり、ゆだんしたりする人は、わがままなのです。
 学会は自由主義です。「御本尊様だけはしっかり拝みなさい。たもっていきなさい。自分のために」そしてまた「大聖人様の弟子として、全人類のために、令法久住のために、学会活動、修行をしていこうではないか」と、これだけです。あとは、だれと結婚するも、どういう行動をするも、なんら否定もしませんし、とめてもおりません。そうでしょ。学会ほど自由主義はないわけです。
 自由もひとつの基準があります。規律があって、初めて真実の自由主義があるのです。ただの自由主義として、いっさいが自由とするならば、それは放縦であると私はいうのです。惰弱です。それは真の自由主義をはき違えており、民主主義をはき違えているのです。
 したがって体外からいうならば体外というか、信心していない人の世界をいうならば、ひとりで生きているとわずらわしくないわけです。家へ早く帰ればいい。寝たいときには寝ればよい。食べたいときに食べればよい。いいでしょ。けれども、ひとりというものは、いいときにはいいけれども、しょせんは空虚です。無意義です。成長がありません。真の感激がわかないものです。いざという場合、だれも守ってくれません。せいぜい一家の人だけかもしれない。
 そこへくると、学会の人は、いざという場合には何百人、何千万の人、三世十方の仏菩薩が守ってくれるのでしょ。いざという場合は、ほんとうにみんなが愛情をもって、かばってくれるでしょ。そうではありませんか。それは規制されて、信心という峻厳なる戦いがあるかもしれない。峻厳な戦いというけれども、ほんとうは、楽しい戦いです。
 それでいろんな人と語り、人生を語り、生命を語り、生活を語り、激励し合い、なぐさめ合い、あるときは泣き、なるときはケンカし、ほんとうの、これが人間として最高のもち味をいかしていける、最高の有意義な青春時代の歩みかたであるし、いわんや大御本尊様に照らされて、そしてまた親もいってくれない、兄弟や親類もいってくれない、だれ人もいってくれないことまでも、きちんと注意してくれたり、激励してくれるわけです。親や兄弟にいえないことまでも、なんでも信心根幹として話し合える、これが学会の尊い組織であり、団体です。
 したがって、同じ学会内、体内にはいった場合でも、ちょと信心が弱い人や、学会の本質を知らない人は、なんとなく「なにも組織につかなくても」「私は会合というけれども寒いし、もうだいたいわかったからいいだろう」という人は、それだけ守ってもらわなくてもいいという因をつくっていることになってしまう。どこまでも、どこまでも組織について、必至にがんばっていこうという一念が、それだけ大勢の人に守られ、そしてまた、たたえられていく因をつくるのです。それが従地涌出品のひとつの原理です。
 折伏をしきった、それだけが永久の眷属になるのです。たったひとりの場合、単己の菩薩で永遠にひとりになるのです。一国を折伏していった。一国の指導者として、かならずそこに三世格別あるべからずで、証拠がでてくるのです。人間本来、仙人ではあるまいし、孤独で暮らしていこうなどということはできえないのです。
 その証拠に、かならず密集します。社会ができるのです。
 それを、いまの場合は信頼し合えない。そしてまた自分は利己主義である、策略しあう、落としあう、そういう世界にあって、ひじょうにそうであっても、やっぱり大勢の世界に生活していく、社会の恩というものはあるのです。それをもっとも正しく社会の恩を報ずるのは、信心しかないし、その真実の集団というか、社会というか、理想的に生きていく、その民主主義の縮図、人間本来の、人間そのままの特性の、人間性の、また人道的のというか、その歩みかたをしているのが創価学会の社会です。このように私は確信しているのです。
 ですから、ひとりぼっちにならないで、どこまでも、どこまでもよき先輩につき、いい友だちをもち、語り合って、一生涯がんばっていっていただきたいと、こう念願するのです。
4  その次に申し上げたいことは、絶対に大御本尊様を受持しきっているならば、信心があるならば、最後は、よくなることは間違いありません。最後がよくなる証拠として、いまの刹那がよくなっていきます。顔色が違います。法の求め方が違うし、人の信頼度が違ってきます。
 ですから、結婚が少しぐらいおそいとか早いと、目先のことにとらわれて、信心をおろそかにだけはしないようにしたほうがいいです。
 ぐあいが悪くなった。ぐあいが悪くなったということ自体が、極端にいうならば、率直にいうならば、因果倶時で、そのときに信心が止まっている人がぐあいが悪くなるのです。見ていてわかります。「こんなに信心したのに」「私はこれだけ戦ってきたのに」それ自身が、もう退転なのです。
 ですから勇猛精進、永遠の生命からみるならば、一生は一瞬のようなものです。
 三十年、五十年と、どんなことがあっても、御本尊様を放さない、どんなことがあっても、信心だけは、大聖人様のおおせどおりに進んでいくことです。またどんなことがあっても、どんな事態ができても、創価学会から離れない。こう確信すれば、その人は勝ちなのです。その決意のしかたが浅いか、深いかの問題です。ちょっと忘れてしまうか。惰性に流されているかという問題です。惰性に流されていても、疑っていなければいいのですけれども。
 さまざまの性根の人がいると思いますけれども、きょう集まった皆さんがたは「一生涯死ぬまで御本尊様を放さない。そしてまた創価学会から離れない。創価学会の一員として、私は死んでいってみせる」こう誓い合いたいと思いますけれども、どうですか。(拍手)
 これが全財産です。一生涯の有形無形の財産をつくるべき、そのもとの財産なのです。ことあるごとに、なにか苦しいことや、そしてまた行き詰まったときに、きょうのことを忘れないで、そしてまた、きょうを出発として、もう一歩強い、自分の信心を完成するために、来年一年間、大事な一年間として、私といっしょに進んでいただきたい。こう念願するわけなのです。

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