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日蓮大聖人・池田大作

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大幹部の自覚 在京幹部会

1962.1.25 「会長講演集」第6巻

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1  どうも、たいへんにお忙しいところを幹部会に集まられて、まことに長いあいだ、私をはじめ、私たちのためにご心配してくださったことに対して、深く謝する次第です。
 だが、そのことはそのことで、いままでお話もありましたし、くどくど私は申し上げませんが、いずれにしても、良くても悪いことがあっても、あくまでも大御本尊様を根本として、また恩師戸田先生の大理念を、大精神を根幹として、私は進む以外ありませんし、また幹部の皆さん方に対しては、大幹部の皆さん方に対しては、同じきびしい指導は続いていきますから、よろしくお願いします。
 それで、きょうは二つのことの話をしたいのです。その一つは、これは「本因妙の仏法」という原理からみても、また、永久に、個人も、創価学会も、家庭も栄えていくべき法則としても、私たちは自覚をしなくてはならないことについて話をしたいのです。
 世の人々が、だんだんだんだん衰え、敗北していく原因は、その自覚がないからです。自覚をしようと思っても、根本は御本尊様がないから、そうなるともいえます。それは、支部長になったとします。いままでよかったから支部長になったといえばいえますけれども、それだけではまずいのです。婦人部長になったとします。
 いままで一生懸命やって婦人部長の資格ができたから婦人部長になったと、一往はいえますけれども、その考え方には大きい成長はないと私は思うのです。
 支部長になったがゆえに、これから支部長としての責任と、それから支部長としての貫録と、使命を達成していこうというところに自覚をもち、行動していくところに、ほんとうの支部長の信心がある。婦人部長も同じです。
 会長になった。とうぜん、一生懸命いままでがんばったから、功績があるから、会長になったというのではなくして、皆さん方の要望にこたえて会長になったがゆえに、会長としての責任、会長としての力、会長としての使命を達成せんがためへの努力、これをしていくところに、会長としてのほんとうのありかたがある。
 理事も同じです。その考え方を忘れたところに、大きい自分の敗北と、それから後輩に対する偉大なる信心指導の源泉がなくなっていく急所であり、的だろうと思うのです。
 「一生成仏の信心」一生涯、仏道修行をしなければならない個人個人でありますゆえに、大幹部になったのだから、これでいいのだ、大幹部に、いっさいの信心もあり、大幹部にいっさいの指導力もあり、それでいっさい後輩はいうことを聞いていくのだという考え方はやめていきたい。どこまでもどこまでも成長していく、そういう行き方をしたいと思うのです。これが、人生の大事なところなのです。
 それから次に申し上げたいことは、ちょうど御書の一節を今あけたのですが、御書はどこを拝読しても、あくまでも私たちの信心の根本指導になりますけれども、その一つとして、こういう御書があるのです。それは曾谷二郎入道殿御返事の御書の一節なのです。一節読みます。
 「ここに貴辺と日蓮とは師檀の一分なり然りと雖も有漏うろ依身えしんは国主に随うが故に此の難に値わんと欲するか感涙押え難し、何れの代にか対面を遂げんや唯一心に霊山浄土を期せらる可きか、設い身は此の難に値うとも心は仏心に同じ今生は修羅道に交わるとも後生は必ず仏国に居せん」こういう御書があるのです。
 この御書を、日蓮大聖人様がくだされた意味は、曾谷入道が鎌倉のいくさで、どうしても、自分の大名、将軍、または国主側で、くわしくわかりませんが、戦わなければならない宿命にあった。どうしても、自分として、さむらいとして、武士として戦闘しなくてはならない。それはやむをえない。これは、それに対する激励の御書なのです。
 それで、この自界叛逆難、大闘争も、日蓮大聖人様のおおせどおり、予言どおりに符合されたという段が、そのまえにあるのですが、しかし、いずれにしても、日蓮大聖人様の弟子としても、どこかの武士として戦闘しなくてはならない。その宿命を日蓮大聖人様がごらんになり、「かわいそうなものだな。しかし、信心がしっかりしていれば、必ず仏になれるのだから」という激励なのです。
 「爰に貴辺と日蓮とは師檀の一分なり」もったいなくも、日蓮大聖人様が、曾谷入道と日蓮とは師弟であるとおおせです。このおことばも「貴辺と」と、弟子のほうをわざわざ先にお書きくださった、大事にしてくださった。まことに大慈大悲の弟子を思うお心です。
 「然りと雖も有漏の依身は国主に随うが故に」有漏の依身とは、かんたんにいえば凡夫です。仏でない、悟りをえていない凡身です。また、この場合は、いくさをしなければならない武士をさしております。
 そういう宿命、立ち場であるがゆえに「国主に随う」たとえ謗法であったとしても、自分のいまでは社長にしたがうとか、または上役にしたがうとかという立ち場もいえますが、この当時としては、自分の大将にしたがわなくてはならない。「随うが故に此の難に値わんと欲するか」修羅の世界、戦争しなくてはならないというその宿命です。それを思うと「感涙押え難し」ほんとうにかわいそうだ。ことに、もう一歩、日蓮大聖人様のご真意を拝するならば、そういう戦争なんかはさせてはならない。人を殺しあうようなことは絶対させたくない。ぜんぶの人々を幸福に、平和に暮らさせてあげたいものである。王仏冥合しなくてはならないというご真意を拝することができると思うのです。その道程において、戦わねばならない曾谷入道に対するあわれを申されているわけです。
 「何れの代にか対面を遂げんや唯一心に霊山浄土を期せらる可きか」いずれにしても、仏法のつながりは永久につながっていくものです。たとえ曾谷入道が戦争によって死んだとしても、心配することはないのです。必ず、また日蓮大聖人様のもとへいっしょに生まれてこられるのです。
 「設い身は此の難に値うとも心は仏心に同じ今生は修羅道に交わるとも後生は必ず仏国に居せん」たとえ、この身はこの難にあうとも心は仏心に同じである。御本尊様を信じまいらせているという心は仏である。したがって、姿は修羅道に交わっていても、必ず「後生は仏国に居せん」仏になれるのだとの御書なのです。
 そのまえに「今生には一同に」みんな今は「修羅道に堕し後生には皆阿鼻大城に入らん事疑い無き者なり」というおことばがあるのです。今の世の中は、ぜんぶ修羅道です。したがって、われわれが広宣流布のために闘争していく、または、いろいろな境遇で苦しんで、信心しながらがんばっていく人、ともに大御本尊様を根本として、今でいえば、創価学会人であるならば、学会精神があるならば、ひとしく全員が仏になれるのだという御書なのです。
 したがって、形式的な現証にとらわれることなく、私たちはあくまで信心根本に大御本尊様のお使いとして、勇ましく、堂々と自分自身の成仏の直道に進んでいきたいと思うのです。がんばりましょう。
 この御書は、広宣流布のためであるならば、ぜんぶ成仏できるという御文です。憶する必要はないというのです。

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