Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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全民衆を包容して 4月度男子部幹部会

1962.3.30 「会長講演集」第6巻

前後
1  たいへんに、しばらくでございました。このまえの男子部の幹部会の席に、ある人が「どうしても参加させてもらいたい」といってまいりました。それで帰りぎわに、ひじょうに感動して「これほどまじめな、純粋な、そしてほんとうに不幸の人々のためを思っている団結の姿を、私はいまだかつてみたことはない。この姿を、もし、世の指導階層が見て、まことに日本の国を救うのは創価学会しかないと、涙を流して創価学会を尊敬し、創価学会に深い敬意を表することができないような者は、指導者といえない」といって、帰った人がございました。
 なにも私どもは、ほめられるために広宣流布をするのでもなければ、信心修行に励むのでもありません。あくまでも、自分自身の一生成仏のために信心をしているのです。日蓮大聖人様のおおせどおりに、広宣流布にまっしぐらにすすんでいくのだけが、私どもの人生です。
 しかし、この乱世に、そういう人たちも、だんだんとでてきていることは事実であります。私どもは、いよいよ信心強盛に、自分自身に強い確信と自信とをもって、この社会のために、強い団結をもって、また一段と前進をしていこうではありませんか。
 このような、世界にただひとつの、まじめな、真実に大仏法の原理を奉じている創価学会に対して、たまたま聞くことばのひとつに、「日蓮正宗創価学会は排他的である」ということを聞くことがあります。私どもは、日蓮正宗の信者とし、また創価学会員としても、あくまでも社会人です。なんらそこに、排他的な行為は、いっぺんも指導したこともなければ、してもおりません。
 仏法のなかにも「四恩」といって、国の恩、一切衆生の恩と、説かれております。
 現代語でいえば、それは社会の恩です。したがって、私どもが、会社のなかで折伏をした、折伏をしたけれども友人がきかなかった。だから、もう、その人とは付き合わない。会社内において話し合いをする必要はないというような、間違った考えや偏狭な考えは、もつべきではありませんし、隣近所の人々が折伏をしたが、信心しないので、もう近所付き合いをしないという理由もないし、そういうことは道理に合いません。
 また、親せき、兄弟と、信心のことで絶交するというような必要もないわけです。
 ただし、信仰のうえ、宗教のうえにたった場合には、これは妥協はありません。
 社会の行動、生活においては、それはとうぜん協調しあっていくことは、もちろんであります。過去、釈尊の時代においても、釈尊は九十五派のバラモンを相手に、最後まで勝負を決しております。
 また像法年間においては、天台大師は南三北七の邪宗教を向こうに回して、摩訶止観が像法の法華経として最高の仏法なのである、一切衆生を救う仏法であるとして戦っております。
 伝教大師の時代においても、伝教大師は、六宗に皇帝の前で公場対決をして、勝負を決しております。妥協はありません。
 また、日蓮大聖人様も、いっさいの宗教を向こうに回して、「あらゆる不幸の本源は邪宗邪義にある。これを知れるは日蓮一人のみ」とおおせになって、一生涯、妙法流布に、邪宗邪義の撲滅に戦っておられます。
 その日蓮大聖人様のおおせどおりに、私どもは、邪宗邪義とは、一生涯戦いぬいて、勝負を決するのが、わが学会精神でなければならないと思うのです。
2  そうしますと、よくよく冷静に理知的に、私どもの行動を考えた場合に、けっして排他的にはなっていないのです。なぜかならば、全日仏とか、それから利己主義な学者とか、そういう人たちは自分たちのことだけを考えています。ほんとうに一切衆生のことは考えていません。幸福にしようという、すなおな謙虚な気持ちはありませんし、勇気もないし、法ももっておりません。
 そこへくると、創価学会は、間違った宗教では幸福になれないときびしくいっているけれども、よくよく考えてみれば、心から、不幸な人をしあわせにしてあげたい、心から、正しい仏法を教えてあげたいという真心です。毎日、毎日、そういう不幸な人を救う行動をしていることが、なんで排他的であるか! もっとも全民衆を心から包容しているのが、わが学会活動であると私は確信するのです。
 昔は、天台大師の場合でも、また伝教大師の場合でも、また末法にはいってまでも、幾分の様相は変わりましたけれども、あくまでも仏法を学し、仏法を求める人は、すなおでありました。仏法の正邪ということに対しては、あくまでも、どちらが高いか、どちらが真実かということに対する純粋性があったのです。
 今の宗教界は、そのような純粋性は、まったくなく、我執であり、また打算のため、名誉のため、伝統のため、または我見だけのために、自分自身の仏法、宗教というものに固執しているのです。したがって、いくら正邪を決していこうとしても、「東は向こうだ」というのに、「いや、おれは東はこっちだと思う」というような、西のほうをさして東というような、そういう現状になっているのです。心から仏法を求め、真実を求めきっていくという、そういう純粋性が、まったくないのです。
 したがって、第三者は、仏法ということを、いままでの、そういう間違った宗教のために、真実の仏法観をもっていませんから、ばかにしたり、迷信と思わせてしまうような、そういう思想しか残っていない。仏法といえば、宗教といえば、「なんでも同じだろう」というふうに観念的に思っているにすぎないのです。
 しかし、今、一日一日、正しい仏法を、大御本尊様を、私どもが教えていかなければなりませんが、事実のうえで、どちらが正しいかというその実相は、今、何百万の人が大御本尊様を拝んで、しあわせになっている。他の宗教は、教団は、だんだんだんだんに衰微している。「現証のうえでみても、日蓮正宗が絶対に正しい仏法である」と訴えきっていきたいのであります。
 どうか、さきほどから指導もたくさんございましたが、ひとりひとりが日蓮大聖人様の弟子として、教学をしっかり身につけ、どんな人に対しても、ゆうゆうと、そしてわかりやすく、納得させていけるだけの指導力をもっていただいて、自らも幸福になりきり、後輩の人々をもみんなしあわせにしてあげようという清らかな、そして確信に満ち満ちた、ひとりひとりの幹部になっていただきたいと、以上申し上げまして、私の話といたします。

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