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墓園びらきにあたって 高尾墓園開き

1963.3.30 「会長講演集」第9巻

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1  皆さん、こんにちは。皆さん方は、「どんな会長がくるか」と期待をかけておられたと思いますが、このとおりでございますから、どうぞよろしく。皆さん方のなかには「あんなちっぽけな貧相な会長ではたよりない」と。「思ったよりもたいしたことはなかった」と。「期待はずれである」とのお考えの方もたくさんあると思いますが、私は一青年の信者であります。日蓮大聖人様は一切衆生ことを大慈大悲の心をもってお救いくださっておりますが、私は私なりに大御本尊様に、せめても創価学会員だけは、指一本ささせないように、安穏に、無事に暮らしていただきたいということだけを願っておりますから、これでお許しをいただきたいと思います。
 また、皆さん方が御本尊様をいただいて、どれだけの功徳をいただいているかということを、いつも念じております。また信心弱く、また疑い多くして、大御本尊様の偉大なる大功徳を感受しえない人もいるのではないかと思うのです。そのことを思うと、胸に五寸クギを打たれるような思いがいたします。
 戸田先生がよくそのようなことを申されておりましたが、ほんとうに先生のお心がわかってまいりました。私は「それは折伏もする必要はないよ」と、悪口をいわれたり、忙しいなかを夜おそくまで人のために働いて、その苦労を考えると、そういう思いにもなります。「王仏冥合のいくさもたいへんだから必要はないよ。家で休んでいなさいよ」と個人的にはこういう気持ちにもなります。
 しかし、いっさいが私どもは成仏の源泉として、日蓮大聖人様のひとしい弟子であります。子供であります。であるならば、日蓮大聖人様のおおせどおりに、また一生成仏のためには、どうしても広宣流布をめざして、一生成仏をめざして戦わねばならない宿命であり、この点を明らかにみて、ひとつがんばっていただきたいと思うのです。
 日蓮正宗のためでもなく、創価学会のためでもなく、自分自身の永遠の幸福をはかるために「絶対に大御本尊様の功徳は、こんなに偉大である」「こんなにも自分は物心ともにしあわせになりきった」「大御本尊様ありがとうございました」とご報告ができ、また不幸の人々にも示しきっていけるまでの人間革命、仏道修行は勇敢にやっていこうではありませんか。
2  それで、このたびお墓ができまして、さきほど理事長から「おめでとうというわけにもいきませんし、けっこうでございます」といわれましたが、私はこれで墓地問題のひとつを解決ができた段階にはいったと喜んでおります。若い者が死んだあとのことを考える必要はないのですが、私の心は、それは皆さん方はうんと功徳を受けて、最後は死んでいくのですから、それはしようがありません。私が悪いのではありません。みんな死んでいくのです。だが、それよりも現実、今世が大事です。
 どれほどこの世の中を遊楽しきっていったか、楽しみきっていったか、福運を積みきっていったかというところが大事なのです。
 死んだあとのことは、子供や親せきの方がめんどうをみて、お墓をつくってくれます。自分はお金を払おうと思っても死んでいては払えません。仏法のうえでは考える必要はないと思うのです。そう思いませんか。生きていくための信心です。楽しみきっていくための仏法です。それが信心即生活の原理の大御本尊様です。
 ですから、あんまり墓のことは考える必要はないと私は思うのです。だけれども、先の先までお考えになられる方々は、それはここにもたくさんありますし、お山にもありますし、ほうぼうにつくりますから、どんどんお買いになってもけっこうです。買いだめして、あとで高く売っても、それはさしつかえありませんが、そういういやしい人にかぎって、なかなか死なない、あるいはまたは、はやく死んでしまいますよ。
 それは冗談として、ほんとうのことをいえば、墓地などはぜんぶ、日蓮正宗で無料でやってもらいたいものです。しかし、日蓮正宗はご存知のとおり貧乏です。ぜんぶ創価学会を代表して、私は御法主上人猊下に、日蓮正宗に御供養申し上げております。創価学会としては、そういう墓地の問題になどは絶対に手をつけません。
 ぜんぶお寺の問題であります。本山のことであり、宗門のことでありますから、その点ははっきりしていって、ぜんぶ御供養してございます。
 それで、私がもしか、それはやがてはとうぜん死にます。そのときは、先日も理事室と話したのですけれども、牧口先生、戸田先生はこれは特別であります。また戸田先生のお墓は、日淳猊下様が五重の塔の御前におつくりくださったことであって、猊下のお志であります。
3  だが、第三代から以降は、とくに皆さん方ぜんぶと、同じようなお墓にしたい。
 何百年も生きたいですけれども、百年も生きる人はおりません。八十年か、六十年か。何百年も生きたくても、そうはいきません。そうなったら、東京都ぜんぶを武蔵野ぜんぶを買わなくてはならないですから、そうはいきません。
 私は皆さん方の代表である。せめて理事室、または大幹部ぐらいまでは、いっしょに最後はお墓を並べたいと、それもぜんぶ同じ墓です。会長だからどうだ、理事室だからどうだ、支部長だからどうだという差別は絶対にしてはいけない。ぜんぶ平等に、広宣流布にりっぱに死んでいって、ゆっくり寝ようではないかといい残してあるのですけれども、これでいいでしょう。
 形式などということや、見え、虚栄心などということは、仏法のうえ、信心のうえでは絶対あってはならないことなのです。私はそういう気持ちでありますから、私の皆さん方を思い、広宣流布を思う一端の信心の心を、わかっていただきたいと思うのであります。
 最後に、よく日淳猊下様が「寝るのは、ゆっくりお墓で寝なさい」と、それで「あとは一生懸命勉強をしなさい。頭は生きている時にうんと使うのだよ」と、そういうお話をなさっていたそうであります。だが、それはそれとして、仏さまのご指導でありまして、私は皆さん方に、どうしても寝不足をしないでいただきたいということなのです。からだを大事にして、ずっと長生きをしていただきたいのです。

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