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日蓮大聖人・池田大作

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聖教新聞の使命 聖教新聞社別館入仏式

1962.4.11 「会長講演集」第6巻

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1  本日は、たいへんにご苦労さまでございました。
 ただいま、理事長ならびに副理事長からお話がありまして、これ以上付け加えることはございませんが、ひとこと申し上げておきます。
 それは、目白といえば牧口先生を思い出し、目黒といえば即座に戸田先生をしのぶものでございます。その戸田先生が、なくなられる寸前に、この土地を求められまして、私も何回かお使いとして、こちらへ検分にまいりました。
 戸田先生の初めのお考えとしては、聖教新聞で、もっとも功労のあった石田主幹、それから現在の秋谷編集局長等を、この土地にありました一軒の家に入れてあげようというように考えておったわけです。しかし、石田さんも参議院議員として偉くなり、それから秋谷君も、りっぱなアパートにはいるようになりました。そういうぐあいで、その建て物はこわし、そのかわり、先生のご遺志どおりに、聖教新聞で活躍をしている職員のために、寮を造ろうというわけで、最初に寮を造りました。
 戸田先生は北海道のご出身でありますから、寮の名前も、北海道にちなんで「すずんらん寮」としよう。次に寮だけではもったいない、土地が広いのだから、もっと有効に使おうというわけで、この建て物が造られたのです。そして、その名称も戸田先生のご遺志を体し「聖教新聞社別館」といたしました。今後、創価学会としても、おおいに活用して、広宣流布の牙城にしたいと思います。
 創価学会、そして聖教新聞社と、ともに、だんだん広宣流布への牙城が、たくさんでき上がってきつつあります。しかし、いつも私どもが自覚をしていかなければならないことは、もったいなくも日蓮大聖人様は、佐渡において、また鎌倉において、身延において、あまりにもご質素なお住まいのなかに、法体の広宣流布、そしてまた尽未来際の一切衆生をお救いくださるためにも、大慈大悲の指揮をおとりあそばされたということであります。
 私どもの師匠は、そのように、あくまでも一切衆生のために活躍あそばされたというそのお住まいを、いつも私どもは考えて、どんなにりっぱな建て物ができ上がっても、その自覚を失わないで、すすんでいきたいと思います。
 ともに、創価学会の草創期においても、建て物はなにもございません。戸田先生は「自分がいるところが本部である」とおおせられ、みじんも、見えや形式にとらわれることなく、あくまでも、広宣流布の指揮をとってこられました。
 日蓮大聖人様の、まことの弟子らしい戸田先生のおふるまい、その戸田先生の弟子である私どもも、そのふるまいをいつも忘れずにすすんでいきたい、このように念願しているのです。
 また、もう一つ、この建て物をさきほどから見まして、この建て物を造るために、大工や佐官屋、屋根屋、ガラス屋、ともにおのおのの使命と責任にたって、一生懸命に自分の使命を達成したがゆえに、このようなりっぱな殿堂ができ上がりました。
 同じく、広宣流布という目的に向かって、なんでもかんでも会長がやるのだという心でなくして、ひとりひとりが、ぜんぶ地涌の菩薩とし、創価学会の幹部として使命がある「随力演説」おのおのの責任、おのおのの使命を達成しつつ、広宣流布が達成できる、成就できるのだということを私は考えたのです。
 どうかひとつ、おのおのの立ち場にたって、勇躍歓喜した「おのおのの境遇こそが常寂光土である」という喜びと確信をもって、また、あすよりがんばっていきたい。以上申し上げまして私のあいさつといたします。ご苦労さまでございました。

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