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十年、二十年が目標 夏季講習会婦人部指導会

1963.8.8 「会長講演集」第10巻

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1  私たちはなま身でもありますし、一国が謗法なのですから、病気になるときもあるし、商売も少しぐらい左前になるときもあるでしょうし、いろいろなことがあります。だからこそ強い信心が必要なのです。
 人々から批判された、やれ悪口をいわれた。そんなことで、縁に紛動されてどうする。批判した人たちが、また新聞や雑誌が救ってくれるかというのです。くれないでしょ?(ハイ)
 自分以外にないのです。御本尊様だけは絶対に信じなさい。信心とは何か、疑わざるを信というのです。どんなことがあっても疑わないことです。
 つまらないよけいな苦労や、それから悩み苦しんだからといっても解決できないでしょう。ただ南無妙法蓮華経と唱える以外にないのです。南無妙法蓮華経と唱えて唱えきっていけば、きちんと結果は出てくるのです。
 しかし、一年、二年の尺度で決めないで、一生成仏、一生で決めていけばいいのです。そのように覚悟を決めてしまえば、あとはたんたんたるものです。
 目先のことで、すぐふらふらしてみても、しようがありません。
2  それで、このあいだも話をしたのですけれども、私どもの行動、すなわち御本尊様を根本として活躍しているいっさいの行動に、ムダがあるわけはないのです。また、いっさいの行動がぜんぶ自分のためになっていることを確信しなくてはいけません。
 会合だ、家に子供を置いていくのはかわいそうだ。それはかわいそうかもしれない。しかし、子供のために、永遠の福運をつかむために、自分自身の宿命転換のためにも、行かなければ信心にならないではないですか。
 家にいたからしあわせか? けっして子供はそれで、喜んでりっぱな人間になるとはかぎりません。いたために家が火事になって、親とともに死ぬかもしれないではないですか。今度、柏原先生が、婦人部の会合で話すようになっていますが、一般学者の統計からみましても、いつもいつも家にいて、勉強しろ勉強しろというのは、いちばんいけないそうです。
 おかあさんが社会に出て働いて、それで帰ってきます。すると子供は尊敬するというのです。
 それからお山へくればお金がかかります。二千円なり、五千円かかるのがいやだというのです。ところが家にいて、コソ泥にあって、ぜんぶ持っていかれる場合だってあるでしょ。強盗にあってぜんぶ持っていかれる場合だってあるでしょ。このように、考えてみればきりがありません。
 ですから、どんな行動であっても、みんな自分のためになっているのです。御本尊様は、私ども不幸な民衆を、しあわせにならない行動をさせるわけがないでしょう。させるようだったら仏さまではないでしょう。皆さん方の一念の問題なのです。
 だからといって、家をいつもあけなさいという意味ではありません。頭を使って、一家和楽になるようにしてください。子供のため子供のためといっても、子供がよくなる方法が大事です。
 御本尊様のお使いをしている子供が悪くなるのだったらたいへんです。その証拠として、理事室の、大幹部の家族を見てもらいたいのです。みんな子供はりっぱです。ですから、私は、大幹部の子供はもう高等学校の一年や中学一年や、大学へいっている子がいるのですから、きちんと次の大幹部となっていくとみています。親の信心によってうける与同利益です。ぐちをこぼさないでがんばりましょう。だから歌にもあるでしょ。王将に「ぐちもいわずに女房の小春」と。(笑い)
 あれは大正時代の歌で、いちばん貧乏のときの歌です。それであっても、自分の主人が出世するまではぐちなんかこぼさない。
 いわんや私どもは、御本尊様をたもっているのではないですか。主人が弱気になっても「なにをあなたいうのですか。いまこそ大事ではありませんか」と、これだけいいきれる賢夫人にならなければいけないと思います。
 そうすれば、子供はよくなります。子供を不良にするのも、みんな親にその因があるのです。ぐちゃぐちゃ、ぐちゃぐちゃ、まるで、子供のどれいみたいになっている場合があるのです。むしろ逆に親を尊敬しなくなってしまいます。
 それは、やはり人間の世界ですから、夫婦げんかもあるでしょう。夫婦げんかみたいのや、子供がなにやかや、さからうということも、少しはあるかもしれないが、そういうことに、あまり神経質になってしまって、私の信心はどうかとか、もう御本尊様を拝んでも功徳がないのかとか、くよくよ考えてはいけません。現当二世です。いまと未来がよくならなくてはいけないのです。
 いまは、いろいろな罰の現証があっても「ぜんぶ変毒為薬をするのだ」と、この決心だけあればいいのです。
 同じ御本尊様を拝み、唱えていくのも同じ題目です。幹部の家をよくごらんなさい。和気あいあいとしているではないですか。皆さん方もなれないわけはないのです。
3  それから十年信心をした人は、今度は、二十年目を区切りとして、きょうからがんばりなさい。それから、まだ十年以下の人は、信心してから十年目を、ひとつの区切りとして、まっすぐにがんばってごらんなさい。
 まえに、青年部員もまだ九人しかいないときに、戸田先生に大難があったのです。会社の社員がみんないなくなり、学会員がずいぶん叛逆していきました。しかし、私は、そのときに歯を食いしばってがんばったわけです。私のいまの福運は、その功徳です。
 また、参議院議員になっている人たちも、学会再建当時、批判されたり、バ倒されたりしながら、歯を食いしばって、ただついてきただけでしょう。それが、今日の大福運です。
 だから、刹那刹那に大福運を積むか、または、おろそかにして、功徳を消してしまうかというときですから、まず、第一段階として十年間、十年間過ぎた人は二十年目を目標にして、学会の指導どおりにやってごらんなさい。
 それで良くならなかったらおかしい。よくならないわけがありません。いままで私が見ているなかでは、最高幹部や理事室や大幹部や、そしてまた友だちのなかでも、ほんとうにひとりも漏らすことなく、よくなっています。柏原先生だって、二十六回も家を追い出され追い出されしているのです。ところがいまでは、日本的な名土ではありませんか。もう、福運がついてしまって、タコがあがったみたいです。なにをやってもいいのです、困らないのです。
 まずいときには、なにをやったって下へいってしまうのです。これを地獄というのです。なにをやってもよくなるのを仏というのです。そういう福運を積むことが信心の目的なのです。

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