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婦人部は純真を教学を 10月度婦人部幹部会

1962.10.11 「会長講演集」第8巻

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1  皆さん、こんにちは。                          
 来年の一月にアメリカの指導にまいりますが、そのときには婦人部を代表して柏原婦人部長をお願いしたいと思いますけれども、どうでしょうか。
 それで、来年のアメリカ指導に行って、現地との打ち合わせにもよりますけれども、日取りは未定でありますが、その次に、婦人部だけで、八人ないし十人ほどアメリカ方面の指導に行っていただきたいと思っておりますけれども、これもいいでしょう。
 女尊男卑ですから、男性が行ってもアメリカ方面はダメなのです。ですから、さきほども柏原先生が見えたときに、私は「プリーズ・スィット・ダウン」と、英語でちゃんと練習しておいたのです。
 まあ私、男性は、だいたい東南アジアのほうがいいらしくて、アメリカのほうは、だいたい今度は婦人部にまかせていこうと、こういう考えでありますから、まず足元をしっかり固めて、おのおの宿命と戦い、人間革命、そして家庭革命を成就しきって、大功徳を受けつつ、ひろびろとした気持ちで、日本国じゅうはとうぜんのこと、全世界に、ともに羽ばたいていこうではありませんか。
 いつもいつも、クシャクシャ、グズグズ、そういうようなグチばかりこぼさないで、強い信仰と、そして、希望を高らかにもって、自分自身も明るく、家庭も明るく、楽しくしきって、その心をもって、大きく育っていっていただきたい、こういう念願であります。これが第一のお願いであります。
2  第二番目に申し上げたいことは、さきほどからお話がありましたごとく教学の試験の問題であります。
 「行学たへなば仏法はあるべからず」どうしても一生成仏するために、人間革命をしきっていくために、折伏と教学は絶対要件であります。しかし、また日蓮大聖人様は「随力演説」おのおのの境遇、力に応じて、折伏をしていきなさい、また「力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし」このようにもおおせであります。
 したがって、ぜんぶ等しい折伏の行動、教学の力というわけにはいかないとも考えられます。したがって、婦人部の皆さん方は、とくに家庭を守り、子供をもち、男性と違い、あらゆる面でたいへんなことは事実であります。
 しかし、教学をしていかなければならないということは、これは日蓮大聖人様の弟子としてとうぜんの使命であり、義務でありますゆえに、一生懸命まじめにやっていっていただきたい。しかし、たとえ、まじめに、一生懸命に教学の道に励んだとしても、得手、不得手もあります。境遇もあります。
 したがって、試験を受けて、その人が講師、助教授になれなくても、私はけっこうであると思います。「試験を受けよう」「勉強しきっていこう」「大聖人様のおおせどおりに実践していこう」という、その心が教学です。信心です。したがって、教授になり、助教授になり、講師に、やすやすなったからといって、それをハナにかけるような婦人部の幹部があったとしたならば増上慢です。また、教学部員になれなかったとしても、その人がりっぱな幹部である場合もあります。
 戸田先生は、よく「日蓮大聖人様の御書を“知った”といえば増上慢、“知らない”といえば謗法、困ったものだ」こういうふうにおおせになっておられました。
 しょせん、婦人部の幹部の皆さん方は、教学はあくまでも純真にやりきっていただきたい。いまの時代は週刊誌の勉強時代のような、あさはかな時代であります。
 その時代に、世界最高の日蓮大聖人様の大仏法哲理を、朝な夕な勉強しきっているそれ自体が、私はりっぱな人間革命であり、婦人の大革命であり、宗教革命であると断ずるのです。
 そういうわけでありますから、勉強は一生懸命やっていただきたい、試験も受けていただきたい。しかし私の心は「うかった、うからないということは別問題である」こういうふうにいいのこしておきますから、これで安心でしょう。
3  次に、昨日、ある婦人部の幹部の方があいさつにみえまして、そのときに「うちのほうは円満にいっているか」と聞きました。そうしましたならば、ひじょうに正直な婦人であって「いや、じつはきのう、主人にしかられました」というのです。
 その家庭は、よく私は知っておりまして、主人は反対をしてきた家なのです。「なぜだ」と聞くと「きのうは一時に帰りましたもので、えらくしかられました」と、こういうわけなのです。
 「それはいけない」学会の行事は九時ないし最大限、九時半で終わりです。私は、いまだかつて、皆さん方に非常識な指導はいっぺんもしたおぼえがありません。夜おそく帰って家庭がまずくいくことはとうぜんです。「いっさいの学会行事は九時半でおしまいだ」私はこのようにいいきっております。
 非常識な行動をすれば、批判をこうむるのはとうぜんです。中間の幹部の方々や、または、いうことを聞かないで、そういう場面のおこることも多いようですけれども、学会の指導どおりにしていただくならば、それは、仏法のうえの三障四魔、三類の強敵はありますけれども、絶対、微塵も間違った指導は、私はないといいきっておきたいのですけれども、どうでしょうか。
 どうか、そういう点においても、皆さん方は後輩に対して、常識ある指導を、学会に対し不審をいだかせるような、無理な、事故を起こさせるような、そういう指導はしないようにしていただきたいと思います。仏法は道理です。信心は即生活の方程式、原理でありますから。
4  最後に、先日の幹部会で私がつくづく思ったことは、長年、ともに戦ってきた同志が、十年、十五年経て、ほとんど、戦いきった人は、大功徳に満ち、大幹部に成長してきたという事実なのです。その反対に、途中で退転し、学会を誹謗し、批判してきた人々は、内外ともに苦しい生活をし、罰の現証を如実に私どもの前に見せていることであります。仏法はきびしい。ほんとうに長い目でみると、勝敗は決定される。いわんや一生における仏道修行において、勝負において、信心した人と信心しない人、批判をした人との勝敗は、おのずから決せられることはとうぜんであります。
 どうか皆さん方も、大御本尊様をだきしめて、どんな批判をも、どんな怨嫉をも、信心第一に、絶対に信ずる者は最後は勝てるのだ、幸福という大勝利を獲得できるのである、われわれをいじめたものはかならず不幸になる、地獄に落ちるのだととの大確信をもって、進んでいっていただきたいことを切望するものであります。
 来月の幹部会の時に、また元気いっぱいにつどいたいと思います。ご苦労さまでございました。

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