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日蓮大聖人・池田大作

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「関目抄」の精神継ごう 東北第二・第三本部結成大会

1963.10.4 「会長講演集」第10巻

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1  たいへんに、本日はおめでとうございました。また、しばらくぶりでもございました。本来ならば、皆さん方の会長として、たびたび激励にこなければならない立ち場でございますが、なにやかにやで、なかなかこられませんので、私としては一生懸命、大御本尊様に、皆さん方が「どうか一生涯、大御本尊様を放さずに、無事故で幸福になりきっていただきたい」と、このことだけは会長としてつねに念願しておりますから、これで許していただきたいと思うのであります。(拍手)
 さきほどから、隣の北条副理事長や辻先生と話をしたりして、ずいぶん行儀の悪い会長であると思われることは、よく私も知っております。(拍手)なぜそのような態度をとるかというと、それは汽車から降りましたとき、辻先生から即座に「きょうは、もう七時半から見えておりました。十時ごろにはみんな結集して、喜んで待っております」ということを聞きまして、この暑いのに、長時間のあいだ待たせて、また何人も何人も同じような話をしてばかりいて、あまりにもそれでは気の毒です。早く理事級の話をして、そして皆さん方と私がお会いして、元気いっぱいの姿で、あとは「南無妙法蓮華経」をしっかり唱えようと、これで私はすむと思ったのです。(拍手)それで私は、司会者にいろいろいったわけでございますら、ご了承願います。(拍手)私は皆さん方の味方なのです。
2  私は形式が大きらいなのです。
 あくまでも信心根本に、実質主義で創価学会はいくべきであると、この決意であります。だからといって、統一がなくなってしまったら烏合の衆になって、事故ばかり起こします。その意味の統一は、団結は、必要であります。
 私のことについて、さきほどから、同志の方々が「世界の大指導者」といわれるのですが、もう恥ずかしくて恥ずかしくてどうしようもないのです。(笑い)そういうことをいわれても、私はけっして、いい気になってはおりません。私は第一にも第二にも、王仏冥合の実現の指導者として、せめて大御本尊様の大功徳を知らしめ、地涌の菩薩である全学会員の同志の人々のことだけでも、しっかりと指導し、ぜんぶ幸福にしきっていければ、それでよろしいのだという考えでおりますけれども、これでいいでしょう。(拍手)あとは、世界の大指導者は参議院の公明会の先生方や、その他、これからどんどん青年部が成長して、たくさんできると思います。
 また「ご指導」であるとか「会長先生」それから「おことばをいただいた」とか、私は天皇陛下ではありません。(笑い)私は漁師のむすこであり、ノリ屋のむすこです。
 もっとも、日蓮大聖人様の仏法を根幹とした創価学会は、民主主義の根底をそのまま実践しきっている、世界最高の団体であり、教団であります。
 そしてまた、あくまでも大衆と親近感をもち、直結をして、大御本尊様のもとにぜんぶ横に並んで、平等なのです。会長であろうが、会員であろうが、支部長であろうが、ぜんぶ「若し其の教典(御本尊)を受持せん者を見ては、当に起こって遠く仰うべきこと、当に仏を敬うが如くすべし」(法華経観発品)という姿で、尊敬しきっていくべきです。
 会長だから「おことば」だ。支部長だから「ことば」だ。(拍手)そんなことは絶対にありません。第一にも第二にも、日蓮大聖人様の御金言どおりにいいきっていくこと、実践しきっていくこと、それが創価学会の指導であり、主義であるこということを知っていただきたいのであります。(拍手)
3  このたび東北のほうも三本部に拡大されまして、創価学会の前進はジェット機のような速さでございます。よく辻先生も「まったく一週間が二か月、三か月、半年間ぐらいにつうずる。一週間も、ちょっと地方へ行って帰ってくると、もうずいぶん変わってしまう」というようなことをいっておりましたが、第一本部長に辻本部長、そして第二が牛田本部長、第三が宮崎本部長と、三人の方々がこちらの中心になっております。皆、私の大先輩であります。
 私が戸田先生ご在世中に、参謀室長であった当時、辻先生は青年部長でありました。そしてそのあと牛田先生が青年部長であられて、また宮崎さんも、どちらかといえば支部のほうの先輩で、私は青年部のような立ち場でありましたゆえに、私はひじょうに三人の方々を尊敬しております。したがって、三人の本部長さん方は絶対に間違いのない大指導者であるということを、私が確信をもって申し上げますから、そのつもりでついていっていただきたいのであります。(拍手)
 それで、さきほども、駅に着きましたら、やっぱりそうとう学会の方々がきたものですから、この時間に会長がくるらしいと、何人か待っていたらしいのです。信心していない方もいたような気がしますが、私は切符を出してどんどん行くのです。
 どうしてもあとにりっぱな会長がくるように考えているのです。これはいつでもそうなのですけれども。(笑い)それで私がずっと行っても、まだそのまま駅のほうを見ているのです。(笑い)これは、この三年半、会長就任以来、各所に見た現象でございます。(笑い)
4  たまたま、東北のほうへきますと、辻先生や牛田先生といっしょになりまして、どうしても「あっちが会長らしい」などどいって、(笑い)本部長のほうばかり見ているのです。(笑い)せめて私を知っている皆さん方が、私を応援してください。
 またこのあいだ北海道の体育大会がありまして、旅館に泊まりました。その旅館の隣へ、ちょっと買い物があって夜おそく行ったのです。すると、その家にいた二、三人の店の人たちが「やあ、きょうはあなた、隣の旅館に大物がきたのだよ」(笑い)「大物ってなんですか」といったら「いやいや、それが創価学会の会長がきたのだよ」と、(笑い)だんだん私は心臓マヒを起こしそうになりました。(笑い)それで、その店の人たち二、三人で「いっぺんでもいいから学会の会長を拝見したいものだ」と。(笑い)私のことを「あなたは、きょう隣の旅館にきたらしいけども、わからなかったか」というのです。そういうわけで、私は赤面しました。そこで、安い物を二、三千円買っているうちにまた「きみ、どこからきたのですか」ときくので、「わたくし東京です」と、「そうですか、どこへ勤めているのですか」「会社の職員なのですよ」と。「よく職員が暇があって、遊びにこられましたね」「それは年いっぺんぐらいは泊めてくださいよ」と。(笑い)そういうわけでありまして、どこへ行っても、私などは会長なんかに見てくれません。(笑い)
 ですから、そばにいる人や理事の人たちがしっかりがんばってくれておりますし、また皆さん方にがんばっていただいて、ひとりももれなく、大聖人様の弟子として、また民衆の先駆者として、幸福と平和を築き、自分は物心ともにこれほどの幸福者になった。現実の生活のうえに、証拠のうえに、われこそ日本一の幸福者であるといいきれる、ひとりひとりになりきっていこうではありませんか。(拍手)
 これが信心の目的であります。したがって、信心とはなにか。御書にも次のように表現されております。たとえをひかれまて、きれいな女の方が、かならず見目形をきれいにしようと思ってコンパクトを使う、お化粧をします。またはなんとなくおなかが痛くなった場合には、すぐに薬を呑みます。のどがかわいた場合には、すぐに水を飲むというように、一念をもって御本尊様に題目を唱えきっていくことです。これが信心です。かんたんといえばかんたんですが、またそれがなかなかできない場合があります。「紙を拝んでどうの」とか「学会にだまされているのだろう」とか、または「あの人がおこったから、くやしいからやめてしまおう」とか、そんなものではなくして、三世十方の仏も、この三大秘法の御本尊によって仏になったのです。また釈迦、多宝、そしてまた天台、伝教等、いっさいの仏さまも、ぜんぶ南無妙法蓮華経によって仏になったのであります。
 私どもはいまの世の中ではなにも信ずることができません。だが大御本尊様だけは、日蓮大聖人様が「日蓮の生命を一幅の曼陀羅としておいた。絶対に成仏できる。
 宿命転換ができる。拝みなさい」(経王殿御返事1124㌻)と仏さまが残された御本尊様であります。仏さまの御金言にウソはありません。総理大臣や評論家や、いまのインテリや、そんな連中のことばなど信ずることはなにもできませんけれども、日蓮大聖人様のいうことを、私どもはすなおに信じ、実践することは、最高の有意義な人生の歩み方であると私は思いますけれども、どうでしょうか。(拍手)
5  どうしても、われわれは疑いっぽい。根性曲がりです。ここにはいないかもしれませんけれども、ずいぶん批判したり「そんなこといったって」と思う人もいるかもしれませんが、日蓮大聖人様のおおせは間違いありません。けれども疑う人があるならば、だまされたという気持ちで、大聖人様にだまされれば、べつにどういうことはないでしょう。御本尊様にだまされた、大聖人様にだまされた。だが、せめてきょうから一年間だけでもいいです。いわれたとおりに実践しきってみたらどうかと思うのであります。(拍手)
 また、そういう悪い根性でない人もたくさんいると思いますけれども、きょうから一年間、私もその決意でいきますが、もう一段と、発心して、信心強盛になって、来年の十月を目標にして、どれだけ自分が成長できるか、どれだけ自分が宿命転換できるか、どれだけ境涯を開くことができた。それは信心は一生でありますが、その一歩として、きょうから一年間、ともどもにがんばりきってみようではありませんか。(拍手)
 一年間の成長によって大功徳を受け、大幹部になった人もたくさんおります。反対に九仭の功を一簣に虧いて、たった一年間の信心の堕落でこじきのような生活をして、いま悔んでいる人も何人か見ております。一年間という土台は、ひじょうに大事であると思います。
 また、もうすでに話はあったとは思いますが、新潟と聞けば、なんといっても日蓮大聖人様のご苦難を思い出します。上行菩薩出現の予言書・法華経観持品における「数数見擯出」について「数数とは度度なり」とおおせであります。その当時、大聖人様は伊東、そして佐渡の流難と、二回のご流難がございました。その佐渡ご流難のときの御書はたくさんございます。観心本尊抄、開目抄、諸法実相抄等、大事な大事な御書をおしたためでございました。
 そのなかに開目抄があります。これは大聖人様が末法の御本仏であるというご宣言書と拝する御書でございます。その御書のなかに、有名な「智者に我義やぶられずば用いじとなり……乃至ちかいし願やぶるべからず」とあります。「智者に我義」――大聖人様の義とは、すなわち色心不二の大哲理です。永遠の生命の本源をあかした、生命の本体をあかした、幸福になりきれる源泉、原理を明かした大哲理であります。マルクスの哲学であるとか、キリストの哲学であるとか、実存哲学であるとか、いわんや過去のソクラテスやアリストテレスや、そういう低い低い哲学ではありません。
 この日蓮大聖人様の哲学の究極である三大秘法の御本尊をやぶられるということが、それ以上の力のある思想、哲学が出るということが、大聖人様にとって大難であります。したがって「智者に我義やぶられずば用いじとなり、其の外の大難・風の前の塵なるべし」佐渡へ流されたとか、または伊東へ流されたとか、悪口罵詈されたとか、そんなことは大難のなかにはいらない、風の前の塵のようなものであります。そして最後に「ちかいし願やぶるべからず」大聖人様のこの大生命哲学、即三大秘法の御本尊は、永久にやぶることはできないのだと、ご決定あそばされているのであります。(拍手)
6  したがって、末法の衆生を、全人類を平和にさせてあげたい、ひとりももれなく幸福にさせてあげたいという大聖人様の大慈悲に、この三大秘法の御本尊を残すために、この大難をしのんであげているのです。これが大聖人様のご精神であると拝します。
 いま大聖人様の、その大精神をそのまままっすぐに受け継ぎ、まっすぐに実践しきっているのは、日蓮正宗創価学会しか断じてないと私はいいきっておきます。(拍手)たくさんの、南無妙法蓮華経を唱える教団もあり、唱える人もあり、新興宗教もあります。しかし彼らは法盗人であります。大聖人様の法を盗んで金をもうけ、大聖人様に弓を引き、そしてまた人々を悪道に落としてきております。
 私どもは、あくまでも日蓮大聖人様の正統なのであります。私どもが立ち上がらなかったならば、大聖人様の仏法は濁ってしまいます。まっすぐにひろがっていかてい。すなわち広宣流布はできないとの、強い強い自覚と誇りと勇気をもって実践し、そして大聖人様が、親が、師匠が、主人が、仕えている私ども弟子を、子供を守ってくださらないわけは断じてないという強い強い信念で進んでいこうではありませんか。(拍手)
 どうか、第一本部、そして第三本部まで含めて、きょうは集合になったと思いますけれども総じて、東北の皆さん方のいよいよ信心強盛なる前進と、ご健闘とご健康を心から祈りまして、私の激励といたします。ご苦労さまでした。(拍手)

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