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日蓮大聖人・池田大作

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一念随喜の功徳 中国第一・第二本部結成大会

1963.10.19 「会長講演集」第10巻

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1  たいへんにしばらくでございました。元気な姿を拝見しまして、ひじょうに私もうれしいのです。皆さん、功徳を受けておりますか。(ハイ)
 皆さん方が功徳を受けて楽しい生活をしてくださっていれば、私はそれでぜんぶけっこうであると思います。功徳をあまり受けていない人は、遠慮なくたくさん功徳を受けていただきたいのです。(拍手)
 それで、私の話であろうが原島先生の話であろうが、理事の話であろうが本部長の話であろうが話はぜんぶ同じです。こと新しく私がりっぱな発明はいたしません。
 皆さん方とお会いして、ともに「より以上功徳を受けよう」「題目をしっかりあげよう」そして「日本の国を救おう広宣流布をしようではないか」と元気にお会いすれば、あとのことはぜんぶ枝葉であると思うのです。(拍手)
 それではどうすれば大功徳を湧現することができるか。皆さん方もずいぶん功徳を受けているでありましょうが、まだまだ功徳を受けられるわけです。成仏という境涯までいくのが信心の目的です。仏といおうが地獄といおうが、修羅界といおうが、畜生界といおうが、ぜんぶわれわれの一念です。生命のなかに存在すべきものであります。
 したがって、三大秘法の御本尊に題目をあげきることによって仏界が湧現するのてず。日蓮大聖人様は「一念随喜の功徳」とおおせであります。一念とは信心の一念、色心不二の一念です。唯心的な一念ではないわけです。その一念、信心は、随喜、歓喜に燃え、喜びに燃えて信心をまっとうするところに大功徳が湧現するとおおせなのです。
 したがって、皆さん方が学会員になって広宣流布のため、一生成仏のために活躍するのもけっこうですし、また、いやでおやめになるのも自由です。それで中国本部にはそういう人はいないと思いますけれども、(笑い)学会の指導どおりにやらないで夜中に折伏に行ってヒンシュクをかったり、またはどこかで事件が起きて、それが学会の大きい批判の的になったり、たいへんに迷惑を受けているのは、いつも、じつは私のほうなのです。(笑い)
 それは冗談としましても、ひとりでもふたりでも、不幸の人を救いきり、大聖人様の弟子とし子供とし、幸福にさせていくことが創価学会のただ一つの目的であることはとうぜんでありますが、学会活動は、ことばをかえていえば、仏道修行です。
 修行のない仏法はありえようはずがありません。その修行といっても寝たいときは寝られるのだし、食べたいものは食べるのだし、おカネをとられるわけではないし、なんら文句があるわけはないのです。
 その自分自身の活動であるのに「なんだ支部長が折伏しろというから、いやになっちゃうな」とか「教学を勉強しろというから、いやになっちゃう」とかいう人がおりますが、学会は、ぜんぶ、日蓮大聖人様のおおせどおりにやりなさいという指導しかないわけです。一言でも大聖人様の指導、また教えからはずれたことをいう幹部があったならば、それは学会の幹部ではありません。
 したがって、皆さん方が「いや、自分は折伏はいいんだ、教学もいいんだ」「私は自分らしく勝手に気ままに信心すればいいんだ」といえば、これは我見です。こういう場合に功徳は出ないわけです。ですから私は「自分自身のためであり、広宣流布のためではない、日蓮正宗創価学会のためでもない」とただひとすじに、日蓮大聖人様のおおせどおりの信心だけは、勇敢にやりきっていただきたいことを訴えたいのであります。(拍手)
2  私どもが申し上げる指導が間違っているかいないかは、御書を拝読すればわかります。私がきょうとくに申し上げておきたいことは、御書を拝読していただきたいということなのです。御書は日蓮大聖人様の絶対のご遺訓であり哲学であります。
 この御書どおりに実践すれば、創価学会の実践しかなくなってしまいます。
 ですから、どことも妥協しませんから、なんだかんだと文句をいわれたり、批判されるわけなのです。信心に妥協があるわけはありません。
 御書のなかには、たくさんの哲学がありますが、勉強をして忘れるのもやむをえないでしょう。私だって、しょっちゅう忘れます。だが、題目をあげ、そして少しでも大聖人様の大生命哲学にふれよう、自分のものにしようという決心をもっていただきたいのです。なにもわれわれわは学者になる必要はありませんし、宗教家でもありません。御書を身口意の三業で読もう、どんな小さいことでも自分のものにしよう。
 たとえていうならば、一念三千とはどういうことなのだろ。または、どれほど生活のうえで現実のうえで偉大なる哲学であろうか。それを自分の身に生活のうえで実践してみたい。または、仏法は勝負である、不自惜身命、さきほど申し上げた一念随喜の功徳、そういういろいろなことばがございますけれども、その短いことばでもけっこうです。それを一つ一つ、自分のものにしきろう、それが即学会精神であるということを確信していただきたいのです。
 教学は信心を深めます。どうしても信心が進んでくれば、教学を要求します。その教学はかならず信心を深め、その信心は功徳を湧現します。どうか、題目をしっかりあげ、御書の一ページでも一行でも日々月々年々に、少しずつでも自分のものにしきっていこうという出発をしていただきたいことお願いします。(拍手)
3  いままで学会か進んできた道も苦難の道でありました。皆さん方も、現状において苦しいこと、悲しいこと、つらいこと、くやしいことはあると思います。末法において広宣流布するならば、かならず三障四魔は紛然として起こり、また三類の強敵とあらわれることは、御金言どうりでどうしようもないのです。だが、戸田先生のもとで私どもはぜんぶ、戦いきってまいりました。
 十年、十五年前野学会の姿からみれば、いまはずいぶんらくになってきております。そういう環境で皆さん方は戦っているわけであります。いままで戦ってきた同志のことを考えれば、まだまだ自分たちはらくなのだと、こういう気持ちでがんばっていただきたいと思います。
 ともに、大御本尊様をたもち、大聖人様の子供として一生成仏を願い、広宣流布を願って戦っている私どもをいじめた、苦しめた人は、三年、十年、二十年先、一生をみた場合、どのように私どもとの相違が、幸・不幸の姿が厳然とあらわれるかということを、強い強い確信をもってみていっていただきたいことを私は訴えたいのであります。(拍手)
 私もがんばります。広宣流布のために、そしてまた皆さん方のために私はがんばります。さきほどから、世界のためとか、人類のためとかと大きいことをいいますが、そういう大きいことをいうのはかんたんなことであって、そういうだいそれたことは別問題として、せめて、こんなに汚れきった、ふまじめな、なにも信じられないような乱世において、ただひとすじに悪口雑言のなかで、まじめに日本のために、まじめに生活を生きようとし、そしてまた、仏法を実践している皆さん方のために、私は全力をあげて戦っていくことを強く申し上げておきます。(拍手)
4  反対に、いくら会長がひとりでがんばってもなにもできません。若い会長でありますから、力のない会長でありますから、どうかひとつ、信心のこと、広宣流布という大目的のことだけについては私を守っていただきたいと思います。応援を願いたいと思うのです。(拍手)
 それで、めんどうな話をこれで終わりにさせていただいて、明日、広島本部の土地を見てまいります。来年の秋ぐらいまでには、そんなにりっぱなものは造れないかもしれませんけれども、広島本部を造って、皆さん方に自由にお使いいただくようにいたしますから、これだけを約束しておきます。(拍手)
 それで、いくら学会本部ができ広島本部ができても、私の願いは皆さん方がそういう本部以上のりっぱな建物を造っていただきたいとことであります。(拍手)
 うんと力を持っていただきたい。物心ともにしあわせになりきっていただきたい。自分の家は門から玄関まで三十分ぐらいかかるというような家を造ってください。(拍手)
 それだけの証拠を示すことのできるのが日蓮正宗の仏法です。文証・理証・現証をりっぱに示せるような信心をしていただきたい、功徳をいただいていただきたい、これを私は念願するのです。(拍手)
 最後に、私が「新世紀の歌」の指揮をとってお別れしたいと思うのです。(拍手)

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