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日蓮大聖人・池田大作

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楽しく信行学に励もう 関東三本部結成大会

1963.10.13 「会長講演集」第10巻

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1  たいへんにしばらくございました。また本日はおめでとうございます。(拍手)
 いちばん最後になって、もう話をすることがなくなってしまいましたし、また、たいへんに混んでおりますから、かんたんにさせていただきます。
 どうか、楽しい信心、そして楽しい折伏、また楽しい教学をしきっていっていただきたい。これが私の念願であります。
 “楽しい信心”とはどういう信心か。とうぜんそれは、もっとも強盛なる信心をいいます。信心が弱いがゆえに生命力弱く、功徳を受けられず、そしてまた人々を批判し、自分自身が罰の生活をするのです。信心が強い人は「人を救おう」「あの人をなんとか指導してりっぱな学会人に仕上げよう」「あの人をなんとか大功徳を受けられるように激励しよう」と。また、信心即生活でありますから、生活のうえにも厳然たる証拠が示され、一家和楽の生活ができていくことはとうぜんであります。
 したがって、楽しい信心を、強盛なる信心をしきっていっていただきたいのです。(拍手) それから“楽しい折伏”――どういう折伏か。なにもそれは、おせじを使って折伏しなさいという折伏ではけっしてありません。ただ、常識はよくわきまえて行動してください。自分自身も御本尊様のお使いとして「あの人は不幸である」「かわいそうだ」「なんとか救ってあげたい」「御本尊様のことを話してあげたい」「自分の体験を教えてあげたい」というたんたんたる気持ちであり、真心こめた行動、行為であります。
 それが、折伏に行った、ところがなかなかいうことを聞かない。そこで「ああ、いやになってしまうな、またほかへ折伏に行かなくてはおこられてしまうかな」と、(笑い)それで青い顔をしたり、鬼みたいな顔をして折伏にいったならば、苦しい折伏です。そういう折伏であってはなりません。
 だれから金をもらうわけでもなく、なにもおせじを使う必要もなく、大聖人様のおおせどおり、大聖人様のお使いとして、楽しい楽しい境涯で、真心こめた折伏であっていただきたいのであります。(拍手)なんら御下付願も関係ありません。地区部長や支部長に対する義務もありません。ぜんぶが自分自身のためであり、大聖人様のおおせどおりの実践であり、不幸な人のための救済の行動であります。慈悲であります。その折伏行が、まるで苦しい折伏になってしまったり、ケンカになってしまったり、なんとなく重荷になってしまうようであるならば、私はいけないと思います。
2  また次は“楽しい教学”――楽しい教学というわけにはいかないかもしれませんけれども、(笑い)よくいうのです。「創価学会の信心もいいけれども、御本尊様は絶対であるけれども、ほんとうに、折伏と教学さえないといいなあ」と、(笑い)それはなにも学会で発明したわけではないでしょう。(笑い)私だって、ほんとうならば「折伏もしなくていいよ、教学もやらなくていいよ」と、こういいたいのです。(笑い)しかし、そんなことをいってしまったならば、大聖人様からおしかりを受けます。仏罰をこうむってしまいます。ウソを教えることになってしまいます。
 その教学も、一言一句たりとも自分自身が信心を根本として学ぶならば、自分自身の大功徳になるのです。そしてまた、興廃の人々に対して、少しでも納得させられるように、理解できうるように教えることは、幹部として先輩として、とうぜんのことであります。自分自身のためでもあるし、後輩のためにも実力を養わなくてはならない。そういう考えで勉強していくならば、ぜんぶが自分の成長になります。
 それが地区部長が「受けなさい。受けなさい」「いやになってしまうわ、わたし義理で受けようと思うのよ」とか、そういう義務感などは学会には必要ないのです。
 したがって、信心も折伏もそしてまた教学も永遠の功徳を積むためであり、ぜんぶ自分自身のためであり、人間革命の源泉なのです。そしてまた、「日蓮大聖人様の子供、弟子としての当然の実践である」と、こういう決意をもって、ともどもにがんばりきっていきたいと思うのであります。(拍手)
 先日、松川事件が十何年目でやっと無罪が確定しました。だれが犯人であるか、だれかしらが犯人であることはうどうぜんであります。いまの権力に対して、横暴なる権力に対してはそれは私も憎んでおります。人が人をさばいておりますから、どれほど大勢のかわいそうな人が罪をきているかも、それはわかりません。
 では、だれが犯人であるのか。だれにもわからない。そういう事件は、私はいままでの歴史上、枚挙にいとまがないと思います。だが私は、だれが犯人であり、まただれかが犯人で無罪になったとか、そういうことは、これは人間社会のことで、これはたいへんな社会問題でありますが、もう一歩、それだけでは解決できない問題があるのだと、そう私はいつも思うのです。
 どうしても、いっさいの解決の根底は仏法しかありません。因果の理法を説いた、大聖人様の大生命哲学しか解決の道はないわけであります。したがって、裁判で無罪になったり、裁判で有罪になったとしても、ずいぶん間違いがあると仮定できます。だが因果の理法のうえから論ずるならば、仏法の鏡に照らしてみるならば、たとえつかまらなくても、たとえどういう立ち場にあっても、厳然と悪をなしたものは悪の報いがあるのです。正法を誹謗し、そしてまた、人を殺し、社会悪の行為をした場合には地獄へ落ちる、地獄の報いを受けることは、地獄の苦しみを受けることは、仏法に照らして絶対であると、私はいっておきたいのであります。(拍手)
3  その反対に、どれほどか私どもは社会のために、そしてまた人々のために、大きくいうならば日本のため、人類のために戦ってきておりますが、だが、ぜんぶわれわれの実践は、大聖人様のおおせどおりの実践であります。大聖人様が、そして三世十方の仏菩薩が、諸天善神が、私どもを守らない因果理法は絶対にないと、私は確信したいのであります。(拍手)
 どうか、その強い強い信心、確信をもって広宣流布のその日まで、いな「南無妙法蓮華経は福智ともに南無妙法蓮華経」(御義口伝792㌻)とおおせでございます。永遠の福運、そしてまた知恵をぜんぶお与えくださる大仏法であります。かならず今世において、絶対に幸福への大勝利者になれるのだ、なるのだという決心をもって進みきっていただきたいのであります。(拍手)
 さきほど辻指導部長からもいろいろ話がありましたが、創価学会に対してひじょうに世間の見方が変わってまいりました。だが広宣流布の暁の日まで、それは三障四魔が出るのはとうぜんであります。また、それはなにか魔がなければ人間革命、宿命の転換はできないのです。(笑い)これで二、三年で広宣流布ができてしまったならば、なんとなく寂しい思いがします。ですから、いろいろな魔と戦っていくことを楽しみにしているのです「難来るを以て安楽と意得可きなり」と。
 だが仏法の鏡に照らしてみるならば「あの人はああいう現証が出た。死ぬときはああだった。ああ、かわいそうに」と、ぜんぶ因果の理法であって、なかなかわれわれの凡眼では見えないけれども、見えるのです。たとえていうなら、戦争中、われわれしろうとではわからないが、地雷がどこにあるのかわかります。また飛行機が飛んできた時も、レーダーがあれば、飛行機の行動はぜんぶわかります。それもレーダーがなければわかりません。
 と同じように、仏法に照らしてみれば、御本尊様の鏡に照らしてみるならば、明々赫々に個人個人の幸・不幸、そしてまた一国の盛衰、消長、世界の動向というものが見えてくるのが、大御本尊様の大功力であると私は訴えたいのであります。(拍手)
 それで、そういう学会になんとかして近づきたい、いままで学会を批判し弾圧をしていた連中がそのように思っているのです。人の心というものはずいぶん変わるもので、恐ろしいものです。人の心ほど信用できないものはないのです。昨年でしたか、ことしでしたか、ある人いわく「一日でもいいから、創価学会の指揮をとってみたいな」(笑い)「会長になってみたいな」と。こういうふうにいっているらしいのです。信心しないくせにずいぶんおこがましいです。(笑い)
 そういう考え方が、いまの為政者の考え方なのです。どんなものでも謀略で、どんなものでも利用していこう、自分の名誉欲、権力欲を満たそう、りっぱそうな姿を見せよう、こういう考えなのです。今度、勲章などがたくさん出ますけれども、みんなもらいたいのではないかと思うのです。大臣は子供みたいなものです。(拍手)
4  また先日は、週刊誌に、ある人が「創価学会の会長が教祖になってくれ」こう頼んだと出ているのです。それで私が冗談半分に、大阪で猊下とお目にかかりまして「猊下、ある人が、“創価学会の教祖になってくれ”と私が頼んだと書いてあったそうです」といったら「教祖は大聖人様おひとりではないか」(笑い)「まったく、いまの政治家というのはなっていないな」と、こういうふうに冗談におっしゃっておりました。そういうことをいったが、やっぱり学会が偉大であるがゆえに、そういう表現をすれば、多くの票がもらえるだろうと考えたらしいのです。あとから秘書が一生懸命に渉外局のほうへあやまりにきて「すみませんことをしてしまいまして、失言してしまいまして、すみません」と。こちらは、そんなことは眼中にないけれども、あやまりにきたそうでありますが、そういうふうに、創価学会に少しでも関係したい、少しでも接近したい、こういうわけなのです。
 大聖人様の御書のなかにも「梵天・帝釈等の御計として日本国・一時に信ずる事あるべし、爾時我も本より信じたり信じたりと申す人こそおほくをはせずらんめとおぼえ候」と――梵天・帝釈の計らいによって一時に広宣流布がなされるとのおおせです。その時に「私だって何十年間信心したよ」「私はもともと信心しておったよ」「私だって一生懸命やっていたよ」「私だってそうよ」途中をみんなぬきにしてしまって、(笑い)そういう人々がかならず出てくるのです。
 そのおことばどおりに、外部においてはそういうふうな気配になってきたわけなのであります。絶対に日蓮正宗創価学会は、王仏冥合達成を目的としたところの教団であります。どの団体、どの世界にも類例のない、もっとも尊く、もっとも偉大なる目的をもった崇高なる団体であります。
 したがって、どんなことがあっても、私が皆さん方の代表として本山をお守り申し上げ、そしてまた大聖人様のご命令どおりに、また、近くは恩師戸田先生のご遺命達成の指揮を、より以上、元気いっぱいにとってまいりますから、皆さん方も、より以上、私を応援していただきたいと思うのですあります。(拍手)
5  最後に、来年の四月二日の恩師の七回忌が終わりまして、四月の八日の日に、戸田先生が会長になってからの学会人、すなわち、いままで戦ってこられて、学会人として名を連ねてなくなった人、ぜんぶ、その人たちの追善法要を、私が願主となって妙光寺でいたす予定になっておりますからお伝えしておきます。(拍手)
 ちょうど妙光寺へ、私が代表してお寺を一基建立をいたしまして、それが三月ごろでき上がる予定であります。りっぱな寺院ができ上がりますし、本山としてもひじょうに格式の高い寺院であります。総監がいらっしゃるところであります。本山のほうは三百万総登山の最中で、ひじょうに忙しいもので、そういうふうに私は決める予定になっておりますもので、これだけはお伝えしておきます。
 どうかひとつ、さきほどから何回となく紹介されました三人の本部長を中心としまして、がんばってください。三人ともひじょうにお若い、私も若いですけれども、そのために、大白蓮華に今度は「壮年幹部に望む」としまして、さきほど理事長から話がありましたとおり、いろいろな角度から学会の大重鎮として、団結の中枢として戦っていただきたいという要望を書いておきました。
 若い本部長等を、どうかひとつ守ってあげていただきたいと思います。三人の本部長をどうかひとつ守っていただきたいと思います。三人の本部長も、どうかひとつ、全本部員の人たちから最後の最後まで信頼され、さすがはりっぱな若き指導者であるというふうに尊敬されるような、本部長としての使命、任務を達成していただきたい。頼みます。では、以上をもって激励といたします。長い時間、ご苦労さまでございました。(拍手)

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