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九州の地に春を 鹿児島会館入仏式

1963.11.23 「会長講演集」第10巻

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1  鹿児島会館の落成入仏式、まことにおめでとうございました。
 九州の地が広宣流布の牙城として完ぺきになりつつあります。その大先輩として指揮をとった石田副理事長はとうぜんのこと、この九州の地あって、もっとも南端である鹿児島の幹部の皆さん方、そして同志の皆さん方のいままでのご健闘に対して、心から敬意を表すものであります。ご苦労さまでございました。(拍手)
 ただいま理事長から話がなりましたように、九州の地においても、先日は三池炭鉱の大なる不幸がございました。願わくは、幹部の皆さん方が信心根本に、さらにさらに団結を固めて、きょうから、九州の地に春を呼び起こしていただきたいことを、心から念願するものであります。(拍手)
 ひじょうに九州の同志の方々も元気であり、戦いは強い。しかし、なんとなく非常識な点もあるようなとこを若干聞きますし、なんとなく非壮感があり、神経質、または、ひじょうに突飛な行動をして、法を下げるような場合のあることも、たまに聞きます。そういうようなことなく、あくまでものびのびと、学会精神を源泉として、仲良く、暖かく守り合って、のびのびと前進していただきたいと思います。(拍手)
2  新本部で地区部長会をやっております。先日は、千葉本部の地区部長会がありまして、このときに、ちょうど私と同じ年齢ぐらいの青年地区部長が質問をしました。それは「大東亜戦争を中心として、自分の青春はなかった。だがその青春は、いま取り戻すことができた。このことはこれでいいのですが、大東亜戦争のときには“国のために命を賭して死んでいこう”こういう気持ちであった。“情熱をもって国のために殉じよう”と思っていたが、いま大御本尊様をたもって、王仏冥合の戦いにのぞんで、地区部長としては、私はどうも大東亜戦争のときのような“国に殉じよう”という気持ちになれない。なんとなく自分はそれがものたりなくて、いまの立ち場が、いまの心境が、ものたりない気持ちで残念なのです。どうしたらいいでしょうか」という意味の質問なのです。
 私は入信時、よく先輩からうかがった話のひとつに、牧口先生は戦争当時、出征なり、入営をする人に対して「かならず生きて帰っていらっしゃい」といったそうであります。私はその話を聞いて感激をいたしました。また、牧口先生は「滅私奉公は間違いである。自分を滅してなにが奉公ができるか」と、そのように指導なさっていたとうけたまわっております。大聖人様の大仏法から拝するならば、とうぜんの理念であり、指導であります。
 私は、その青年地区部長に、いろいろな面からよく話をしました。大聖人様の仏法は、生きていくための仏法であります。大聖人様の生命哲学は、もっとも生命は大事であることを説き長生きして、幸福になっていくための源泉の仏法であります。それ勘違いして、非壮感をもったり、一生懸命のあまり、青白い顔をしたり、すぐに病気になってしまうような、そういう信心が行動に流されていくような指導者であってはならない。
 それは、大聖人様の仏法のなかにも「死身弘法」「不自惜身命」ということばが“国のために命を賭して死んでいこう”こういう気持ちであった。“情熱をもって国のために殉じよう”と思っていたが、いま大御本尊様をたもって、王仏冥合の戦いにのぞんで、地区部長としては、私はどうも大東亜戦争のときのような“国に殉じよう”という気持ちになれない。なんとなく自分はそれがものたりなくて、いまの立ち場が、いまの心境が、ものたりない気持ちで残念なのです。どうしたらいいでしょうか」という意味の質問なのです。
3  私は入信時、よく先輩からうかがった話のひとつに、牧口先生は戦争当時、出征なり、入営をする人に対して「かならず生きて帰っていらっしゃい」といったそうであります。私はその話を聞いて感激をいたしました。また、牧口先生は「滅私奉公は間違いである。自分を滅してなにが奉公ができるか」と、そのように指導なさっていたとうけたまわっております。大聖人様の大仏法から拝するならば、とうぜんの理念であり、指導であります。
 私は、その青年地区部長に、いろいろな面からよく話をしました。大聖人様の仏法は、生きていくための仏法であります。大聖人様の生命哲学は、もっとも生命は大事であることを説き長生きして、幸福になっていくための源泉の仏法であります。
 それ勘違いして、非壮感をもったり、一生懸命のあまり、青白い顔をしたり、すぐに病気になってしまうような、そういう信心が行動に流されていくような指導者であってはならない。
 それは、大聖人様の仏法のなかにも「死身弘法」「不自惜身命」ということばが錯覚をおこしたり、自分がまるで自分自身のための指導者になってしまったり、そういう、えらぶったり感情的になったりする幹部は、幹部の資格はありません。
 ただ、大聖人様は「からんは不思議わるからんは一定とをもへ」というきびしいおことばもございます。また「とにかくに死は一定なり……をなじくは・かりにも法華経のゆへに命をすてよ、つゆを大海にあつらへ・ちりを大地にうづむとをもへ」(上野殿御返事一五六〇)という御金言もございます。一生涯、大御本尊様を放さない。一生涯、御本尊様の子供とし、弟子として、折伏戦に戦いきっていく。そしてまた一生涯王仏冥合に戦う創価学会員として死んでいく。これが、いまの大聖人様のおことばにつうずる実践であると、私は確信したいのであります。(拍手)
4  残念なことに、幹部のなかに、先日ふたり、三人、学会精神に反して幹部を解任され、ある幹部は除名になった人がおります。学会精神に反していばったり、同志から金を集めたりする幹部がおります。まったく、いばりくさっていて、それは残念なことであります。
 だが、その幹部も解任され除名になって、初めて目がさめた現状でありますが、そういうことのないように、自分自身の幸福のために、そしてまた不幸な人のため、同志のために、幹部みずからが、あくまでも前進していく、成長していく、実践していく、そういう自覚をもって、大衆から「あの人はりっぱな指導者である。さすがである。模範である」と信頼される指導者に、おたがいに育っていこうではありませんか。(拍手)
 最後に、ただいま原島先生からも話がありましたごとく、衆議院選もきのうで大勢がぜんぶ決定されました。だいたい民社党、共産党はすこし伸びたとはいっても、自民党、社会党は現状維持です。日本の政治図には、なんら新しいいぶきはございません。
 どうしても、大衆の心は、時代の要求は、その行き詰まった政治、社会に対し、それを打ち破っていくなんらかの力を欲しております。その力、その流れ、その源泉はとうぜん創価学会であり、公明会であるということは断言してはばからないものであります。(拍手)
 この薩摩より、明治維新のときには何人、何十人、または何百人といっていいくらいの有名人が、指導者が輩出されました。現在では、そういう人はほとんどおりません。そういうとおこられるかもしれませんけれども、願わくは、大御本尊様を受持した地涌の菩薩が、また明治維新よりも何倍、何十倍もの偉人が、有名人が一流人が、そしてまた大指導者が、この地より、このなかより出ていただきたいことを、心からお祈り申し上げまして、私の激励のことばといたします。(拍手)

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