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日蓮大聖人・池田大作

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声高らかに唱題 奄美大島会館入仏式

1963.6.22 「会長講演集」第9巻

前後
1  たいへんにお元気な姿を拝見しまして、私もひじょうにうれしい気持ちでいっぱいであります。
 本日は、杉崎御尊師の御導師をいただきまして、厳粛のなかにも、なごやかな落慶入仏式ができえましたことを、皆さん方とともに喜ぶものでございます。おめでとうございました。
 ただいまお話がありましたごとく、昨日、徳之島へ着きました。私はどこへ行っても出迎えをいただくなどということは禁止をしているのです。皆さん方もお忙しいし、とうぜん皆さん方の会長として、メッセンジャーのごとく働くのはとうぜんであると、こういう気持ちでありますゆえに、出迎えは受けないことになっておりましたけれども、きのうは徳之島の飛行場へ降り、それからまた汽車に乗ってこちらへきたわけでありますが、数百人以上の同志の元気な姿を見まして、この島にもこれだけの同志がふえてきたか、大御本尊様を受持して、地涌の菩薩を自覚して広宣流布に活躍する人々がふえてきたかと、このことを思って「たしかに広宣流布はもう間近にやってきた」「いまが広宣流布だ」こういう気持ちがいたし、そこまで戦い抜いてくださった皆さん方、先輩の幹部の方々に、深く敬意を表するものでございます。
2  会館ができて、いつも私は期待することがあるのです。それは会館以上に、皆さん方がりっぱな家にはいっていただきたい、りっぱな家庭を築いていただきたい。
 このことであります。同じ大御本尊様を受持し、同じ人間として同じ題目を唱えている私どもであります。大御本尊様の功徳は平等であります。したがって「願いとしてかなわざるはなし」です。「祈りとしてかなわざるはなし」の、この大御本尊様の功力であります。「自分はもう、こういう宿命だからいい家なんかにはいれないだろう」「自分はもう、こういう生活でやむをえないだろう」というような諦観主義ではなくして、あくまでも希望を強くもち、宿命転換に強い信心をいだいて「自分こそ日本一の幸福者である」「日本一の生活をしている者である」という実証をば、ひとりひとりがりっぱに築いていだきたいのであります。
 大御本尊様のことについては、すでに、とうぜん皆さん方はご存知であると思います。三大秘法の大御本尊様は、日蓮大聖人様の本懐のなかの本懐であります。究竟であります。極説のなかの極説、その大御本尊様は即日日蓮大聖人様であります。
 したがって、大御本尊様のことについては、功徳聚とも申し、また輪円具足ともお説きくだされております。功徳聚ということは、全宇宙の功徳がぜんぶ大御本尊様のなかに含まれているというおことばであます。輪円具足とは、大宇宙の法則が、ぜんぶ大御本尊様のなかにそなわっているということであります。そしてまた、その本尊は私どもの肉団のなかにあるのであります。その私どもの肉団のなかの本尊を湧現する、仏界を湧現するために、大御本尊様に南無妙法蓮華経を唱えるのであるとのおおせです。
 したがって、どんな有名人が学会のことを批判しようが、日蓮正宗のことを批判しようが、いかなる指導者が、政治家が、為政者が、学者が学会のことを批判しようとも、大御本尊様のことはまったくわからないのであります。一念三千の法則は夢だにもわからないのです。片りんだにもわからない人々なのであります。
 したがって私どもは、もったいなくも大御本尊様を受持し、日蓮大聖人様の仏法を学び、実践し事実のうえに、この偉大なる仏法を知った、仏法の、そしてまた思想界の大先駆者であるということを最高の襟度とし名誉として、前進しきっていこうではありませんか。
3  いま御僧侶が鐘をたたきました。小さく鐘を打てば小さい音が鳴り、大きく打てば大きい鐘のひびきがあるのは道理であります。同じように、大御本尊様に信心強く題目を上げ、そしてまた日蓮大聖人様のおおせどおりに折伏行に励めば、すなわち学会活動をしていくならば、その功徳は大なのであります。
 あんまり功徳がほしくないという人は、小さく鐘をたたけばいいのでありますし、静かに行動すれば、たまに行動すれば、それでけっこうなのです。なにも日蓮正宗のため、創価学会のために活躍をし、仏道修行をするのではありません。しょせんは自分自身のための信心であります。自分自身のための大功徳を受けんがために、間違いない行動をしていきなさいという和合僧こそが、ただひとつ創価学会の信心であると、私は訴えるのであります。
 自分勝手の信心をしても、信心がまっとうできようわけがないのです。そこに創価学会が仏意仏勅として立ち上がったゆえんがあるわけであります。日蓮大聖人様は「この大御本尊様に法力、仏力が含まれていらっしゃる。あとは私どもの信力と行力である」とおおせです。その第一歩の源泉は何か。それは題目を上げきることであります。
4  御書にいわく「ある生命は火を食って命をながらえていく生命もある。またある生命は、土を食って命をながらえる生命もある。ある生命は虫を食い、ある生命は水を飲み、ある生命は鉄を食い、ある生命は人の血肉を食い、またある生命は骨を食って命をながらえていくような生命、鬼神もある。いま三世十方の仏、梵天・帝釈、そしてまた地涌の菩薩はなにを食べて永遠の生命を会得し、永遠に最高の生命力を発揮し、福運をつかんでいくものを食べていくべきか。それはただ南無妙法蓮華経の五字七字である」とおおせであります。
 したがって私どもは、第一にも第二にも題目を高らかに上げ、人の何倍、何十倍も自分は題目を上げきって闘争していこう。信心即生活の原理にしていこう、源泉にしていこうとの自覚をもっていただきたい。すなわち題目を上げて、上げきっていく人こそ、その人こそ大功徳を受け、そしてまた、大指導者として大なる指揮をとりきっていける大信者であると、私は訴えるのであります。
 これからも広宣流布達成まで、まだまだつらいことも悲しいこともあると思います。だが日蓮大聖人様は「南無妙法蓮華経を唱える人は、地涌の菩薩は歓喜の中の大歓喜なり」とおおせです。絶対に地涌の菩薩が最後の勝利を得ることはとうぜんなのであります。私どもをいじめ、批判した人は最後は仏罰を受けることもとうぜんであります。法罰を受けることも厳然であります。うそといおうが、信じないといおうが、法則は絶対の法則であります。現証は歴然とあります。
 「弟子等は臆病にては叶うべからず」私どもは憶病であってなりません。どうか、団結を強くもって、一生成仏をめざし、そしてまた奄美大島の広宣流布達成のその日まで、どんなことがあっても勇気ある行動をとりきって、ひとりひとりが大勝利者になりきっていただきたいことを最後にお願い申し上げまして私の激励といたします。

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