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日蓮大聖人・池田大作

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悔いない強信貫け 宮崎総支部幹部会

1963.6.23 「会長講演集」第9巻

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1  たいへんにしばらくでございました。お元気ですか。
 また、四月の選挙の闘争においては、りっぱに大勝利を得ましてご苦労さまでございました。
 いままでさまざまな指導がありまして、最後になると、話をすることがなくなってしまうのですけれども、このままさがると退転と思われてしまいますから、少しのあいだ暑いけれどがまんしてください。
 私どもが自分の顔を見るときには、どうしても鏡を必要といたします。同じように、大御本尊様、そしてまた日蓮大聖人様の仏法は、因果の理法を明確にわからせてくださる鏡であります。基準であります。一国においては憲法や法律は、基準であり鏡であると考えてもさしつかえないでしょう。
 すべて因果の理法です。したがって、私どもが信心をしきって、大宇宙の根本法則である大御本尊様を受持して実践していく、そこに結果が現われないわけはありません。
 ともに、私どもを誹謗し、大御本尊様を誹謗をする人が、その誹謗した結果が現われないわけもないわけです。また、大御本尊様を根本にした和合僧に、きちっとリズム正しく行動をとってきた、今度は離れていく、その結果も現われないわけはないのです。
 私は十年、十五年、学会の世界で、さまざまな人々を見てまいりました。私の友だちのなかでも何人か、あるときは創価学会の誹謗記事が出たために「もう学会は、そうとう批判ばかりされて、発展もしそうもないから、やめてしまおう」と、このように去って行った人も知っております。
 また、原島先生、柏原先生等が一度選挙に負けたことがありました。あのときも何人かの人が「なあんだ、信心していたって選挙も負けるではないか」と小バカにして去って行った人もおりました。
 そういう理由はさまざまでありましたが、しかし、十年、十五年、十六年の、この創価学会の歴史、闘争の経過のうえからみて、たったこれだけの期間でありますけれども、去って行った人のみじめさ、また、去って行って苦しみ、ふたたびあやまって「どうかひとつ、もう一回、いっしょに信心させてください」といってくる人の多いことか。
 私は、このきびしい大御本尊様を根本とした因果の理法をみるにつけ、私自身もとうぜんでありますが、皆さん方自身のために、ただただ、日蓮大聖人様はウソをつかない、大御本尊様だけは絶対であるということを確信して、一生涯、仏道修行に、一生成仏をめざしきって、有意義なる人生を私とともに進んでいただきたいのであります。
2  日蓮大聖人様は「日本国・一時に信ずる事あるべし」と申されておりますが「一時に」ということは広宣流布という意味なのです。釈迦の、天台の、そしてまた伝教大師の、もったいなくも末法の御本仏・日蓮大聖人様の予言ははずれたためしがないのです。
 予言がはずれてしまうのであったならば仏さまではないのです。それは「ホットケ」です。釈迦、天台、伝教、ぜんぶ仏の予言は、予言どおりに達成されております。
 いま、日蓮大聖人様の王仏冥合の予言、広宣流布の予言、この予言は、かならず達成されるとの御文なのであります。その御文の次に、そういう時になって「爾時我も本より信じたり信じたりと申す人こそおほくをはせずらんめとおぼえ候」と。「私も初めから信心していたのだよ」「私だって何十年間信心して戦ってきたんです」というふうに自慢げにいう人が多く出てくるというのです。その意味は「しょせんは、後悔するのではありませんよ」という意味なのです。
 たった十年か十五年の歴史をみても、ずいぶん後悔をしている人がいると思うのです。「ああ、もう少しやっておけば……」と思った人が、このなかにも私はきっと……あとはいわないでおきましょう。いると想像つくのです、想像です。価値「創造」ではありません。そういうような人はかならずいるのです。
 いわんや、これから十年、二十年、三十年先、また一生涯の、永久の創価学会の闘争を考えたときに、日蓮大聖人様の予言が実現できないわけはありません。そのときに、おのおのが後悔しないように、まことに自分も功徳を受けきったといえるように、名実ともに信心しきっていただきたいのです、それはあくまでも、おのおの個性が違うように「随力演説」です。おのおのの力、おのおのの境涯で、しっかり水のごとき信心をしていけば、それでいいのです。
 ぜんぶ会長と同じようにしていかなければならない、それ石田先生と同じようにしなくてはならない、やれ星野先生と同じようにしなくてはならない、柏原先生と同じようにしなくてはならないというわけにも、それはいかないでしょう。おのおのの性格もありますし、立ち場もあります。
 しかし、信心それ自体は同じでなくてはならないわけです。なぜかならば、日蓮大聖人様の信心に二種類、三種類はないのです。日蓮大聖人様は「大御本尊様を信心しなさい。功徳を受けるも受けられないのも信心の厚薄だよ」とこうおおせです。
 したがって、信心それ自体は強盛なる信心をして「自分は後悔しない。なにも悔いがない。その証拠として、これだけ物心ともにしあわせになったではないか」と内外にいいきれるおひとりになっていただきたいことを、心から私はお祈り申し上げるしだいなのであります。
3  これほど創価学会が発展し、とうぜん「地涌の義」と申して、広宣流布のために、いかなる批判があろうとも、悪口罵詈があろうとも、弾圧があろうとも、どんどんどんどん、地涌の義によって、草木がグングン伸びるがごとく、地涌の菩薩が日本国じゅうに、世界じゅうにふえてくることは、どうしようもない自然の法則のようなものなのです。これは止めようがないのです。
 こちらのほうの総支部はどうも成果が上がらないとか、こちらのほうはどうもたいへんだとかいいますけれども、日本全体の支部からみると、ぜんぶ、きちんと月に三万世帯、五万世帯、十万世帯とでき上がっているでしょう。不思議ではありませんか。ある人いわく「まるで魔法使いみたいだね、学会は」などといっております。
 かんたんにふえるようでありますけれども、じっさいはたいへんであります。謗法払いしいじめられ、批判され、バカにされ、そして貧乏のなかに、忙しいなかを戦っているわけです。それであって、ぐんぐん、ぐんぐん大発展をしているこの現状であります。
 それだけ日蓮大聖人様のお使いとして戦っている私どもに、日蓮大聖人様が大功徳をお与えくださらないわけは絶対にないという確信ある信心でいこうではありませんか。
 大御本尊様に力がなければ、これだけ弾圧されれば学会が進めるわけがないでしょう。かんたんにふえたと思っているのです。結果はかんたんのようであります。
 法力・仏力のお力のゆえんによって、どうしても日蓮大聖人様の仏法によって、日本の国はとうぜんのこと、全世界が救われなければならない流転なのです。そういう舞台なのです。
 ちょうど、暑くなれば、扇子がたくさん売れ、アイスクリームがたくさん売れ、開きんシャツがたくさん売れる、また必要であります。それは商売の話になりますけれども、すでに唯心主義でも唯物主義でも行き詰まりで、あとは色心不二の大哲理、即大御本尊様によってしあわせになる以外に道はないということを、本能的に、本源的に全民衆、全人類は感じているのです。それを大聖人様はきちんと予言し、見通していらっしゃるのです。
 そういうリズムに合った時でありますから、絶対に折伏もできますし、広宣流布もできるという信念をもって進んでいこうではありませんか。
 このような、まじめな、正しいそしてまた仲のいい学会に対して、世の評論家や指導者は、やきもちのあまり、無認識のあまり、陰険にして、そしてまた、あまりにも自分の無能さをかくそうと思って、世間に向かって、学会の批判、悪口をしております。戸田先生も「三類の強敵で、もっとも強いのは僣聖増上慢、その僣聖増上慢ということは、現代ではとうぜん国家権力であるけれども、もう一つは評論家である」とこのように十年前、十五年前にも、いっていらっしゃいました、論破されていました。
 とうぜん、僣聖増上慢である評論家等が騒いでいるわけですから、三類の強敵ぜんぶ現われてしまったのです。皆さん方はビクともしないでしょう。三類の強敵が現われれば広宣流布はできると日蓮大聖人様はおおせなのですから、もう広宣流布は間近にやってきているのです。僣聖増上慢などは問題でないという気持ちで進んでいこうではありませんか。
4  その評論家たちは、学会を批判する一つの理由として「学会はファッショである」とこういうのです。なにを根拠にしてファッショというのか、本人がファッショという定義を知っているのかと私はいいたいのです。
 辞典を見ても、百科事典でもなんでも、よく見てから対照して学会のことを批判すればいいのです。事実を事実として見きわめ、そして批判するなり論ずるのが評論家の使命です。
 皆さん、創価学会は「悲惨」という二字をこの地球上からまっ殺しよう、絶対に戦争させてはいけない、そしてまた、生命は尊厳なものである、ぜんぶ仏なのである、もっとも大事なのであるというのが根底の思想でしょう。このようなファッショがありますか。
 すぐヒトラーなどを引き合いに出すが、ヒトラーになんの思想があったか。御本尊様を持っていたか、日蓮正宗を信心していたかというのです。根本的に違います。あまりにも学会が整然としているものですから「ファッショ」だという。皆さん、整然としているのがとうぜん、どんな世界でも、もっとも正しいありかたではありませんか。
 どうですか、鳥合の衆ではしようがないでしょう。乱闘ばかりではしようがないでしょう。そういうことは乱闘国会でたくさんです。一家だって整然として一家和楽で楽しければ、いちばんいいのでしょう。一家のなかが不整然で、けんかばかりで悪口ばかりいったり、そしてみだらになったならば、一家はしあわせではないでしょう。
 一つの社会が整然として尊敬しあうということは、団結するということは、私は
 最高の理想であり、模範ではないかと思うのですけれども、どうでしょうか、皆さ
 ん。 ことしの登山会にしても約二百万人です。おばさんもおじいさんもお子さんもおります。この二百万人の人を、整然と事故のないようにすることはとうぜんでしょう。
 また、こういう会合がたくさんあります。一万人、二万人、多い場合は十万人の会合です。そういう会合だって、きちっと整然とすることはとうぜんでしょう。そうでなければしまりがつかないではないですか。
 このあいだ、フランスのテレビ会社がきまして、フランスのほうで、今度は創価学会のことを出すことになりまして、どうしてもというわけで一時間ほど会いました。そのときにいろいろ話をしましたところ「ほんとうに会合へ行ってみたりお山へ行ってみたり、皆さん方と話してみたら、世間でいわれている批判などとはんぜん違いますね」と「ファッショどころの騒ぎではありませんね」「これだけ多いのだから、なんとか整然としていかなくてはいけないことはあたりまえですね」と、こういう意味のことをいって賛嘆していきました。外国人のほうがよほど正しくみています。科学的です。
5  戦争中も、ちょうど品川とか宮崎とか、やれ福岡とか博多とかいえば、ローマ字はぜんぶとられたのです。なにもローマ字をつけたからといって、どうということはないと思いますが、同じように、学会の組織に部隊長とか隊長という名前をつけた、だから「ファッショだ、軍隊式だ」と、そんな考えで日本の指導者がみるのであったら、あまりにも皮相的です。それは本質論を見きわめていない誤った指導者であり、評論家です。
 学会に、組織があることはとうぜんでしょう。どんな社会だって組織があります。もっとも大事な組織は人間です。皆さん方自身、私自身が組織の調和体です。この組織がくずれたとき、不調和になったときに気違いであり、ノイローゼであり病気ではないですか。
 会社であろうが、官庁であろうが、役場であろうが、労働組合であろうが、政党であろうが、ぜんぶ組織があるでしょう。あまりにも学会の組織がりっぱであり、整然としているがゆえに、文句のつけようがなくてやきもちをやいているのです。
 その組織ということも、組織論の本質である第一義の目的は、あくまでも目的、使命達成のために、もっとも効果的に価値的にするための組織なのです。仏法のうえでは「和合僧」というように、きちっと「組織体をつくれ」と釈迦自身が説いております。
 そうしなければ、近代社会において、大勢の人が効果的に、また、いろいろな伝達や指導が徹底できようはずがないのです。ただし、信心それ自体のことは厳格です。「日蓮大聖人様のいうとおりにしなさい」「しっかり信心して功徳を受けなさい」このこと自身については、その人のためですから厳格です。それはとうぜんでしょう。
 また、学会の組織は、なにも学会発展だけのことではなくして、大御本尊様を根本とした組織です。ですから整然としているのです。ぜんぶ組織を要約すれば大御本尊様にくるのです。大御本尊様を根本として全学会員がしあわせになろう、ひとりももれなく指導を間違えないようにしあわせにさせていこう、そのための組織です。
 したがって、創価学会の組織こそ和合僧であり、世界最高であり崇高な組織体であると私は信ずるのですけれども、どうでしょうか。
6  したがって、いまだかつて全世界にないものが創価学会なのです。批判のしようがないのです。だから、しようがないから、いまだかつてないために、なんとか過去のことに結び合わせてやっていこうと、こういう論法なのです。したがって私どもは、だれびとからなんといわれようが、紛動されてはなりません。批判した人が私たちをしあわせにはしてくれません。
 大御本尊様をだきしめて、なんだかんだいっているあいだに、すぐに一生が終わってしまうのではないですか、そうでしょう。一年、二年、自分自身が、もう皆さん方も功徳を受けていらっしゃることはどうぜんでありましょうけれども、もう一歩、もう二歩、深く信心をし、また日蓮大聖人様の仏法を守りきって、また他の哲学や思想も比較検討しなさい。これしか絶対にないということを天下にいいきって功徳を受け、そしてまた死んでいこうではありませんか。
 その功徳は、自分自身の永遠の生命からも永遠に功徳となるのですし、子孫末代までも、ぜんぶ回向されるのです。なにもムダがないのです。ほかの世界のことは、ぜんぶなにかムダがあります。創価学会だけは、なんにもムダがないし、行き詰まりがないのです。これが御本尊様の功徳、大御本尊様のお力なのです。そのお力は宇宙大であり、永遠のものです。あとは皆さん方の信心です。
 きのうも、冗談の話のついでではありましたけれども、柏原先生がいっしょにきた方々と話をして、ひとりひとりに「悩みがありますか」と聞くと「あります」と。「幾つある」「たくさんあります」というふうにどんな幹部でも皆、悩みがあるのです。「煩悩即菩薩」です。悩みがなにもなくなるなどということはウソなのです。
 それは、悩みをなくしていくための信心ではありますが、自分の悩みがなくなってくると所願満足してくると、今度は人を救おう、あの人をなんとかしてあげよう、日本の国をなんとかしようというふうに、やはり悩みはつきものでしょう。
 だが、その悩みをゆうゆうと見おろし、その悩みを土台として変毒為薬していく、こうなれば行き詰まりがないのです。ぜんぶ変毒為薬、変毒為薬で、そして功徳をどんどん積んでいく、宿命転換をしていく、これが日蓮大聖人様の仏法であり、大御本尊様の力なのです、功力なのです。
 その原理さえわかって信心していれば、もう楽しいのです。ところが信心が弱い、生命力がないと、今度は悩みに引きずられてしまうのです。「こんなに信心したのに……」と。こんなに信心したのにというけれども、どういう信心をしたか。そうでしょう。原島先生より余計に信心したか、柏原先生より余計に信心したか、石田先生より余計に信心したか、このように相対的に考えれば、すぐにわかるではありませんか。
 それから日蓮大聖人様が、皆さん方も宿命と戦っていると思いますが、どうしても自分は大きく宿命転換をしなくてはならないのだ、勝負をしなくてはならないのだ、こういう背水の陣にたった人は、また、そういう立ち場になっている方々は、とくに、大聖人様の「ぬれる木に火をつけて燃やすがごとく、乾ける大地を掘って水を出すがごとく、強盛なる信心をしなさい」こういうおおせがございますけれども、ぬれたる木に、火をつけて絶対に燃やしてみせるぞ、乾ききったサバクを掘って水が出るわけはないけれども、絶対に出してみせるぞという強い信心を奮い起こして、実践力を奮い起こして自分自身の、この肉団にある功徳を出していただきたい。宿命をりっぱに打開しきっていっていただきたいことを、声を大にして申し上げて私の激励といたします。

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