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日蓮大聖人・池田大作

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絶対の幸福、信心のみ 1月度女子部幹部会

1963.1.6 「会長講演集」第9巻

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1  皆さん、明けましておめでとうございます。どうか、本年一年も、皆さん方はとうぜんのこと、後輩のひとりひとりにいたるまで、絶対に退転することのないように、また無事故で、楽しい一年間の、仏道修行であるように、おおいなる成長を遂げるように、まずお願い申し上げます。
 私が、入信をした直後、すなわち十五、六年前に、もうなりますが、その時に、ある中流階級の、ひじょうに虚栄高い奥さんがおりました。その人がお嬢さんを連れて、戸田先生のもとに指導を受けにきていたことを覚えております。
 そのとき、やれ、うちの娘を英語の学校に行かせるの、やれ踊りを習わせるのと、たいへんりっぱなことをいっているわけなのです。戸田先生はその当時は、会長ではなく理事長でした。学会員もほんとうに少ない勢力でありました。女子部といえば、二十人前後でしょう。二十人はいなかったかもしれません。
 戸田先生は、じっと聞いておられて「どういうことをやらせるのも、子供のためであるからよろしいでしょう。私は、指導者として、仏法の指導者として、この娘さんのことを思うためにいっておく。女学校を出て、家も信心をきちんとやっているのですから、御書の一行でもいい、二行でもいいからきちんと勉強させておきなさい」と、このように厳とした態度で、先生は指導されておりました。ですが、その指導どおりに、そのご一家はやらなかったことも私は知っています。今日になって、まさか日本の潮になり、十年か十五年で三十七万名の女子部員になるとは夢想だにもしなかったと思うのです。
 そのお嬢さんは、現在はまだ組員かもしれません。結婚しても、やはり信心が強くなかった。いい結婚ともいえないような、寂しそうな家庭におります。やっとこのごろになって、教学のほうもまじめに、真剣にやり始めたようにうかがっております。十年、十五年の開きは、それほど大きいものであるということを、私はまのあたりに感じております。
 どうか皆さん方は、自分自身の幸福のために、ぜんぶ自分自身のしあわせのために、題目を上げ、そして教学にまい進されんことを、心から切望するものであります。
 いま、どんなきらびやかな、幸福そうな女性がいたとしても、二年先、十年先、十五年先、いな一生の最後の勝負のテープを切るときに、どういう姿であるかを考えた場合に、どうしても信ずるのは、大御本尊様しかありません。日蓮大聖人様も、ただ南無妙法蓮華経とおおせです。それは政治も文化も大事であり、いっさいのことをぜんぶ構成いたします、いっさいの作法、いっさいの生活法というもの、努力も大事にしなくてはなりませんが、それだけでぜんぶ幸福になったかといえば、そうではありません。せんずるところは、ただ南無妙法蓮華経です。どんなに思案しようが、悩もうが、解決できない問題がたくさんあります。究極の人間革命は、絶対の幸福の勝利者は、ただ南無妙法蓮華経しかないという、この日蓮大聖人様の教えを、この御金言を、一生涯胸に抱きしめて、前進していこうではありませんか。
2  また、ちょうど、二、三日前に学生部で編集している第三文明の本を読みました。そなかに、何人かの人が、書籍の書評をしておりました。ちょうど江田さんが書いた「女として人間として」という本に対する批判がありました。かるく学会の女子学生に破折をされているわけであります。江田さんに対してうんぬんする理由も、それから考えも毛頭私はもっておりませんが、その本の一節に、学会のことについて、宗教のことについてふれているのです。
 そのために、その女性が反ばくしているわけなのです。その一節に「創価学会の信心は非科学的である」というようなことが書いてあります。どうも生命哲学も一般自然科学も、政策的な一つの問題等も、ぜんぶ混同して考えているらしいのです。
 それ自身が、江田さんは、非科学的なのかもしれません。
 文証、理証、現証ということを知っているか、生命哲学ということをどのように考えているか、また政策というものを、どういうふうに考えているか、その分け方がわからない、実際問題として混乱しているのです。それほどの非科学的な考え方はないはずなのです。江田さんほどの人がそうなのですから、いわんやその以下においておやです。
 したがって、一応、与えて宗教は非科学的である、アヘンであるとします。すると、今度は社会党委員長さんの河上さんは、一生懸命キリスト教をやっているそうです。聞いてみると、それ自体が矛盾です。それだけ科学、科学というならば、仏法は科学、生命科学です。道理です。最高の道理です。したがって、いっさいのものを科学的にみていく、非科学的なものに対しては、それは邪教であるとみるのが日蓮正宗の本義でしょう。
 それだけ科学的、科学的というならば、自分の党だけぐらいはもって科学的に運営したらどうか、派閥抗争ばかりではありませんか。そのように、浅い仏法観、まじめに創価学会の実態も認識せずに、非科学的に論ずる人が、過去にもおり、現在にもおりますけれども、いずれにせよ、そういう人々は、まだまだ、本質がわかっていないのです。また自分自身がわからないのです。なぜならば三大秘法の仏法を、事の一念三千の法則も知らずして、自分がわかるわけはないでしょう。そのわからない自分が、仏法の批判をしようと思うのですから、それはわかるわけがありません。そういう悪循環であります。
 いま私たちは、信心以外のいろいろな経験上の問題や知識の問題は、勉強しなければわかりませんから、謙虚な気持ちで、大いに求道心をもたなければなりません。けれども、事実あらゆる思想の根源、生命の根本、世界観、宇宙観、人生観の根源である大御本尊様のこと、日蓮大聖人様の大生命哲学のことは、私どもだけしか知らないのです。ですから、その問題については、われわれが教えていくのであるという自覚をもっていこうではありませんか。

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