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日蓮大聖人・池田大作

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広布は青年のカで 第1回青年部弁論大会

1963.3.16 「会長講演集」第9巻

前後
1  たいへんに、長い時間ご苦労さまでございました。戸田先生がおられたならば、さぞかし、わが創価学会の青年部の成長、そしてまた活動に対して、心から喜んでくださることを信じてやまないのであります。
 戸田先生はよく申されておりました。「私の跡を継いで広宣流布を成し遂げるのは青年しかいない」と。きょうは老人の方はおりませんから、大きい声で申しておきますけれども「老人ではだめだ」と。「どうしても青年である」と。だからといって、青年部が老人をバカにしたり、けいべつしてはいけません。ほんとうに力のある青年は、すべてを大事にしていかなくてはならないのです。
 先生は青年に対して、特別の訓練をしてこられたことも事実でありますが、お歌のなかにも、青年部にたくさんの歌をくださいました。英語のほうばかり書いていたものですから、あんまり毛筆はうまくないのですければも、きょうは側近の青年、ならびに何人かの人に、先生の歌を書いてさしあげたのです。
 そのひとつには「若き芽の伸びゆく姿ながめつつ広宣流布の旅ぞたのしき」そしてまた、もうひとつは「辛くとも歎くな友よ明日の日に広宣流布の楽土をぞ見む」そういう歌もくださいました。
 その一連のお歌からも、戸田先生の青年に対するご指示が、しみじみと私はうかがえるわけでありますが、私はこれだけの人間です。どうか、同じく戸田門下生であり、皆さん方は戸田先生の弟子であります。広宣流布のために、そしてまた日本民族の幸福のために、平和のために、私の力のおよばないところをぜんぶ補っていただき、皆さん方の力で、おのおのの境遇で成長しきって、どうか恩師の使命を達成していただきたいことを祈るものであります。
2  私も私の立場で、諸君が前進しやすいように、戦いやすいように、活動しやすいように、この身を捨てて道を開いていく決心でありますから、どうか苦楽をともに一生涯、恩師の使命達成にがんばっていただきたいと思うのであります。
 また、さきほど映画にもありましたが、その当時としてはやむをえない状況で、戸田先生も大臣級やその他を招待しましたが、来年も大客殿ができて、何人かは、それは「一切法これ仏法」でありますから、大臣級も招待しなくてはならない場合がありますが、だが私ははっきり申し上げておきます。どんな大臣級の人が本山にこようとも、学会にこようとも、現状は、創価学会の力が偉大になってきたがゆえに、何人も何人も本山へ行かせてくれということは、一年も二年もまえから私はいわれておりますが、ぜんぶ断わっております。もしか、くるようなことがあっても、けっして皆さん方に集まっていただいたり、拍手をして迎えるようなことは、私は原則として永久にしませんから、これでいいでしょう。
 なにが政治家が偉いか。政治家ほどウソつきで、信用できないものはおりません。さきほどの藤原君や渡部君の話と私も同感であるし、それ以上に突きたい。これは私の心境です。なにをも偉いと思ってはおりません。そんなタヌキのような政治家を、大臣を、なんで私が妙法を護持して、これから日本の指導者に、世界の指導者になろうという清らかな青年に、迎えさせようなどということは、毛筋ほどもありませんから、私のこの心境を受けて戦っていただきたいと思います。
 それで、三月の十六日は、五年前において、さきほどの映画のごとく、恩師戸田先生に豚汁をごちそうになった日なのです。それで皆、元気で活動したのですけれども、同じような意味で、戸田先生に青年部が豚汁をごちそうになったわけですから、今度、私がしてあげないとケチではないかといわれてしまします。
 来年の三月十六日には、お山でもよし、またはどこかの野外で、約百万人いますけれども、百万人集まるところはありませんから、きょう集まった人数が約二千五百人ぐらい。ですかから二千五百人か三千人分だけ代表として豚汁をごちそうして、恩師をしのび、また私どもで広宣流布をしていこうという浩然の気を養いたいと思いますけれども、どうでしょうか。それを、私が個人でごちそうさせていただきたいのです。池田総理はウソは申しませんといいますが、私はほんとうにウソはつきませんから。
3  最後に、きのうは中野会館において幹部会があり、その時の御義口伝の講義をさせられてしまったのです。ひじょうにむずかしいところでありまして「如来は如実に三界の相を知見す」という御義口伝なのです。
 この如来とは、とうぜん文底から拝すれば末法の御本仏日蓮大聖人、三界とは欲界・色界・無色界です。欲望界、物質界、精神界の三界です。それを仏は「如実に知見す」――ありのままに、完全にみていらっしゃるのです。三身の哲理からいえば報身如来を説いていらっしゃるところでありますけれども、日蓮大聖人様の宇宙観、生命観であり、宇宙それ自体を如実に知見しておられるのです。また生命それ自体を一分の狂いもなく、そのままの本質を、本源をそのまま仏は知っておられるという意味の御義口伝なのです。
 私どもの宇宙観、生命観、すなわち、それから出た政治観とか、社会観とか、経済観、世界観というものは、どうしても私たちの煩悩からみた宇宙観であり、政治観であり、社会観なのです。煩悩のうえから見、また精神的な面から見るか、欲望の連続のうえからそういう見方をするか、そこに大きいあやまちがあるのです。
 過去において、何百、何千の大哲人、大思想家が出ておりますけれども日蓮大聖人様のごとく「三界の相を如実に知見す」――このように、はっきりと宇宙観、生命観、永遠の生命の実体をお説きになった方はおりません。その本体が御本尊様です。その御本尊様に題目を上げ、南無するところに、もったいなくも人間革命されて「仏法は体、世法は影」ですから、政治をとる立ち場においても、経済を運営する立ち場においても、教育をなすものにおいても、あらゆる人生の行動が、まっすぐ正しく生きていくわけです。
 したがって、本源は日蓮大聖人様の仏法をたもつか、たもたないかによって決定されるのです。いまの政治家には哲学がありませんし、日蓮大聖人様の哲学を知っておりません。ほんとうに勉強しておりません。知ったかぶっておりますが、なにも知らないといっても過言ではない。人をごまかすことだけを知っております。
 どうか、青年部の諸君は、日蓮大聖人様の御書を究明しきっていただきたい。また御本尊様をだきしめ、題目を上げて、体験しきっていただきたい。また究明しきって、絶対に世界最高の仏法である、哲学である、大功徳である、現象のうえに厳然たる証拠があるとの確信をおつかみになって、師子王のごとく、この一生をゆうゆうと、楽しく、有意義に、そしてまた人のため、社会のために働いていこうではありませんか。

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