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日蓮大聖人・池田大作

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雅量のある指導を 神奈川第一・第二本部結成大会

1963.10.16 「会長講演集」第10巻

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1  たいへんおめでとうございました。(拍手)また、ずいぶん元気な姿で、ひじょうに私もうれしいのです。けれども、一年ぐらいまえを振り返ってみると、きょうのような元気はありませんでした。一年ぐらい前の神奈川は、なんとなく不景気なかおをして(笑い)おんしつしているみたいな顔をして、根性曲がりな(笑い)退転者みたいな気がしておりました。ずいぶん革命をしたものだと私はひそかにうれしい気持ちです。
 どんなことがあっても、私としては、学会人が、そしてまた日本の国が平和になり、幸福になっていってくだされば、これ以上の喜びはないのであります。(拍手)
 とくに、もう最後でなにも申し上げることはありませんが、また暑いから早く終わったほうがいいと思いますし、皆さん方とお会いして「元気な姿で一生懸命、広宣流布に戦おう」「題目をしっかりあげてうんと幸福になろう」これだけいいあってかえれば、ほんとうならば私は学会の行事の究極であると思うのです。だが、それで帰ってしまったならば「なんだ、せっかく何時間もかかって集まったのに、二、三分で帰ってしまった」などといわれたのでは、かっこうがつきませんから申し上げますが、(笑い)あとのことはぜんぶ枝葉の問題です。
 それで北条副理事長はじめ、副理事長の先生方が私をほめてくれますが、私はほめられると、もうかっこうがつかなくて弱っているのです。(笑い、拍手)まあ、私はこんな会長でありまけれども、理事長はじめ副理事長、理事は、ほんとうにりっぱな最高首脳部であります。ですから、安心しきってついてきていただきたいと思います。
 それで、本部長である森田さんや隣の藤原さんや、その隣の多田さんとは、じつは兄弟以上の、十数年間、命をともに戦ってきた同志であります。それが戸田門下生として、今日の学会の推進力とてり、原動力となって、わが青年部の中枢となって戦ってきた人々でありますから、絶対に安心しきってついてきていただきたいと、このように申し上げておきます。(拍手)
2  私の望むことは“一家和楽の信心”をしていただきたいということです。また後輩に対しては自信をもって、のびのびと信心ができるように指導していただきたいのであります。たとえていうならば一家において奥さんは信心していますが、ご主人が信心していない家庭もございます。または子供が信心して、両親が信心していない場合もございます。
 そういう家庭においては、ひじょうにつらい思いをしていると思います。私もいままでそうでありましたし、ずいぶん私の同志も、先輩もそういう歴史を踏んでまいりました。御書に「末代の凡夫此の法門を聞かば唯我一人のみ成仏するに非ず父母も又即身成仏せん」とおおせであります。これは「ひとり成仏――ひとりの人がほんとのう信心をしてきっていくならば、しょせんは全家族が救われたことにつうずる」という意味のことばであります。
 したがって、わたしどもはそういう家庭、そういう人に対しては理解して、自信をもたせて「ああ、あなたが一生懸命信心していけばそれでいいのだよ」そのかわり、奥さんが信心していて、主人が信心していない場合には、あくまでも、主人に対して「永遠にいっしょに妙法のもとに幸福になっていきたいから、いっしょに御本尊様を拝みたいのです」こういう真心がなくてはならないし、あと信心以外のことについては、妻とし、そしてまた子供に対しては母親として、人以上に真心こめて、愛情こめて主人に仕えることはとうぜんであると思います。
 それを、主人が信心をしていないからけんかばかりする、そういう奥さんは賢明な奥さんではありません。「女人となる事は物に随つて物を随える身なり」との御金言もあります。賢明な奥さんになっていただきたい。
 また子供の立ち場において、両親が信心しないからといっても、子供の成長、幸福は、親として願っていることはあたりまえです。ほんとに子供が純真なる信心をやりとおして、真心こめて、おとうさん、おかあさんに対して仕えていくならばどんな親でも最後は信心すると、これは法華経にもあります。
 また親が信心してお子さんが信心しない。自分のかわいい子供です。真心こめて子供をかわいがり、理解し激励し、守っていくならば、親の情が子供にうつらないわけは断じてありません。したがって、一家において、だれびとたりとも、ひとりまじめに、強情に信心しきるようにしてあげてもらいたいし、そうしていくならば、三年、五年、十年、いな一生のあいだには、かならず一家の広宣流布ができるという、その指導をしきっていただきたいのであります。(拍手)
 また、後輩の人々の指導に対して、極端に指導する人がいます。それは根本問題は信心ですから、いっさい、その人のためのきびしい指導も必要であることはやむをえません。だれから金をもらっているわけでもないし、おたがいにぜんぶ日蓮大聖人様のおおせどおりに、一生成仏をめざしての指導が創価学会の指導です。
3  また日興上人様の二十六箇条の大精神として、一分の狂いもなく、まっすぐに指導しきるのが学会精神でありますから、なにもおせじを使ったり、そしてまた「信心してください」とか「学会にはいってください」とか、そういう必要は断じてありません。
 ただし、たとえば主人がおそく帰ってきてお題目三遍で寝てしまった場合、ひじょうにやかましい奥さんは「あなた、(笑い)お題目三遍とはなに、(笑い)きちんと勤行しなさい」と、まるで奥さんのほうが大聖人様みたいにいうわけです。
 (笑い)ほんとうは、ご主人に食べさせてもらっているわけです。(笑い)それから、子供がやはりたまに朝早く勤めに行かなくてはならない場合に、前の日がおそかったもので、お題目二、三遍で行ってしまったのです。すると、すぐおこってしまうわけです。ところが「もうそんなにおこられるのではお題目あげるのやめようかな」と、こういう気持ちにさせるような指導は、これはへまです。
 もしかそういうことがあれば、残った奥さんなり、主人なり、子供なりが「その分まで自分が題目もをあげよう」と。そしてまた主人に対しても暖かく「きょうはお疲れになりましたね、早くお休みになってください」と。「あした、そのかわり早く起きて、いっしょに声高らかに勤行しましょうよ」と、こういうふうにすれば、とっても気持ちがいいのです。(笑い)そう思うでしょう。(拍手)だからといって、それを利用して「おい、きょうは三遍でいいだろう」(笑い)などと、それは法利用です。これはいけません。
 また組長さんや組員の人に対しても(お線香は三本、あなた四本にしてはだめよ、五本ではだめよ」とか、なんでもだめ主義の指導、この指導はへまな指導です。
 あくまでも「こういうふうにやっていけばいいのよ」と「こういう点は心配ないのだよ」と、このようにも自信をもたせ、のびのびと信心ができるように、自信をもって戦いができるような指導が大事であると思うのです。
 そのほかにも、たくさんの例がほんとうは必要でありますけれども、またある場合は、地区員があんまり地区部長さんのところへこないと鬼みたいな顔をして、(笑い)検察庁みたいに「どうしてこなかったのか」と。これではますますきたくなくなってしまいます。(笑い)「ああ、ずいぶん見えなかったけれども、ずいぶん忙しかったのでしょう。よく見えたね」とお茶の一杯もごちそうするぐらいの気持ちで、こんこんと話してあげれば、また安心してきます。それを「いまごろきて(笑い)週に一回や二回こなくてはだめではないか」などと、そういう命令口調や、圧力的な行き方は、断じてあってはなりません。
4  また、よく私が申し上げますけれども、支部長のところに地区部長、または班長さんがきたときに「ああ、折伏の闘士としてご苦労さんでした」と、自分のざぶとんを地区部長や班長さんに差し上げて、自分は畳の上で「それではきょうの活動の報告を聞かしてもらいましょう」と、これだけの雅量がなくてはならないし、大聖人様の使いとして、広宣流布に戦っていく闘士を「当に起って遠く迎えて当に仏を敬うが如く」(勧発品)おたがいに尊敬しあい、真心こめた同志愛をもってすすんでいっていただきたいと私は思います。(拍手)
 だからといって、けっしておせじを使うとか、政治性を使うとか、政治団体ではありませんから、そういうことは学会では必要ありません。あくまでも信心の団体であります。
 それから申し上げたいことは、感情的になったり、またささいなことで、自信がなくなったり、そういうことのないように、ひとつ気をつけていただきたいのです。どういう人であっても、純真な人に対しては忍耐強く、どこまでも理解してあげ、自信をもって信心が一人前になれるように、一家が和楽の信心を確立できるまで、それを目的として、一家和楽の信心ができるようにということを目的としての、そういう指導をしてあげていただきたいと思います。このことを申し上げまして、また神奈川第一、ならびに第二本部のご健闘を心からお祈り申し上げ、私の激励といたします。

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