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日蓮大聖人・池田大作

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生涯、信行学に徹し 東京第三本部幹部会

1963.6.5 「会長講演集」第9巻

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1  たいへんお元気な姿を拝見して、ひじょうに私はうれしいです。元気な姿を拝見すれば、もうなにもいうことはないのです。
 だが、ひとこと申し上げておきたいことは、竹入君や館岡君や、その他の先輩の人から、はったりをかけられて元気になるのではいけないと思うのです。どんな時であっても、座談会であり指導会であり、講義をする場合でも、そしてまた、さまざまな学会活動がありますけれども、班員の人たちが皆、元気がない、だけれども、自分が行けば全員をしぜんのうちに盛り上がらせてみせるという、ひとりひとりの幹部になっていただきたいと思うのです。いいですか。ちゃんと私は知っているのです。そうとう拍手の練習をさせているなと。そういう形式などは、私はすぐ見破ってしまうのです。
 そうでなくして、しぜんのうちに、自分たちが広宣流布をしていこう、信心を燃え上がらせて、一歩前進していこうという和合僧の盛り上がりをつくっていける班長・班担さんであり、地区部長・地区担さんであり、たま支部長・婦人部長さんであっていただきたいことをお願いいたします。
2  それで創価学会の本筋は「正しい指導、正しい信仰」これしかないのです。正しい指導とはなにか。とうぜん、これは日蓮大聖人様がおしたための御書によるのであります。この御書どおりに、一分のたがいもなく指導しきっているのが学会精神であり、創価学会の指導であります。
 自分の名誉のための指導でもない。偉そうに見せるために指導でもありえない。
 利害のため、そしてまた、学会利用のための指導であってもならない。感情の指導であってもならない。いっさいが日蓮大聖人様のおおせどおり、そしてまた日蓮大聖人様の御書を、御仏智によって示した良き壇那として、そしてまた仏法の大指導者として、師匠として、牧口先生、戸田先生の出現がありましたが、それを、今度は具体的に、わかりやすく、実践的に論じ、説いてくださったのが戸田先生の指導であります。
 したがって、その指導の究極はなにか。しょせんは御本尊様になります。
 正しい信仰とはなにか。三大秘法の大御本尊様に南無妙法蓮華経を唱えきっていくことであるし、ともに信行学であります。「行学の二道がなければ、しょせんは仏法ではない」(諸法実相抄1361㌻)このようにおおせでありますゆえに、正しい信仰は、あくまでも、大御本尊様に題目を上げ、そしてまた、行学に励んでいくことです。これさえ知っていれば、あとはぜんぶ枝葉になるわけであります。大御本尊様のことについては、それはとうぜん、極中のなかに極中、究極のなかの究極、極説のなかの極説、したがって、仏法の神髄が大御本尊様であります。
 だれが否定しようが、だれが批判しようが、大御本尊様のお力はぜったいなのであります。それは皆さん方が体験していらっしゃるから、よくわかっていらっしゃると思います。と同じように、大御本尊様に題目を上げる実践、日蓮大聖人様のおおせどおりの折伏行、そしてまた教学、これだけをまじめに、だれがいわなくても、自分自身から一生涯、正しく実践しきっていけるという人が、私は正しい信仰をした模範の人であると思うのですが、どうでしょうか。その人が仏になれないわけは断じてありません。
3  ですから私は、かさねて申し上げます。どうか、後輩の人々に対して、正しい指導をしていただきたいと思います。しょせんは大御本尊様に結びつけさせるための指導であります。慈愛をもち、親身になってけっしていばらず、おごらず、組織のうえにあぐらをかいて、ごう慢無礼にならず、御本尊様へという徹底した指導をお願いいたします。
 また、その後輩がひじょうに困っている場合においては、折伏等においてひじょうに困っているような場合があったならば、厳然と守ってあげる、擁護してあげる、このような先輩であっていただきたい。
 また、正しい信仰は、あくまでも信行学であります。支部長になろうが、地区部長になろうが、理事になろうが、この信行学を忘れたならば、その人はりっぱな信者ではないのです。位だけ、組織のうえの役職だけがりっぱで、中身はカラなのです。信行学を一生涯まっとうしきって、日蓮大聖人様から「さすが、りっぱな弟子である。大信者である。大指導者である」ということをいわれるような、即それが創価学会の精神であり、学会幹部のありかたであるということを自覚し、確信してともどもに前進していこうではありませんか。

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