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有意義を青春時代を 3月度女子部幹部会

1963.3.18 「会長講演集」第9巻

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1  皆さんこんにちは。ひじょうに元気な姿を見まして、うれしいです。    
 どうか、生涯、大御本尊様をだきしめて、つらいことや悲しいことや、苦しいことも多々ある人生でありますが、題目をしっかり上げて、いつもいつも変毒為薬しきって、楽しい有意義な人生をともに生ききっていきましょう。
 先日、柏原先生が本会議で質問演説をいたしました。十三日と記憶しております。
 柏原先生としては本会議は初舞台であるし、それで、私は柏原先生があんまり背か高くありませんもので、演壇から顔が見えなくなるかなと思ったら、あくる日の新聞を見ましたら、ちゃんと顔が出ておりました。
 それで、自民党の議員も、社会党の議員も、みんな注目をしていたらしいのです。
 いままでの女性議員は、小さい声でボソボソ、話が始まるらしいのです。柏原先生が壇上に立っての第一声は「私は公明会を代表して」と大きな声であったので、自民党の議員も社会党の議員も「おおっ!」と、ひじょうにびっくりして、意外であったらしい。騒然としたらしいのです。それで柏原先生が帰ってきていわく「あれでもずいぶん遠慮したのよ」と、このように、私や原島先生にいっておりました。事実、遠慮したらしいのです。
 私は、それは皆さん方ぜんぶが議員になることは不可能であるし、必要もありませんが、柏原先生は二十二年間の信心、宿命転換をしつつ、戸田先生のもとで、また初代会長牧口先生のもとで、それこそ女性としての最大の先駆をきった闘争をしてまいりました。たくさんの有名な女性解放の人々もおります。女性もおります。
 指導者もおりましたが、柏原先生こそ私は模範であると確信いたします。皆さん方は、どうか信心を柏原先生に見習って、十年、二十年と、しっかり仏道修行をしきって人間革命しきって、柏原先生のあとにつづいて、第二、第三の柏原先生が百人、千人と女子部から出ていただきたいことを心から念願するものであります。
2  また話は違いますが、昨日は広宣流布の模擬試験十六日を記念して、第5回目の会合を日比谷公会堂で開きました。その時に私は、ちょうど集まった約二千五百名の方々に、昭和三十三年三月十六日の時には、戸田先生が豚汁をごちそうしてくださいましたもので、私も来年の三月十六日にはせめてもの祝日の記念として、青年部の楽しいお祭りの一日として、豚汁をごちそうすることを約束したのです。
 たが実際問題、青年部百万人です。百万人に豚汁のごちそうをしたならば、世界じゅうの豚がいなくなってしまう。そういうわけにもいきませんし、またそれだけ集まる会場もありませんから、男女とも三千名だけ、代表としてお山か、またはどこか郊外で、ゆっくりと将来の前進を語り、そしてまた有意義な一日を送りたいという気持ちでありますから、それでいいでしょう。
 ともに、本部の建設も八月の末にはでき上がります。来年は「世紀の大殿堂」である大客殿もでき上がります。皆さん方の代表としてせめてもと思いまして、部隊長さん方には戸田先生の歌われた、いままで出してない歌を色紙に書き、差し上げたいと思います。英語ばかりやっていたもので毛筆のほうがどうもうまくないのですが、その点は先にご了承願って、それからまた、区長さん、班長さん方にも考えております。楽しみにしていてください。
 そうなると、組長さんや組員さんも「私たちも……」と。それはみんなさし上げたいけれども、やはり先輩で戦ってきた人の順序で調べれば、百万人はどうみても出せませんから、その点もご理解願いたいと思います。いいでしょう。それはいいはずです。一銭も払うわけではないし、功徳を受けて、自由奔放にこの世界で生きて、楽しんでいけるのですから、絶対に文句のありようがないはずでしょう。
3  それで、最後に申し上げたいことは、ただいま理事長からも、その意味の話がありましたが、それは皆さん方がただの一銭ももらわず、悪口雑言されながら、尊い青春期を折伏に仏道修行に、また社会の繁栄、日本民族の幸福のために、日夜真剣に戦っております。信心した女子部員のなかにはひじょうにまた認識不足で信心弱くして皆さん方がいくら努力しても会合に出ない人もたくさんいることも知っております。「会合に出してあげたい」と迎えに行ったならば「彼氏と映画に行ってしまった」と。迎えに行ったならば「私はあんまり出たくありません」家の人にもいやな顔をされながら、寂しい顔で帰ってくる場合もあると思います。そのようなことはたくさんあると思いますが、ぜんぶそれ自体が、りっぱな自分自身の人間革命であり、福運を積む源泉であり、それ自体が折伏であるということを自覚していただきたいのであります。
 たとえ相手が聞かなくても、会合にこなくても、または講義にこなくても、それは一面は寂しいでしょうが、一面は「私としては、日蓮大聖人様のお使いとして、また友人として、まごころこめていってあげたのだ。これでいいのだ」こういう、のどかな、のびのびした気持ちで、前進していっていただきたいのであります。
 日蓮大聖人様も、また戸田先生も、どんな人間であっても、仏法を学び、信心しきっていかなければ、犬畜生にも劣るとおおせであります。二年、三年の姿においては、凡夫のつねとして皆さん方は信心しないで自由な人の姿をうらやましいように思う場合も、それはあるかもしれません。
 十年、二十年、一生涯の人生をみなさい。どんな人であっても、信心しない人は誠意がありません。前途のともしびがありません。なにかあったときに、地獄の苦しみを味わっていかざるをえないのです。どんなりっぱな主人があっても、主人はいつかは死ぬに決まっています。いくら子供があっても、子供が不良になるかもしれない。どんな宿命があるかもしれません。そう考えた場合には、しょせん信心をたもちきっていった人が、大御本尊様を受持しきっていった人が、絶対に幸福になり、勝利者になるという、ゆうゆうたる境涯で、青春時代を送っていただきたいことをお願い申し上げ、私の話といたします。

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