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日蓮大聖人・池田大作

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「宝珠」とは御本尊様 富士会館落成入仏式

1963.5.5 「会長講演集」第9巻

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1  たいへんに、この一か月間、戦いに戦いを進めて、中部の大勝利を博してくださり、まことにご苦労さまでございました。
 まず、本日の富士会館大仏落成式にあたりまして、わざわざご導師をいただきました渡辺先生に、あつく御礼申し上げます。
 この会館の使用等、ならびに会館設立の意義については、原島先生ならびに理事の方々からお話があったとおりであります。それで、いまもお話がありましたが、富士会館、富士宮会館、その次に沼津会館、そしてまた小田原会館をできるだけはやく造りたいというのが、来年の三百万登山に対するひとつの考えであり、ともにまた中部に対するひとつの手の打ち方であるわけでありますが、原島理事長はじめ副理事長会議にかけていただくようになっております。
 それで、中部においては、本部長が教学部長でありますゆえに、教学に関したことを、ひとこと申し上げておきます。ということは、本年初頭において御法主上人猊下より、財務部員にフクサをいただきました。そのなかに「宝珠」というご揮毫がありました。そのことについて質問を二、三受けましたもので、それをとおして申し上げておきたいと思いますが、この「宝珠」ということは「無上宝珠・不求自得」と申して信解品に説かれている経文の一節であります。
 とうぜん「無上宝珠」といえば御本尊様のことです。「不求自得」ということは信心と約していいのです。御義口伝を拝しますと、無上について「今日蓮等の類いの心は無上とは南無妙法蓮華経・無上の中の極無上なり」とあります。すなわち哲学的にいうならば、これ以上の哲学はない。宇宙の本源であり、生命の根本を救いきっていくもの、説き明かしたものが「無上の中の極無上」すなわち南無妙法蓮華経であり、その本体は御本尊であるとのおおせであります。
 どんなインテリが口で哲学を論じ、りっぱそうな理論を並べたとしても、それ自体で成仏するわけにいかないし、南無妙法蓮華経からみるならば、せんぶ序分であり、流通分の論理ならび哲学、思想の遊戯にほかならないわけなのです。なんら恐れる必要もないし、利用していけばいいわけなのです。
 「宝珠とは三世の諸仏の万行万苦」いっさいの仏さまが修行し、そしてまた福運をもっている、この万行万善の諸波羅蜜を、すべておさめたる宝であり、すなわち南無妙法蓮華経です。それは御本尊様のことです。御本尊様のことについては輪円具足または功徳聚、または無上宝珠ともいいます。いっさいの宇宙の宝物が、せんぶ含まれています。そのことばが宝珠です。
 その宝珠の宝を、今度は信心の一言によって受けるのです。受け止めるわけです。信心によって、今度はその宝を受け取る、即それは、自分自身が本尊であり、自分自身が仏であるということになるのです。それが不求自得であります。信心がなければ、御本尊様の大功徳を受けるわけにはいかない。信心の厚薄によって決定されます。
 このような意味に、御義口伝におしだためであるのを、私も拝しておりますけれども、どうか私どもは、新寺院ができ、新会館ができるごとに「絶対に大御本尊様をたもった者は、平等に仏になれるのだ」「せんぶ物心ともに幸福を確立することができるのだ」「あの人はあんなに功徳を受けたが私は少ない」「あの人はあんなに生命力が豊かで、しあわせそうだ。私は同じ学会人であるけれども、なんとなぐ不景気で、私の御本尊様には功徳はないのかしら」という、ひがんだ考えではなくして「新寺院よりも、そしてまた新会館よりも、ずっとりっぱな家も造れるのだ。そして幸福な生活をしきるのだ」との心を決めて、日本一自分自身は幸福者であるということを、天下に胸を張って、実証しきるひとりひとりになっていっていただきたいことを、心からお祈り申し上げまして、私のあいさつとさせていただきます。

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