Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

社会人として勝利者に 京都本部幹部会

1963.5.30 「会長講演集」第9巻

前後
1  たいへんに、しばらくでございました。皆さん方の元気はつらつたるお姿を拝見いたして、私はこれ以上の喜びはございません。ひじょうに暑くて、まるで、きょうは蒸しぶろにはいっているような感じであります。にもかかわらず、さきほどから原稿を長く読んでいる姿を見て、なるたけはやく終わらせて、皆さんも涼しいところへ行っていただきたいという私の真心だったのです。
 やはり、仏法には「教・機・時・国・教法流布の先後」とありまして、その時に応じて長く話さなくてはならない時、ひとことですむ時と、そう考えても謗法ではないと私は思いますけれども、どうでしょうか。
 だからといって講義の日に講義をする人も「きょうは暑いから、会長がああいったから五分でやめてしまおう」と、聞く人も、講師の人に「もう五分間で帰りましょうよ」というような仏道修行はありえませんけれども、私としては、皆さん方が元気な姿を示しておられることは、全員が功徳に燃えている姿であると思いますが、どうでしょうか。
2  大御本尊様から功徳を受けて、元気いっぱいに、物心ともにしあわせになっていれば、それ以上はありえないのです。その意味で「私がきた時ぐらいはかんたんにして、楽しい歌でも歌い、指揮でもとって終わりたい」と、このように、じつは原島先生といっしょに、車で話してきていたところ、明治天皇の「教育勅語」みたいなものが始まったものだから「もうけっこうではないか」と、こういったわけで、けっして同志がけんかしたわけではありませんから、ご了解してください。
 また中尾さんも、宮下さんも、私も大好きな人でありますし、絶対信頼している理事でありますゆえに、ところかまわずになんでもいうのです。おふたりとも参議院議員であり、市議会議員でありますもので、国会や市議会で大演説をしている姿を、なかなか皆さん方に見てもらえないもので、きょうは見ていただきたいという心があったと思うのです。
 したがって、聞かされるほうは、暑くてたいへんですけれども、せんじつめてみれば王仏冥合の姿をしたわけです。それで私は、ただひとこと申し上げたいのです。
 ということは、一生涯、大御本尊様を離れない。どんなことがあっても大御本尊様をだきしめて、信心しきっていっていただきたい。これだけでじゅうぶんなのです。
 私も皆さん方の代表として、できうるかぎり王仏冥合をめざし、また全同志が、おおいばりで信心しきり、社会にあっても活動できるように全魂を打ち込んでまいります。私もまだまだ若いのですから、これからが私の本門です。
 また原島先生をはじめ、百何十名かの理事の方々も、全魂を打ち込んで皆さん方を守ってくださっております。私も信頼しきり、また、私を守ってくださっている理事の方々であります。大幹部の方々もそうであります。どうか安心して私とともに、一生涯進んでいっていただきたいのであります。
3  私は未熟であり、ぼんくらでありますが、日蓮大聖人様は絶対であります。大御本尊様は絶対であります。きょうも汽車でくるときに、いろいろ創価学会の批判をしている雑誌を読んでおりましたら、みんな見当違いであります。自分自身が信心せずして、なんで日蓮大聖人様の仏法がわかりますか。学会員にならずして学会の本質がわかるわけがありません。みんな見当違いで、一流の評論家等がこんなにも頭が悪いのかなと、がっかりしているわけなのです。いろいろ批判をされますが、私どもだけが日蓮大聖人様の仏法を、色心ともに身口意の三業で実践しているのです。信心のこと、仏法のことは、私どもに聞かなければわからない。それが、なんにも知らない人が創価学会のことを批判して、その人のいうことをまに受けたり、縁に紛動されるほど愚かなことはないわけでしょ、皆さん。
 したがって、仏法界の王者として、信心のこと、仏法のことだけは、われわれが教えてあげるのだという襟度と確信をもって、前進していこうではありませんか。
 そして、信心しきっていくということは、信心をまっとうするということはどういうことか。それは人生にあって、社会人として勝利者になるということです。勝利者であるということなのです。なにも創価学会だけの信心ではありません。信心できない人、信心を批判している人、弱い人たちは、せんじつめれば人生の落後者です。社会人として究極の目的を達成できえない社会の敗北者ではありませんか。
 したがって、私どもはあくまでも人生にあって、最第一の人生を歩んでいるのであると強い強い確信をもちきって、楽しみきって、人生を生きていこうではありませんか。
4  最後に、渡部学生部長は新しい任務を帯びて、兵庫本部の本部長になっていただくことになりました。新しく中尾京都本部長が就任されましたが、さきほど話がありましたように、中尾さんは話はちょっとむずかしいようで、ひじょうに親しみにくい点があるかもしれませんが、ひとたび親しんでいただき、身近にお話を願っていけば、中尾さんほどいい人はいないと、私ははっきり申し上げておきます。
 信心の点でも純粋であります。ひじょうに口ベタであったことは事実なのです。
 参議院に行ってからは、ずっとじょうずになったので、どこへ行っても長く話そうということになって、聞かされるほうがたいへんな場合がありますけれども、そのように長引くほど個人指導もしてくださるわけですが、個人指導の点においても、その人がらそしてまた、まじめさも、これも創価学会随一であります。ひじょうに生まれがいいもので、大ワクの感じを受ける人なのです。
 それに対応して、副本部長になった鳥養さんは、学会再建当時からの闘士でありますが、この方は、またひじょうにきびきびして、こまかい点まで気がつき、剛毅で中尾さんといい対照なのです。したがって、中尾本部長と鳥養副本部長がコンビになれば、学会第一の本部になることは間違いないと私は思うのです。
 どうか、関西本部のほうからきた人だなどという、そういう見方をしないで、創価学会はどこでも、みんな融合され、一体でありますから、本部長、そして副本部長を迎えて、京都にいる理事の人、大幹部の人が一丸になって、第一にも第二にも信心を根本として、幹部はいばったり、そしてまた、どなったり、気どったりしないでいただきたい。同じ御本尊様のもとにすべて平等です。私のことについても、やれ慈悲が深いとか、おつかえするなどと、ぜんぶそういうおせじを使われても、私はなんとも思わないし、えらく困っているのです。
 そういうことは創価学会にはないのです。ぜんぶ御本尊様が根本であり、その御本尊様を根本として、王仏冥合に進んでいくその指導者が私なのです。仏法の指導者という意味には、いちおうはなりますけれども、そういうわけであって、ことばのゼスチュアなどということは、私には必要ないのです。
 ただ大御本尊様を根本として、幹部は後輩に対して真心をこめて、親身になって大御本尊様の偉大さを知らしめていただきたいし、宿命を転換する原動力を与えていただきたい。また、後輩の人々は法を求め、そしてまた、自分自身が大成長して、幸福になるために、自分自身のために批判とか怨嫉などは乗り越えて、仏道修行をしきっていっていただきたい、一人前の大確信のある学会員になってもらいたい、社会人になってもらいたいということだけが、私の念願でありますから、どうかその点を留意していただいて、しっかり、ともどもがんばっていきましょう。

1
1