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堅い団結、黄金時代へ 室蘭支部幹部会

1963.10.9 「会長講演集」第10巻

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1  たいへんにしばらくでございました。元気なお姿を拝見しまして、私もこれ以上の喜びはございません。ようやく室蘭に激励にくにことができましたが、こんなに元気であるならば、なにも、ここまで激励にくる必要はなかったような気がするのですけれども、そうはいきませんで、きてしまいました。(拍手)
 いままでは創価学会は、牧口先生そしてま戸田先生、また今日にいたるまで、三十五年間にわたる前進をしてまいりました。この三十五年間の前進は想像を絶する苦難の道を歩んでまいりました。
 皆さん方もご存知であるとおり、大東亜戦争の時には大弾圧があり、そのために牧口先生は牢死され、戸田先生もまた二年間の牢獄生活でありました。幹部はチリヂリバラバラ、退転するものも多くでました。それが昭和二十六年、戸田先生の第二代会長就任を契機として、今日もまた、あらたなる大発展への驀進が開始されたわけであります。
 先程辻先生からも話がありましたが、私は「いままでは、日蓮正宗も創価学会も弾圧をこうむってきた時代である、責められてきた時代である。だが、これからは、絶対に大御本尊様の威光を知らしむることが根本である。われわれの団結を根本として、黄金時代にはいったのが創価学会である」と断言しておきます。(拍手)
 皆さん方ひとりひとりが、大功徳あふれる生活を受けきられる資格があり、これが個人個人における黄金時代であります。いくら百万言りっぱなことばを費やしても、生活が苦しければなんにもなりません。どんなに、りっぱそうなことを、いつもいつも指導していても、自分は借金だらけであって、病気であったならば、これは証拠になりません。
 ここで私は申し上げたい。願いとしてかなわざるなしの御本尊は、罪として滅せざるなしの御本尊、そしてまた福としてきたらざるなしの御本尊、また理として顕れざるなしの御本尊、八万法蔵の極意の御本尊であります。この御本尊以外に末法今時において仏になる原理はありません。宿命転換ができうる根本は絶対にありません。
 こ御本尊に向かって朝晩三遍や十遍の題目ではなくして、自分自身の宿命と戦うため、人間革命をしきるため、過去遠々劫の罪障消滅、永遠の大福運を積みきるためには、私は何十万遍何百万遍の題目を、私があげきってみよう! という信心に立っていただきたいのであります。(拍手)
2  信心は観念ではありません。実践です。私どもも、仏道修行でありますから、とうぜん題目をあげ勤行をし、そしてまた折伏するのは、また教学をするのは、大聖人様のおおせでありますから、やむをえない。このあいだも「創価学会もいいけれども、教学の試験がなければいいなあ」と、これも大聖人様が「行学の二道をはげみ候べし」とおおせになのでしょう。「創価学会もいいけれど、折伏がなければいいのだがなあ」それは私だってそう思います。(笑い)皆さん方も、なにもさせないで功徳を受けられるようにしてあげたいのです。
 それをいってしまったら、私の我見ですから、謗法になってしまいます。
 われわれが月に五万円、または七万円の給料をもらう。室蘭が賃金ベース幾らか、それは知りませんけれども、それだけの功徳を受けるために、朝早く弁当を持って混んだ電車に乗ったり、寒い道や暑い道を歩いて勤めに行く、これも一つの修行です。その報いとして月給をもらえるわけです。なにも働かないで、月給だけ五万円、七万円よこせと、こういうわけにはいきません。ぜんぶ仏法は道理す。その道理に反した教え、これを邪教邪義というのです。
 したがって、あらゆる点から大御本尊様に願いきる、それが究極の道理になっているわけであります。したがって「行躰信心」われわれの実践が即信心であります。題目をあげる、そしてまた、おのおのの立場で勉強し、指導し、また折伏に行く、それ自身が信心であります。その根本は何かといば題目です。私も力弱い未熟な会長でありますけれども、せめても皆さん方を少しでも守りきる会長になりたい、御本尊様のおおせどおり、また恩師の遺命を達成できるように、なんとかがんばりたい。その源泉はなにか、それは題目以外にないのです。これは私も大確信をもって題目を唱えております。
 したがって、いっさいの源泉、生活の源泉、闘争の源泉、福運の源泉、そしてまた教学の源泉、指導の源泉、ぜんぶが題目にあるということあ,もう一回確認して、わたしとともに、この一年間、まず区切りをつけて、題目をあげてあげて、あげぬいていこうではあたませんか。(拍手)
 そうすれば顔色も変わってきます。きちんと魔も打ち破っていけます。生活も向上してきます。心境も開いてきます。また、宿命も転換され、また、あらゆる苦しい立ち場にあても変毒為薬されることはとうぜんです。これが「諸法実相」です。
 いくら「自分は題目を唱えている、自分は一生懸命やっている」といっても、それはやっているか、やっていないかは、きちんと御本尊様が見ているのです。心ある人が見ればわかるし、自分自身の心の奥底で私はきちんとわかっていると思いますが、どうですか。(拍手)自分がいちばんよく知っています。
 信心は日蓮正宗のためでもありませ。創価学会のためでもなく、しょせんは自分自身のためであります。自分自身のためであるならば、どんな活動をしようが、どんな実践をしようがぜんぶ自分にかえるのですから、生き生きとしていけるのです。
 それが、なんとなく根性曲がりは「そんなに夜おそくなるのはイヤだ」とかいって、結局、学会のためみたいに、日蓮正宗のためみたいに、向こうに責任を押しつけて、いいときだけは自分のもの、悪くなると学会の責任、まったく人間というのは根性曲りが多くて、そういう人は室蘭にはいるわけがないけれど、(笑い)それで自分の功徳を消すのです。一念三千の理法です。よいほうも、悪いほうも、一念三千の理法です。一念の一心の妙用になるのです。
3  どうか、そういうわけで、自分自身のためであると自覚し、事実またそうなるのでありますから、しっかりがんばっていただきたい。それで「信仰をする人は弱い人がするのだ」と、こういうふうにいう人がいるらしいのです。
 大聖人様の仏法を実践する、広宣流布のいくさを、戦っていくのに、勇気のない人間だ、だれが信心できますか。邪宗教はいざしらず、邪宗教はアヘンのようなものであり、弱い人間が皆困ったときの神だのみで、行くとも考えられます。そういうあさはかな人間は行きますけれども、大聖人の仏法だけはそうではありません。あらゆる悪口罵詈、批判、三障四魔と打ち向かっていかなければならない信心です。
 三十五年間もそうでありました。皆さん方の身辺も私はそうであったと思います。
 また、いま、現在も戦っている人がいると思います。ほんとうに一生成仏、日本の国を救済できる大哲学であり、そしてまた、大理念がある日蓮正宗創価学会だけは、最高に勇気ある人でなければ信心できないと私はいいたいのであります。(拍手)
 闘争後に御本尊様をいただいても、勇気のない人間、臆病な人間は退転しております。勇気ある人は、そしてまた信念ある人は、かならずや成仏しているし、厳然たる幸福の生活を示しております。その人を反対した人々は皆さん方、罰の現証を示しております。
 また世間の人で無知な人は「宗教は非科学的である」こういうふうにいう。これは、とうぜん、私たちも、与えていうならば、いいきれます。“死んで天国へ行く”または“西方十万億土”または“水を飲めば病気がなおる”“教祖にさわれば軌跡が起こる”皆、非科学的であります。矛盾があります。哲学がしりません。したがって非科学的であります。道理に合っておりません。それを私どもは、また日蓮大聖人様は、そういう宗教を邪宗邪義というのだとお教えくださり、われわれもそういう宗教を邪宗であると断言して戦っているわけでしょう。(拍手)
 真実の宗教は道理です。科学です。下界においては自然科学、一般科学になりますが、今度は因果の理法、この生命の問題になった場合には、生命哲学になります。したがって、科学に反する宗教は、これは真実の宗教ではありません。あくまでも科学的であり、因果の理法を説くのが、日蓮正宗の仏法であります。末法今時において日蓮正宗以外にありません。
 したがって、大聖人様の仏法は、私どものこの信仰は、あくまでも科学的であります。だから一千万の人が実験証明し、御本尊様を放すわけにはいかないのです。
 信心する人は生活のうえに厳然と証拠が出ます。反対するものは生活のうえに損の現証が出るのです。
 皆さん方も、何年信心なさったか知りませんし、また信心の強弱は知りませんけれども、信心して厳然と生活のうえに功徳が出たと立証できる人は手を上げてください。(ハイ)これが証拠です。これは科学です。その裏づけに、なぜそうなるかという大哲理があります。
 かの新興宗教などに「気合いを入れればなおる」などというが、では、どうしてそういうふうになるかという哲学があるか。あるわけはありません。そんなものは、そのときの調子です。宗教のことをとやかくいうけれども、じっさいは宗教のことを知らない人が、われわれを批判しているにすぎないのです。永遠不滅の大哲理、これは絶対に日蓮正宗の大仏法しかありえないということを、しっかり確信して、仏法のこと、宗教のことであったならば、私どもが教える以外には絶対にないのであるという信念をもって前進していこうではありませんか。(拍手)
4  最後に、御書にのこの御本尊をたもつならば「年は・わかうなり福はかさなり候べし」と、御本尊様に題目をあげるならば、生命が若返っていくとのおおせです。また戸田先生は「一生涯、青年のような情熱をもっていく人が人間として偉い人である」また「青年期に自覚したことを一生涯やりきっていく人が偉いひとである」と、このようにも申されました。また「希望をもちつづけて自分も前進し、人をも前進させる人が偉い人である」こういう意味のことも巻頭言で申されておりました。
 題目をしっかりあげて、皆さん方が長生きをして「こんなにも人生が楽しいか!」「こんなにも信心は楽しいものか!」と、こういうおひとりおひとりになっていただきたいのであります。いつも、四十歳ぐらいで八十歳ぐらいの顔つきになってしまったり、または、まだ三十代の奥さん方が八十ぐらいの鬼ばばあみたいな顔になったりではこまります。(笑い)そういうことにはならないで、一家和楽、そして生命力に満ちみち、若さに満ちみち、そしてまた、家のなかが和気あいあいとしていけるようにならなければ、まことの信心即生活とはいえないのであります。
 そして願わくは、五年、七年、十年、信心をまっとうして、大功徳を受けて、その証拠として室蘭または北海道だけでウロウロしないで、日本国じゅうをどんどん指導にも回っていただきたいし、また金婚式や銀婚式のときには「ちょっとそれではアメリカまで行ってこうよじゃないか」と、または「タイまでおまえ、ちょっと行こうじゃないか」と、こういうふうになっていただきたいのです。
 また、来年は北海道本部ができる予定になっておりますが、北海道本部の落成式がある、または体育大会かなにかの会合がある、大会があります。そこで「やあ、おまえ、ちょっとドライブかたがた車で行こうじゃないか」というふうに、皆さん方、一軒一軒、ぜんぶ自家用車ぐらいはあるというふうになっていただきたいのであります。(拍手)
5  この人生は、アッというまに終わってしまう人生ともいえます。この人生を御本尊様に照らされて、強い強い確信をもって有意義に、また自分自身がこの一生を終わるときには「これでよし。ほんとうに自分は間違いのない人生を生きた。残った家族にも、そしてまた、子孫末代にも大功徳を回向しきれる。それを確信できた」と、こういうふうにいいきれる一生を生き、そして一生をとりたいと私は念願しているのですけれども、どうでしょうか。(拍手)
 それは総理大臣であろうが、または大臣級であろうが、財閥であろうが、どこかの社長さんであろうが、この大仏法はわからないのです。この私どもの心境はわからないのです。どんなに有名人であっても、死ぬということの解決はできないのです。結局は、もっとも大事な生死の問題を自分も解決でき、人をも解決させきっていける、そういうわれわれは大指導者であるという確信をもって進んでいこうではありませか。(拍手)
 皆さん方のいよいよの団結を期待し、そしてまた仲良く忍耐強く前進されんことを望みまして失礼いたしますが、どうか、からだを大事にし、折伏はたいしてできなくてもかまいませんから、こぢんまりした室蘭の鉄のような支部になっていただきたいことを切望して、また、皆さん方のご健闘等をお祈り申し上げて、私のあいさつ、また激励とさせていただきます。

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