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日蓮大聖人・池田大作

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体得せよ妙法の力 愛媛総支部幹部会

1963.11.4 「会長講演集」第10巻

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1  皆さん、こんばんは。
 せっかく待っていてくださっても、べつにりっぱな話ができるけでもないし、またいい話があるわけでもないし、申しわけございません。私はただひとすじに大御本尊様に願って、大聖人様のおおせどおりに、まじめに真剣に、一生成仏を願って仏道修行をしている地涌の菩薩、そしてまた、日本の国を根本的に救いたい、全人類を大聖人様の色心不二の哲学をもって、すなわち王仏冥合の大理念をもって救いきっていきたいと戦っている同志の皆さん方が、楽しく安心しきって生活できるようにだけは守りきっていきたい、それだけを祈っておりますから、それでよろしいでしょう。(拍手)
 「人生の目的はなにか」と、このように人々に聞いたとき、ひとくちに答えられる人は少ないのです。日蓮大聖人様は、人生の目的は一仏乗にあります。すなわち成仏することにあり、永遠の幸福を獲得することにあるとのおおせです。また、むずかしい哲学論になりますが、「常楽我浄」また「衆生所遊楽」ともおおせです。この地球上に楽しみにきたのだ、苦しみにきたのではないと教えるのが大聖人様の仏法なのです。
 釈迦仏法の爾前教においては、この地球上に生をうけることは苦しみにきたのだ、穢土であると、こういうふうに教えるのです。とんでもありません。そんなに苦しんでばかりいられやしません。大聖人様は、その国土世間において楽しむ源泉はなんであるとおおせになっているかといえば、これは御本尊を受持する以外にないという結論なのです。
 政治は制度、それから政策、また機構、いろいろ変革はありまけけれども、それは幸福への一断面の真理す。根本的な幸福は、どうしても仏法の真髄による以外ないのです。それは心ある人はみんなそう思っております。それで、この地球上に遊楽しにきた、夫婦ゲンカすることが目的でもない。また、嫁としゅうとがいびりあい、ケンカすることが目的でもない。いつもいつも貧乏し、借金して苦しむことが目的でもない。ぜんぶそれらを打開して、物心ともの幸福を獲得する、これが人生の目的なのです。
 だがしかし、娑婆とは仏法では「堪忍の世界である」といいます。堪忍ということは、どうしても生きていくうえにおいては、苦しみ、悩みがあるということです。会社へ行こうとすれば、混雑している電車に乗らなくてはならない。やはり堪忍、苦しみ、悩みということは避けられない。したがって、煩悩即菩提です。悩みあるのです。だが、それを菩提に変え、生死を涅槃に変えるところの根幹が御本尊になるのです。変毒為薬する機械というか、原理というか、これが本尊であり、信心になるのです。
 したがって、御本尊をたもち、信心が強ければ、ぜんぶが、煩悩を菩提に変えていけます。罪を利益に変えていけるのです。また、変毒為薬していけるのです。どんな時代にたちいたっても、とな境遇であっても、いま、瞬間の生活に、自分自身の幸福、喜び、これを発揮できるのです。これが御本尊の功徳になるのです。
 したがって、信心の目的も、あくまでも幸福になることが目的であります。絶対にそうなるわけでありますから、そういう境涯をつかみきるまでは、退転しないで信心をまっとうしきると、このようにがんばっていただきたいのであります。(拍手)
2  そうでなければ損です。日蓮正宗のための信心でもなければ、創価学会のための信心でもありません。広宣流布などというりっぱなことをいいますが、そういうことは考えなくてもけっこうです。自分自身の信心をまっとうしなさい。それが、とりもなおさず王仏冥合につうずるのです。自分自身が大事です。
 よく戸田先生が「あなたがたの功徳はわしのハナくそを丸めたぐらいの功徳しかまだうけていない」と、あまり体裁の良い例ではありませんが、そのように申されました。「わしの功徳は公開堂いっぱいの功徳である」と、このようにも申しておられましたが、いまになって、私もしみじみと先生の境涯の片りんがわかってまいりました。どれほど御本尊に偉大なる力があるか、それを知るには皆さん方が体得する以外に道はないのです。いくら私たちがりっぱなことをいったって、うまくもなければ、おなかもいっぱいにならないし、どうしようもありません。それは観念論です。
 願わくは、一年間、一年間でいいですから、まず第一歩として、朝晩の勤行、そしてまた、御本尊様のおおせどおりの信心を、全魂を、全魂を打ち込んで、まじめに実践しきってみていただきたいと私は思うのです。(拍手)そうすれば、生まれ変わったようになっていくことは間違いないのです。実践、実験してごらんなさい。
 べつに損するわけではないしでしょう。ロウソク代と、それから線香代だけではありませんか。それは、たいしたことはないでしょう。
 それで、大きくいうならば、時代は刻々と変わっております。ちょうど、春になれば桜が咲くように、秋になればカキの実があるように、どうしても、日蓮大聖人様のこの大仏法によらなければ、個人のしあわせ、そしてまた、一国の救済、人類の行き詰まりの打開ができえないということは、これは御書にてらして明確なのです。
 そういこうことをいいますと、ずいぶん大言壮語して、うまいことをいっているではないかと、こ思う人もいるでしょう。それはそれとしまして、思う人はどうでも思うのですからしようがない。だが私は、それを確信をもって申し上げられます。
 したがって、新選組の歌ではないけれども、変わる時勢に背中を向けていたならどうしようもないのです。いま、私どもはあらゆる迫害、中傷をされておりますけれども、十年、二十年、三十年先がどういうふうになるか、これは、いまの為政者でもわからないことです。だが、御書にてらし、そしてまた、御本尊様の御金言にてらしてみるならば、絶対、私は間違いなく、広宣流布の時代はやってくる、第三文明の時代、新社会主義の時代は到来することを、声を大にして訴えきっておきたいのであります。(拍手)
3  だれが、十五年、または二十年前に、今日の学会の姿を信じておりましたか。学会人自身だって疑っておりました。だが戸田先生は、ゆうゆうと未来を指して今日の姿を確信をもって断言しておりました。私は信じておりました。そのときは同志といっても百人か二百人す。あらゆる迫害のさなかでありました。
 もしか、大聖人様のおおせがウソであったならば、もう私は信ずるものがありません。いまの政治家や為政者のいうことなんか、なにが信じきれますか。皆さん方もそう思うでしょ。人間の心なんか信じられません。信じきれるものはそれは仏さまの言しかないと私は確信しております。
 その仏法も、過去の仏法、また退廃しきった宗教がありますが、これらは、釈迦も予言し、大聖人様も打ち破っております。釈迦も予言し、そしてまた天台、伝教、大聖人様が、これから未来万年の大宗教は、大仏法は、この御本尊以外にないと、七百年前の御書に明確に示されているのでしょう。これを教えきっているのが創価学会ではありませんか。(拍手)
 日蓮大聖人様がウソをつくわけがありません。ときには幹部が間違えることがあるかもしれませんが、それはゆるしてください。しかし、大聖人様のおおせは間違いないのです。その大聖人様の教えを根本として、有意義な一生を、そしてまた子孫末代の功徳のためにも、または子供、孫の代に、われわれはこのようにりっぱな基礎をつくっておいたと、これだけいいきれる闘争をしきっていこうではありませんか。(拍手)
4  そして、大聖人様からほめられ、三世十方の仏、菩薩、すなわち一千万人近い同志が見守ってくれます。
 世間の人は、悪くなったら、どうしたって、ケンカするか、見放すのが一般人間社会の実態す。あくまでも御本尊様を根幹に、大聖人様の子供として、励ましあい、助け合い、そして五百万、一千万の人たちが、ともども、まだまだ大聖人様の仏法を知らない不幸な人々に教えてさしあげよう。こういう気持ちになっていくならば私は広宣流布も近いと思うのです。そのように皆さん方も思いませんか。(拍手)
 どうか、むりはしないで、学会の人はひじょうにしつこいというか、折伏に行っても夜おそくまで長く話をするので困るという声も聞きまして、そういう非常識なことはしないようにしていただきたいのです。あくまで常識を重んじ、信心を根幹として、その人を救おうという慈悲、真心をもった行動はとうぜんでありますけれども、非常識なことはしないようにしていただいて、楽しい仏道修行をしきっていただきたいと思います。これだけを最後にとくにお願い申し上げまして、私の激励とさせていただきます。ご健闘をお祈りいたします。

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